第28話 来栖アキ

 蒼い夕日を背に、僕は中央公園に向かった。彼女がどこにいるか無論知らなかったが、直感があった。あの大木のあるあの場所。そこに彼女は必ずいる。冬枯れの肌寒い芝生を横に見ながら、真っ直ぐ遊歩道を大木の方へ向かう。まだ辺りは明るかったが、公園には人一人いなかった。


 蛍のような光をたたえた大木の陰に隠れ、人影がベンチに座っている。微動だにせず、まるでそこに何百年、何千年とずっと在ったかのように彼女はいた。


徐々に距離が近づく。青黒く艶やかな髪が、なぜなのか一部緋色に輝き、神々しさすら感じた。一メートルまで近づき、しばらく様子を伺った。


「良かったでしょ」


何もかも見透かしたように彼女は話し始めた。


「……」


黙って距離を詰める。八千歳の魔女。以前彼女は自分をそう呼んだ。もはやそれは実感を持って僕の心に刻みつけられていた。だが、不思議と怒りや恐れの感情は沸き起こらなかった。意を決して目の前の老婆にまたあの質問を投げかけた。


  「君は、僕に何をしたの? 」


ふふ、と少女のような声で彼女は楽しげに笑った。


「何にもしてないよ」



以前と同じ答えだ。だが、その返答には享楽きょうらくの色が伺われた。


「五感がおかしい。景色も風の音も、僕が知っているものと変わってしまったよ」

ベンチを大回りで回り込み、彼女の顔が見える所まで歩いた。



 そこに居たのは、老婆ではなく少女だった。蒼い夕焼けを映しながら中心に黒い光をともしたその眼。なんと美しい瞳だろう。そこには宇宙が映しこまれているようにすら感じる。


「コーヒーも苦くなくなってしまった」

僕がそう言うと、彼女はその美しい相貌そうぼうをぴくりとも動かさず答えた。

「それは、大変だね」

「君に触れたときからだ」

「そうなの? 」


大きな瞳をさらに大きくしてとぼけられる。このに及んでなんと意地が悪いことか。だがその驚いた顔ですら、恐ろしく整っていた。


「それに計算もできなくなった。1001円の買い物をしたのに、なぜか1000円で買えるんだ」

すると彼女は、何言ってるの? と、曖昧あいまいな笑顔を浮かべながら首を傾げた。


「ありえないことだよね、簡単な引き算が僕にだけ出来なくなる、なんてことは。それに」

彼女は微笑を崩さずただ僕の顔を見つめていた。

「それに、亡くなったはずの母さんが生きているんだ。まだ病院にいる」

彼女は真顔になった。まだ黙っている。


「全部君に触れたときからだよ、天野さん。君がおかしな発言をしてからだよ」

 

 じっと見ていた目を、彼女は不機嫌そうに逸らした。そのまま黙ったままだ。その様子に、冷静を保とうとしていた理性が吹き飛びそうなほど脳に血が上った。


何なんだこの沈黙は! なんと意地が悪いのだ。どうして肝心なところをはぐらかそうとする? 思わず近くに詰め寄り、肩を掴んで無理矢理問いただそうとした。その瞬間、まるで普通の女の子のように彼女はたじろぎ、二の腕を震わせた。



 その様子を見て僕は冷静を取り戻した。



演技なのか演技でないのか、判断がつかなかった。もし演技でなかったのならば僕は最低の男だ。それはなんと彼女に都合のいい解釈だろうか。それほどまで魅了されていたと言わざるを得なかった。大きく一度深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。


「良かったでしょ、というのはどういう意味なの? 」

直截ちょくせつに訊ねる。彼女はまた飲み込むような視線をただ真っ直ぐに向けてきた。黙ったままだ。


 どうすれば満足できる答えが得られるだろう。強引に責めれば弱者を気取られ、直接的に訊ねれば曖昧に黙殺される。正直に起こっていることを告げれば痴呆ちほうを見るような視線で流される。この断裂は単なるコミュニケーション不全というレベルではなかった。もはや手が見つからない。僕が持っているどんなやり方をもっても攻略できそうにない。お手上げだ。


