第30話 真理(1)

 僕の肉体は消滅していた。だが、意識だけはこれまでにないほど明晰だった。


 天野美凪は創造主だった。僕はおそれ知らずにも神を口説いたのだ。


 「創造主さま、僕は罪を犯したのですね」


僕の口はもう無かったが、意識で語りかけることが出来ると確信していた。意識に像が浮かび上がり、したり顔の少女が現れた。


 「うーん、そんなことないよ。新鮮だった。ここ数十億年で初めてかも。あんまり覚えてないけど。こんなに人間の格好してるのに、やっぱりオーラ? 出ちゃうみたい。全然誰も言い寄ってこなかったよ」


 そう言って彼女は聖母の笑みを浮かべた。あまりの神々しさに僅かに残った意識の残滓ざんしが吹き飛ばされそうになる。


 「僕は、畏れ多くもあなたを口説こうとしました。これが罪でなくてなんだと言うのですか」


 「罪じゃないよ。だって珍しかったし。それでも罪と思うなら天の御名のもと赦すから。あと、かしこまらなくていいよ、普通で! 」


彼女はあっけらかんとそう言った。

そうか。あまのみな……天の御名! 神様のギャグセンスは牧歌的……


「……君の思考は全部ダダ漏れだから」


すみません。


「……びっくりしたよね。ここからは種明かしの時間だ。なんでも聞いて」


僕は曖昧あいまいな意識のまま考えた。


「知りたいことはたくさんあるよ……一体僕には何が起きたの? 最初は僕がおかしくなったのかと思ってたけど、違う。世界が変わったんだ」


優しげな笑みを浮かべながら彼女が答えた。


「そこに気づけるところはすごいね。そう、世界が変化した。あの日からね。あの日、君が衝撃的な魔女発言を聞いたときから。



私、びっくりしたんだ。直接言われるのは初めての体験だったから。思わず時間を止めて三十分位は考えたんだよ。そして君があまりに荒んでしまっていたから、つんつんと世界の枠を揺らした。君にとって少しだけ良い世界になるように」



とんでもない話だ。




「それは、つまり、母さんを……」


「そう。来栖真里亞が死なない世界に変えた。時間を三年巻き戻して、あの日深夜に日本列島を襲うはずだった大寒波が来ないようにした。出血大サービスだよ。」


「そして、時間を三年また進めたっていうこと? でもおかしいよ。僕だけ記憶が一致しない。光子姉や母さんの記憶は、まるで僕と過した記憶があるような口ぶりだった! 」


少女がチッと舌打ちする。なんで?


「……悔しいけど、私の力は、私を看破したヤツには通じないんだよ。ほら、あの、なんだっけ、ギリシャ? あそこのもじゃもじゃおじさんが言ってた、神性を分有? するってやつ? ね」


いつの間にか僕は少し神様に近づいていたようだ。


 「でも、時間や気象を操っただけじゃないはずだ。だって僕が見える世界も変わってしまっていたよ。例えるなら、VRゲームにログインしたときみたいに」


 もう彼女に対する怒りはなかったが、どうしても確認したかった。


 「正確な言葉ではないけど、まあまあいい例えだと思うよ。君がいつもやってるローマ市民ゲーム。あの世界がそのまま現実になった。可視光の基準が変わって、物の裏側が見えたりしたでしょ? 要は、そういう風にグラフィックを作ってあるんだよ」


 これには少し得心する。


 「テレビのテロップみたいに文字が見えたのはそういうことか」


 「正確には文字は浮かんでいないけどね。君の脳が理解可能な形に補完した。そんなふうに考えるといい」


 わかったようなわからないような気持ちになった。


 「でも、途中からテロップも見えなくなったよ。あれは一体? 」


 「脳が慣れる過程だったんだね、それは。ふふふ、人間の器官は本当に面白いね」


 「食べ物は? 苦味を感じなくなっていたよ。それはつまり、苦味自体がこの世界にはないってこと? 」


 彼女は満足そうに頷いた。


 「そうだね、その通りだ。全ての生物に苦味という感覚はない。でも、ちょっとだけ教えてあげると、<♡¥~¥味>っていう違う味覚があったんだよ! 君はそれを味わう前に私に告りに来ちゃったけどね」


 彼女は小悪魔のように微笑んでみせた。僕は沸いてきた疑問をさらにぶつける。


 「耳もきっと同じようなことになったんだね。マイクのノイズやハウリングみたいな音や金属の擦り合うような、歌声のような……普通ではありえないような音が混じった。そっちも自動補正されればよかったのに」


