第31話 真理(2)
「そうだね。確かに。だが、星がこういう形だったらどうだ」
すると彼女は水晶玉ほどの地球儀のようなものを取り出した。その出来は精巧で、本物のようだった。……というか雲が動いている。
「え? 本物? 」
「ないしょ」
彼女は即答する。しばらくして、天野さんは星の球型の底から、丸めた包み紙を開くように地球を開いた。球形が歪み、平面になっていく。社会の地図帳でよく見る、ヨーロッパを中心としたメルカトル図法のような地図が出来上がった。
驚くべきことに、海流や雲が
「え……」
「日本はここだ」
彼女は細長い日本を指した。当然ながら、描かれた地図の右端。
信じられない光景だった。端過ぎてすぐ横から
「二、三千年くらいもつと思ってたのに、丸くするのを忘れてたんだ、ごめん」
天野さんはお風呂の蛇口を閉め忘れた子供のように謝った。
「いや……は? 」
「ほら、私、神だから」
腰に手を当てて
「え、はい……」
それ以上言葉が出なかった。星を平らにした? え?
「……中世に作られた地図を見たことがあるかい。サーペントや鯨が描かれているもの。あれは天動説、つまり、地球でなく、天が動くという前提で作られている。今や一笑に付されているけれどね。
でもね……あれはね、マジなのさ。
世界は、紙っぺらだったのさ! だから、端の海が一部干からびた。そしてユーラシア大陸と日本列島は、本当に少しだけだが、地続きになった。私すら気付かぬうちに。
その隙に、抜け目ないあの遊牧民族は大陸を制覇した騎兵で、日本全土を侵攻したんだ。死者の数はおびただしいものだった。もちろん全力で日本国民も戦った。だが、しかし、ダメだった。
この戦で、日本の王は命を落とした。一族郎党ことごとく族滅さ。
そして、神道の歴史は途絶えた。
支柱を失った日本の民は荒廃した。歴史上、初めて王を失った余波は、国中を混乱で包んだんだ。日本は、日本人は一つでいたかったんだね。だからこそ、その後渡来した宣教師が語るイエズ教に
イエズ教。僕達の国教。遠い土地で生まれた宗教だということは知っていた。中世の地図は見たことがなかったが、昔父がやっていたゲームを思い出した。長方形の世界。端まで行くと見えない壁があって、船が進めなくなる。つまり、そういうことか。
「しょ、そういうことだよ、助手」
なぜか噛みながらそう言うと、宙に浮いたメルカトル図法の地図をティッシュを丸めるようにぎゅっと潰した。手を離すと僕の知る地球が見えた。
「……とんでもない話だけど、わかったよ。ここまで来たら信じるしかない。えー……と、ずらすって、そういうこと? まさか、弓削さん達の時にも同じことを……? 」
バツが悪そうに少女は頷く。
弓削紗子が死んだときに世界は平らになり、弓削ちはるが死ぬときに球に戻った。つまり、ここ十五年前から三年前まで、世界は真っ平らだったということだ。
そして今、僕が天野さんを看破したってことは……え? また、平らになったってこと?
だが、腑に落ちない。
「……ちょっと待って。インターネットで見たけど、世界中の研究施設や観測所で、国が毎日大気や地殻に異常がないか監視しているはずだよね? 地面が真っ平らだったなんて言うの、間違いなく世界中で大騒ぎになるよ! 誰も気づかないなんて、無理に決まってる! 」
「……それはね、無理じゃない。君の、君たちの認識の枠組みが変わったから。地球──ビー玉星の仕組みと、この世界の仕組みが違うから」
「君が八千年の告白を聞いた、あの瞬間の直前。私は時間を止めて三十分くらい悩んだ。そして君の三年に何があったのかちょこっと記憶を覗かせてもらった。なーんかチャラ男っぽく荒んでしまった原因は、君のお母さんの死だとわかった。あの日、北極の極低気圧が太平洋に強烈な寒波をもたらし、それが原因の肺炎で君のお母さんは死んだ。まあ、チョイチョイっと低気圧の塊をつついてあげても良かったんだけど」
宙空に浮いた小さな地球に描かれている気流の渦をつつくと雲がぱっと消えた。
「色々と辻褄を合わせるのがめんどくさいなって思ってね。少し考えた。そして、いい手を思いついたんだ。とりあえず三年前に時間を戻して、真っ平らにした。すると、どうなるか。北極辺りにあった極低気圧が、散逸するのさ。渦の真ん中辺りからこう、ドカンとバラバラになる。科学的には、海流や海水温の変化により低気圧が急速に弱体化した、みたいな説明になるかな?とにかく、そうなれば世はこともなしさ。君のママも生き残って超ラッキー。だね」
バチリと完璧なウインクをしてみせたが、僕は曖昧に笑うしかなかった。今のは説明になっているだろうか? それでもやはり、人工衛星や観測機器はその異常を検知するのではないだろうか?