それでも、僕は、僕の精神を守るために戦うしかないのだ。弓削さん、立花先生……。何人もの人間を狂気の地獄に突き落とした、魔女の呪いに負けるわけにはいかないのだ。

 


 悶々と数分頭を巡らせる。何も思い浮かばない。勝てる気がしない。恐ろしい魔女。羽虫のような存在の僕にどんな武器があるというのか。


さらに数瞬、逡巡する。何も思い浮かばない。ああ。僕にできることなんて。できること、なんて。



追い詰められた僕は、恥ずかしいほど開けっぴろげな戦法を取った。

 

 

「もう完全降伏するよ。初めて会った時からずっと好きだった」



 刹那、彼女の顔がみるみる変わっていく。



 きめ細かく月明かりを反射していた頬は艶めきを増してガラスの光沢を放ったかと思うと人工的な工業用ゴムになり、そして朽ち果ててボロボロと地面に散乱した。


額に刻まれた皺はどんどん深くなり、空を映した瞳はたちまち老婆のくぼみを形どった。


ゴムが剥がれた頬はさらに肉が削げ落ち、頬骨の形がくっきりあらわになった。


若木のように瑞々しい腕は長時間露光撮影の早回しのようにみるみる枯れていき、首と鎖骨が十字架の形を刻みながら萎んでいく。


その姿は今まで見たあらゆる生物と比較しても憐れで醜くかった。




だが、神々しかった。





ここに来る前までの僕であれば、恐ろしさのあまり逃げ出していたかも知れない。だがもう僕は覚悟してしまっていた。


  真実を知るためなら命すら惜しくない。黄濁して膿がところどころ漏れた魔女の瞳を真っ直ぐ見て僕は言った。


「それが君の本当の姿であっても、嫌いにはなれそうにない」


  おぞましい化け物がその手で僕の顔を掴もうとする。ひりひりと硫黄のような、便臭のような臭いが鼻腔に充満した。手が近づくほどに異様な冷気が僕の頬を凍らした。されるがままに、しかし僕は視線を逸らさなかった。


唇が剥がれ落ち、歯が顕になった魔女の口と僕の唇が極限まで近づき、それが触れた瞬間、今まで経験したことがない強烈な感覚が僕を覆い尽くした。



 ドーパミン、セロトニン、エンドルフィン、アドレナリン、アセチルコリン……およそ脳内物質と呼ばれるものの全てが僕の身体中を駆け巡る。それは二回、三回、と何度も何度も僕の身体を充満した。




真っ直ぐ見たままの視界は虫眼鏡で覗く太陽光を超えた光量に失明した。


鼓膜は破れあらゆる音が頭蓋を直接揺らし無数のひび割れを引き起こした。


限度を超えた甘みが舌をとかし、一瞬で復活したと思うと干からび、脳を揺さぶるような酸味が感覚を麻痺させた。


かと思うと、針を千本刺されたかのような辛さが襲ってきた。


舌は発火して炭になった。


肌は過剰に敏感になり数億匹の虫が全身に這いずり回る感触を感じると、髪の一本一本に極めて小さな虫が噛み付いてきた。


硫酸が鼻を焼き尽くしたかと思えば、強烈な塩素が目と鼻の肉を溶かし鼻骨を顕にした。





 死を悟るまでもなく、僕は存在が消えるのを感じた。


脳が最期の足掻きとばかりに過去の記憶をザッピングする。永遠に続くかと思うほどの走馬灯が、凄まじいスピードで人生のあらゆる場面を映し出す。その全てのフレームに、彼女がいた。


少女はゆっくりとこちらに歩み寄りながら脳に直接話しかけてきた。

 



それは、驚くべき内容だった。

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