なつのわすれもの

きさらぎみやび

なつのわすれもの

 忘れものをしてきたの、と真剣な顔で君は僕に言った。


「どこに?」


 僕が問いかけると、君は少し笑ってこう答えた。


「夏に。夏に忘れものをしてきたの」



 つまるところは今年の夏は一回も花火で遊ぶことが出来なかったということだったんだけど、しかし困ったことにこの近所で花火が許可されているような公園はどこにもなかった。


「いいところがあるの」


 そう言った君の顔は悪戯っぽく微笑んでいた。


 幸いにも今夜の風はまだ蒸し暑さに包まれていて、忘れものを取り戻すには十分な夜だと思えた。僕らが歩く夜道を照らす月はやけに大きくて、そこだけはもうすっかり秋だった。


 僕らが辿り着いた学校のプールにはしまい忘れたビート板が一つ転がっていて、プールサイドにはほのかに夏の残り香が漂っている。揺らめく水面には歪んだ月が浮かんでいた。


「バレたら怒られるよ」


 僕はいちおう言ってみる。ここまで来た以上すっかり共犯者なんだけど。


「大丈夫だよ。ほら、ここはちょうど建物に囲まれてるから」


 言われて辺りを見回してみると、確かにここは体育館と講堂に囲まれていて、敷地の外からは見えない場所にあった。君は手提げ袋から大きな花火セットを取りだして、プールの隅にあったバケツに水を汲む。


「花火セット、まだ売ってたんだ」

「ううん、たぶん去年買って忘れてたやつ」

「それ、もうしけってるんじゃないの?」


 試しに取り出した一本の手持ち花火にライターから火を点けてみる。

 最初はくすぶるだけだったから不安になったけど、根気よく火を近づけているとそのうちに緑色の炎を吹き出し始めた。


「良かった、大丈夫みたいだね」


 そう言って緑色の光に照らされた君の顔は頭上の月以上に輝いて見えた。

 君は花火セットからもう一本の花火を取りだし、僕の持っている花火の先端にそれを近づけて火を点ける。吹き出したのはピンクの光。


「夏だね」


 君は手元のちらつく光を見ながらつぶやいた。


「ほんとはもう秋だけどね」

「いいの。いま、ここだけまだ夏なの」


 むくれる君は持っていた花火を振り回す。

 そっちがそうならと、僕は左手にもう一本花火を持ちそちらにも火を点けた。今度はオレンジ色の光。

 いつの間にか夢中になって次々と花火をつけていった。二人ではしゃぎながら花火を両手で振り回す。僕らの目にはカラフルな残像が焼き付けられた。

 瞬く間に花火セットは空っぽになってしまった。


「あれ、もう終わり?」

「そうみたい」

「これで本当に夏も終わりかなぁ」


 プールの水面に反射する月を見て、少し寂しくなった僕はつぶやいた。夏に忘れものをしてきたのは僕も同じだったのかもしれない。

「えいっ」という声が聞こえたと思った時には、僕は塩素と夕立の匂いが混じった水の中に放り出されていた。プールの水は想像していたよりは冷たくなくて、むしろ上気した体に心地よかった。ごめんごめんと言いながら、僕に差し出された君の手を思い切り引っ張って、二人仲良くずぶ濡れになる。


 ずぶ濡れのままで二人、プールの縁に腰かけて夜空を照らす月を眺めた。

 僕は聞いてみる。


「忘れものは取り戻せた?」

「うん。たぶんずっと忘れない」


 忘れものを取り戻しに来たはずだったけど、僕らはきっと今日、それ以上の何かを手に入れていた。


 吹き抜ける風は濡れた肌にすこし冷たくて、そのまま今年の夏を攫って行ったようだった。

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