「……ふふん、疑い深いね〜。続けよう。もう少し説明する。先程、ビー玉星と真っ平ら世界は、違う枠組みの中にあると言ったね。今、この世界の大地は長方形に広がっているだけで、その凸凹に海や湖が点在してるんだ。だが、そんな状態でも機械は動かなければいけないし、人工衛星の観測データに異常が出てもいけない。街や日々の人々の生活にもなんら支障が出てはいけない」
「つまり、ビー玉星世界の科学理論を全て保証するように改変しなけばならない。それは単純な理論の改定では済まない。数学や論理の原理の改定が必要なんだ。いまやこの世界、……<地紙>とでも呼ぼうかな? 地紙では、全ての理論が地球だった頃の理論を保証するようにその根本規則から作り替えられている。それを認識する人々の意識ごとね」
さっぱり理解できそうにない。呆然としていると、可愛らしく眉をひそめて補足してくれた。
「ウーン、そうだね……たとえば今でも人工衛星は地球の周りを回って観測データを送り続けているよ。ただその地球はあくまで<地紙>であり、<周り>という言葉も、<回る>という言葉も、今までのビー玉星世界の言葉の意味とは違う。だけどその言い方は、真っ平ら世界では完璧に意味が通じる。そんな感じ」
どんな感じなのだろうかそれは。実感できなかった。ただ、聞いていてひとつ、わかったことがある。
「弓削さんたちの時と、僕の時の世界改変は、少し意味合いが違うんだね」
「……そうだね。ちはるたちの時は、そんなサービスをできなかった。二人とも友達だし……申し訳なかったと思ってる。特に、ちはる。彼女を妄執から救うためには、紗子を生かす必要があったんだ。だが、そのためには、紗子の死──つまり、紗子の時の世界改変に介入する必要があった。でも、それは、更に高位の改変が必要になる。そこまでの力は流石に持ってなくって。少し休まないと……」
創造主はしゅんと落ち込んでしまった。いや、仕方あるまい。サービスにしても分かりづらすぎる。優しさのスケールが大きすぎる。
彼女たちにとって、世界はどのように変わったのだろうか。やはり、僕と同じように五感を通すものが変化して表れたのだろうか。あのノートを思い出す。最初の方は普通に読めたのに、最後の方は、見たことのない文字が並んでいた。
あれ? でも今僕が僕だと思っている自分は、ビー玉星人のはず。ということは、もしかしたら、今なら、読める……? こんがらがってきた。
その様子を見て彼女はニヤリと笑う。
「そのとおり。君の感覚器官は、微妙に規則が変わった現実に合わせるため、一時的にバグっただけ。文字や人の言葉が一部聞こえなかったり見えなかったでしょ? その部分は、ビー玉星世界には存在しない、というか認識できない部分。
でも、一部読めたり聞こえたりしたところは、ビー玉星世界と地紙世界で共通しているところ。可視光もビー玉星の仕組みと地紙の仕組みの違いが出ていて、人間もそれに合ったものが見えている。一部の紫外線とか。聴覚も味覚も触覚も嗅覚もちょっとした違いがあって、共通しているところは知覚できたはずだよ」
それはわかる。確かに父や姉の言葉が全てわからなくなったのではなかったし、何も見えなくなったわけではなかった。だが、肝心なところがピンと来ていない気がした。
「僕が見聞きできるものと、他の人が見聞きできるものが、違うということ? 」
「そうじゃないね。君と君以外の人々の感覚器官は同じ構造だ。君だけが、私に触ったりしたから、ビー玉星世界の感覚が残ってしまっていて慣れてないだけ。もうしばらく暮らしていれば慣れたんじゃないかな?
