第27話 違和感
受付を済ませICUに一直線に向かった。窓の前で一心に中を見つめる光子姉がいた。僕は走ってきたので軽く息を弾ませた。息を整えながら姉の隣に立って中の様子を伺う。相変わらずチューブの数は膨大だが、心電図モニターの明滅は規則的なものになっていた。
「良かった……」
声を漏らすと、姉がほっとした様子で話しかけてきた。
「ママだけじゃなくパパも居なくなったらどうしようかと思った。でもこれで病院には楽に来れるね。|☆<℃♡♡」
相変わらず一部何を言っているかわからない。だが、僕の心は冷静だった。
「早ければ三日、最悪一週間で一般病棟に移れるかもって先生言ってたよ」
安堵した顔で姉が言う。僕は胸を撫で下ろした。
「病室は、ふふ、301号室を希望しておきました」
その発言に嫌悪感を覚える。
「え、なんで母さんと同じにするの? 意味がわからない」
姉がキョトンとした顔で首を傾げた。
「は? そんなの当たり前じゃん。 ::♡:|℃^^~∫|~|<,♡℃℃∫℃℃#♡//☆♪/♡♪? 」
さも当然というその態度に僕はイライラしてきた。悪ふざけにも限度がある。ふいっと反対を向いてその場を立ち去ろうとする僕に、姉はかっとした様子で、
「おい、あき! なんだよ! 」
と詰め寄って肩を掴んできたが、僕はパシリとその腕をはらい病院をあとにした。
冬の寒々しい空気が身体を突き刺したが、僕はまだ平静になれずにいた。
今日は家に帰ろう。明日また気持ちをリフレッシュさせてから父をお見舞いしよう、そう決心して家路に着いた。
電車に乗り、最寄り駅で降りて、明かりひとつ灯っていない家に着いた。空き家のようなその雰囲気に、僕は違和感を覚えた。そして思い出す。
京子さんだ。あの日以来動転してしまって全く余裕がなかったせいもあるが、彼女の姿を一度も見ていない。峠を越えたといえ、父があのような状態であるにもかかわらず、付き添いもしていないことに強い違和感があった。そんなことを考えた瞬間、真っ暗な家が現実感のない薄っぺらな建物のように見えてきた。背筋がまたぞくりと粟立つ。
ゆっくりと鉄製の外扉を開けて家に近づく。しんと冷えた空気がまとわりついた。音一つしない。しばらく様子を伺っていたが、鍵を取りだし玄関の鍵穴に突き刺す。かしゃりといつもの軽い解錠音が響いた。
「……ただいま」
と囁くように問いかけた。なんの返事もない。
「京子さん? どこにいるの? 」
少し大きな声で二階に呼びかけた。やはり、なんの返事もなかった。青白い照明をつけて僕はリビングの奥まった所にある京子さんの部屋に向かった。思い切って部屋のドアを開ける。月明かりが窓から弱く差し込んでいて部屋の中はうっすらと紫色の反射を返していた。
誰もいない。
作りかけの毛糸の帽子と色とりどりの毛糸玉が無造作に椅子に置いてあった。木製テーブルの上に僕と光子と父の写真が飾ってあった。五年前くらいの写真だろうか。そう言えば母も手芸が好きだった。
中に入りベッドの近くに寄って目を懲らす。京子さんとはだいぶ長い付き合いになってきたが、手芸の趣味があることは知らなかった。
しかし、病院にもおらず、家にもいないということはどういうことだろうか。ここ数日で不自然にも少しずつ慣れてきたが、また嫌な予感がしてきた。
ほかの部屋もつぶさに調べてみたが、やはり京子さんがいる様子はなかった。途方に暮れて諦め始めたのはもう夜も遅い時間で、ジャスミン茶を飲もうとキッチンに向かい、ふと玄関の靴が目に止まった。
若者向けのビビッドなスニーカー、慌てて帰ってきたような新品のローファ、使い込んだ感のあるレザー靴、そして先程自分が脱いだスニーカーが並んでいた。隅っこの方に、埃を被ったハイヒール。
数秒ほどそれらを見ていて、しっくりこないものを感じた。しばらく考え込んだが、違和感を
翌日、翌々日と父の見舞いをする。容態は徐々に良くなっているようだった。姉とは何度か顔を合わせたが、先般の件が引っかかっていたこと、また、父の様子を見ることなく、一時間に一回は彼氏と思しき相手にしょっちゅう電話をかけていたことに苛立ちを隠せず、まともに会話しなかった。