 「音はね、耳が単純な器官だから、うまく脳が補正できなかったんだねきっと。慣れるまで時間がかかった。でもいずれは慣れたはずだよ。そんなに嫌だった?」


僕は大いに頷き、

「黒板に爪を立てて引っ掻くような不快さだった」

と抗議した。あーそれは最悪なやつだね、と耳を塞ぎながら彼女はささやく。


 「まあ、要は視覚や聴覚や味覚だけではなく、触覚も嗅覚も違う。そんなVRゲームの世界。それが今君がいる世界だ。マトリックスだろう? 」


マトリックス。有名な映画だ。そう、人間が仮想現実で生活するようになった世界の話。確かあの映画の現実は……


 チューブだらけの父を思い出した。きっと今の僕には目も口も鼻も、身体中に無数のチューブがまとわりついている。長い夢の中にいるようなものだ。


 「……魔女の呪い。つまり、それはそういうことなんだね」

 

 僕は思い直した。怪談の元となった弓削紗子、そして、弓削ちはる。彼女達は、今僕が経験したあの恐ろしい体験と同じことを経験したのだ。天野さんを看破した彼女たちは、常識の通じない異世界に放り込まれた。そして、狂ったのだ。僕がそうなりかけたように。


天野さんはしばらく黙って、口を開いた。

 

 「……そう。そういうこと。私のせい。あの時のちはるも、その前の紗子も。彼女たちは直感で私を魔女と看破した。ビビりだからね、私。びっくりしちゃって、つい、ずらしてしまった。無意識に。でも、本意じゃなかったんだ。私と彼女たちは違う存在だけど、友達だった」

 

ずらす? なんのことだろう。


天野さんは、あの儚げな少女のような雰囲気に戻った。神も人間の姿をしているのであれば、誤ることがある。彼女たちは、神様を心の底から驚かせてしまった。そういうことだ。女の勘は本当に恐ろしい。


少し沈んでしまったように見える彼女を力づけるため、僕は別の話題を振ることにした。

 

 「思い出したことがある。ヤオヨロズ事件の時だ。あのとき僕はログイン直後君の前に姿を見せなかったのにすぐに僕に気づいていたよね。あれも何か細工があったの? 」


するとにこりといたずらっ子の顔になった。


 「ふふふ、実はあの時既にゲームのハッキングは完了していたのだよ。君のIPアドレスもゲーム内位置情報も特定済み、アクセスログも普段見てるエッチな動画も、全部丸見えだったのさ」


 流石さすがだ。最後のは聞かなかったことにした。


 「今思うと、君は最初からテロリストのアジトを知っていたね。テロリストが総督の館にいるとは限らなかったはずだ。でも、一発で看破した。それもこれも、ハッキングが完了していたからなんだね」


あらためてあの楽しい時間を思い出した。アニキ、懐かしい。


「皇道……立花先生。……神道とは、結局何なの? 」


 「……日本にはね、古来、八百万の神がいたんだ。無限の神様たち。原始的なアニミズムだけど。その教えはこの小さな島国の民にとてもよく合っていた。


一人ひとり違う人間を、一つの生き物ように同質化しようとする、どうしようもない発想だった。だけど、社会に加わりさえすれば誰も飢え死にさせない、そんな優しい教えだった」


少し寂しそうに話す天野さんを見ていて、実感があまり沸かなかった。神道……どんな感じだったのだろう。もしそれが今も残っていたならば、あの見慣れた教会がなかった、そういうことなのだろうか?


そんな僕の様子を天野さんはじっと見ていた。

「あ、思いついた。物わかりが悪い君に、私がやらかしたことの大きさを分かりやすく説明できる例を。


ふふふ。十三世紀の日本の大事件と言ったら何でしょう? 」


まるでインタビューするように僕にマイクを向ける仕草を取った。


「……えー、元寇? 」

僕は記憶を掘り返しながら答える。


「正解です! 別名、文永の役、弘安の役、正応しょうおうの役というやつだ。かのモンゴル民族は三回侵略をして来た。だが、三回目の侵攻は私の落ち度としか言いようがない。彼らの最も得意とする馬による進軍を許してしまった」


「どういうこと? 」


疑問符が浮かぶ。



「海がね、干からびちゃったんだよ」



意味がわからない。



「学校の授業で聞いた元寇を思い出してごらん。彼らは最初どうやって襲ってきた? 」


「えーと、確か、船だよ。そして神風で撤退した」


「そのとおり、やるじゃないか助手。では三度目は? 」


「え……聞いたことないな。船だよね? 」


彼女はアニキのように豪快に笑った。


「不正解! 正解は、陸路だ」


「陸路!? 」

思わず仰天する。ありえない。だって日本は島国だ。海に囲まれた国だ。


「ありえないよ! 日本は島国だ。どうやって陸から侵攻するって言うんだ!? 」


彼女は溜息をひとつついてちっちっと指を立てた。


「それができるのさ。だって、海が干上がったのだから」


「海が干上がった!? もっとありえない。地球にどれだけの海水があると思うんだい? それにそんなことになったら、世界中の歴史書で大騒ぎだ! 」


 僕は動転して彼女に詰め寄った。


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