──地紙世界と地球世界は、一部の論理体系と規則を共有している。大体のところは、同じ。だけど、天動説が惑星の運行を無理矢理説明したように、僅かなズレがあるんだ。それはその世界の論理体系で何とかそれらしく証明が可能な程度の誤差。大枠は外さない説明ができる。だけど、大地が動くのと天が動くのは全く違う世界だよね。
バタフライ・エフェクトという言葉を知っているかい? ミクロの微かな違いが、マクロの世界では大幅な差異の原因になるんだ。まして、それが数学の論理規則のような原理の違いであれば、その影響は想像もつかないほど大きなものになる。イメージできる? 」
とてつもなく難しい話だ。僕はしばらく唸った。
「頭が追いつかない……、分からない……
だが、そう、1001-1000、あの答えだけが0だった……! 」
「そう。それが一つのポイントさ。わかるかな? 助手」
彼女はいたずらっぽく笑った。
そうなのだ。ちゃんと説明はできないけど。何となくのイメージは、例えば僕の知っている地球の引き算と、地紙の引き算は、原理レベルで違う。それは他の自然の法則も同じで、微妙に違う。だがきっと。全て違うのではない。そういうことだ。だって。10001-10000や101-100は……1だった。
つまり、つまり……その差は、とても微細なレベルなのだ。うまく言えないけど、「公式の違い」レベルもあるし、公式は全く同じに見えても、実際使ってみると地球の時の結果と同じ結果が出たり、違う結果が出たりするレベルもある、そういうことか?
その様子を見て彼女は満足気に笑った。
「すごい。そんな感じだよ! 才能がある」
急に褒められて思わず口が滑る。
「1001-1000が1になるか0になるかというような僅かな規則の違いが他にもあって、それが今の世界と前の世界の仕組みや、それを感じる僕の感覚に違いを産んだということ? 」
「そのとおり! ただし、1001-1000はいわばおまけだよ」
それを聞いてはっと気づく。僕が1円を払えず冷や汗を流した記憶。もうそんなことがないように、それだけのために。星の形や物理法則どころか論理規則を変えた。彼女はそう言っているのだ。
気になっていたことを色々聞いて、僕は、爽やかな気持ちに包まれていた。心に真っ白な地平が広がり、砂粒が空に向かい零れ落ちていった。このような気持ちはなんというのだろうか。
<神聖>という語が自然と浮かぶ。
彼女は間違いなく、神だ。
「もうひとつ聞いてもいい? 立花先生のこと。
彼は、何者なの? 」
すると天野さんは押し黙った。そして、慈しむような、睨みつけるような、諦めたような……そんな今まで見たことの無い表情で僕を見る。
「……それは、きっと、いずれわかるよ」
いずれ……? その言葉の真意は理解できなかった。
「最後に、一つだけ教えて。なぜ僕にこんなことをしたの? 」
すると、あっけらかんとした表情で、彼女は答えた。
「気まぐれかな。ふふ……別の言い方をすると、君が気に入ったから。出血大サービスだって言ったでしょ。お母さんは生き返ったし、塩バターパンも七つ買えるし。良かったでしょ」
良かったでしょ、ってそういう意味か。良いわけがない!
まさに神のイタズラだ。目の前の彼女が正か邪かすらもうわからなくなっていた。だが、事ここに至ると、後悔も何もなく、不思議と心は静かだった。
「僕は結局どうなるの? 」
彼女はしばらく沈黙し、いたずらっぽく答えた。
「どうしよう? もう君を構成する要素はなくなってしまったから、人生をやり直すしかない。今ここは、地球でも地紙でも天国でも地獄でもない、狭間の世界。君が進める道は、また生まれ直すか、このままずーっと私とおしゃべりしてるか。どっちかだよ。どっちでもいいよ。君が決めてごらん」
その言葉にはまた、先程感じた不思議な感情が込められていた。
家族のことが頭に浮かんだ。父さんや母さん、姉さんに会うことはもうないのだ。生まれ変わりがあるとしても、きっと記憶はなくなるだろう。僕が生きてきた二十年そこそこの思い出が頭の中に流れ込んできた。もうそれを感じる器官がないからか、悲哀も歓喜も感じなくなっていた。ただ懐かしいという思いだけが心を満たした。
どうしようか。きっとここで彼女と会話を続けていれば、世界中の学者が
ゆっくりと僕は、言葉を発した。
「僕は──」
それを告げた瞬間、世界が光で満たされ、再構成された──
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