医者の見立て通り、父は三日後には一般病棟に移れることになった。
父が一般病棟に移る日、学校の講義も程々に、僕は病室に向かった。301号室。内心非常に苛立っていた。なぜ母が死んだ病室を選んだのか。
姉はいるだけでその場を華やかにするような魅力を持っている。一方で、たまに不躾で無神経な行動をすることがあった。彼女が今主催しているという「美味しい日本酒を飲む会」とやらでは許されるかもしれないが、これは家族の敏感な問題だ。客観的に考えても、今回の姉の判断は不穏当なものであった。
301号室の前にたどり着き、僕は大きく深呼吸した。ふぅ、と腹から全ての空気が無くなるまで深呼吸を続けて、苛立つ心を落ち着ける。二回ノックし、意を決してドアを開けた。301号室は二人収容可能な部屋で、ドア側と窓側にベッドが並び、父は窓側に、少し数を減らしたチューブに繋がれて寝ていた。
二つのベッドを隔てるカーテンは開けられていた。弱々しい太陽光がベッド脇の器具に反射し、部屋中を青く照らす。
僕は驚愕を隠せないでいた。魔女に会った時のように、心臓の鼓動がどんどん早くなる。
通路側のベッドに、姉がいた。だが、隣にありえない人物がいた。
母だ。
京子さんではない。
来栖真理亜。
本当の、母。僕が見舞いに行かないうちに亡くなった、あの、よく知る母だった。
あまりの事態に僕はしばらく言葉を失っていた。母はあの頃と全く同じ様子でベッドから半身起き上がり、光子と談笑していた。
「母さん……」
僕がぽつりと呟くと、母はこちらに気づき、
「あきじゃない! 久しぶりね! あれ、おかしいわ、もう何年も会ってないような気がする。そんなことないのにね……。あれ、あれ? 」
そう言うとポロポロと涙を零した。母さんの実感は間違っていない。事実、母が他界したのは数年前で、当然ながら生きている母と僕が話したのも数年ぶりだ。
姉が気遣うように母の背中をさすり、
「こないだからなんかおかしいよ、あんた? せっかくパパとママを同じ病室にしたのに怒り出して。今だって、何をびっくりしてるの。確かに最近は来てないけど、電話とかメールしてるでしょ」
久しぶりに姉の言っていることがよく分かった。つまり、母はずっと生きていて、先週も会いに来た、と。だがもちろん自分の記憶とは全く合致しない。それもこれも、見えてはいけないものが見えたり、聞こえるべきものが聞こえなかったりするこの謎の奇病によるものだろうか。しかしもはや僕はそうは思っていなかった。
おかしくなっているのは、世界の方だ。視覚、聴覚、味覚、そして恐らく触覚も……それらはきっと、おかしくなったのではない。
五感が機能不全になるような病状は確かに世界中を探せばどこかに似た症例の人がいるだろう。
しかし、まず、先ほどの大阪屋。あれはありえない。四則演算の規則が世間の常識とずれるということがあるだろうか?
引き算のような単純な規則が、1001-1という極めて限定的な計算だけ、僕の答えと世間の答えが違うのだ。それは幻覚とか幻視とか、そういうレベルの話ではない。恐らく世界中でただ一人、僕だけが1001-1の答えを知っている。それはもう計算ではないだろう。
決定的なのが母との再会だった。ここにいる母は紛れもなく生きている。姉や僕と会話し、触れることだってできる。だが、母は間違いなく三年前に死んだ。あれほど泣いた日々はなかった。姉だって父だって、地獄のような日々を過ごしたのだ。忘れるはずがない。家の場所は引っ越した後の家だったし、間取りも変わっていなかった。事実として、母は、死んだのだ。
それにもかかわらず、ここにいる。
つまりこの世界は、今まで僕がいた世界とは違う世界だということだ。それが何故なのかは今もなおわからない。
だが、誰に聞けばいいのかはわかっていた。どこに行けばいいかもわかっていた。僕はまだ涙が収まらない母の背中に静かに手を当て、あの時はごめん、と呟いた。
はっとした様子で母はこちらを見たが、僕は平静を崩さず、ちょっと外の空気を吸ってくるね、すぐ戻るから、と病室を去った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます