第26話 魔女の勝利

 ICUの前に僕と姉はいた。姉はずっと涙で顔がぐしゃぐしゃだった。


父は、あの街の図書館に向かう道で車にはねられたという。そして、あの呪われた街の、母が入院していた病院に運び込まれた。頭部を強く打ったために意識が戻らない状態が続いていた。


 僕はと言えば、心が動かなかった。というか、折れてしまった。自失と言った方がいいような状態で目に入るものがまともに認識できていなかった。


「なんでパパが……♪//~∬~~&/||/なのに! どうして……」

キャンキャンと聞き取れない耳障りな音を立てて姉がえずいていた。もうそんなことすらどうでもいい。疲れてしまった。これ以上心が死んでしまうくらいなら、いっそ感情などなくなってしまえばいいのに。



  ICUの小さな窓から、見たこともない数のチューブに繋がれた父の姿が見えた。顔には巨大な絆創膏ばんそうこうのような分厚い包帯が巻かれ、目元が全く見えなかった。腕や胴、脚も何かの固定具で繋がれ、手術着に包まれた身体は2倍程も膨れ上がって見えた。その姿は容態が絶望的であることを示していた。


 規則的な心電図モニターの光が、僕の瞼を照らす。だんだんとそのテンポがゆっくりと緩やかになっていった。ゆっくり、ゆっくり鼓動が弱まっていく。



耐えきれなくなった姉が突然顔を上げ小窓の方に歩み寄り、両手を強かにガラスに打ち付けた。



「なんで! ,/,//∬|?~♪/#/|¥~~! ☆~∬~?¥∬~~¥,¥∬#∫¥:¥?¥:~¥∬///! 

 |//#/##~∬,/?¥,/##/∬∫:¥,/,:! ∫~¥∬:,∫~¥∬:,?℃∫~¥¥|::#,℃//#℃∫∬/#,?:~?:℃∫! #~/:℃:♡;:/∫∫/?℃//?∬∫℃! ;^∬∬;^/:∬~//∫℃∫♡℃℃♡℃☆/,℃♡♡?#℃∫^////~/∬℃,℃~#</,/♡^?/~/?#~^♡♡℃∫∫☆☆/<☆/^^,℃!!! 」

 



もはや音とも言えない姉の絶叫を聞いた僕の精神は限界だった。だめだ。もういい。無理だ。やめてしまおう。そう思い立つと、身体は機械のように滑らかに動き、足は自動的に前に進んだ。


 終わらせよう。狂ってしまった世界を。父の今際に、姉にさえ寄り添えない人生を。決めた。完全に糸が切れた僕にはもう、姉の悲鳴さえ耳に届かなくなっていた。

 



 足早に病院を抜け、大阪屋の方角に向かった。最期に父も母も姉も、無論僕も大好きだったパンを食べたかった。


それを食べたら病院に戻ろう。病院の屋上に。転落死が一番楽に死ねると聞いた。そう、僕も負けるのだ。魔女の呪いに。だが、どうしろというのか。


 青紫の夕焼けが老婆の顔のように空に映り、僕を嘲笑っていた。しかしもはやどうでもいいことだった。

 


 五分もせず大阪屋の前に来た。まだ帰宅ラッシュ前の店内は人が閑散としていて、すぐに目的のものの前に着くことが出来た。塩バターパンをあの時と同じく、七つトレーに載せてレジに向かった。全部のレジを見渡したが、彼女の姿はなかった。僕は三番レジにトレーを差し出した。強面の店員がてきぱきとパンをビニール袋に詰めた。


「塩バターパン七つですね。1001円です」


デジャヴを感じ、僕は自嘲気味に笑った。そう言えばあの時、一円足りず一個戻したのだった。よく見るとあの時諌いさめられた店員ではないだろうか。顔に見覚えがあった。


僕は財布から千円札と一円を取り出し、キャッシュトレーに置いた。

「ちょうどいただきます」

そう言ってレジの人は千円札を受け取り、僕の手のひらに一円玉を返した。



 ?



 僕はその一円をまたキャッシュトレーに置き返した。店員が困惑した様子で固まった。

「ちょうどいただいているので、こちらは、あの……」

僕はキャッシャーに表示された金額を改めて見直した。間違いなく1001と表示されている。


「1001円、ですよね」

「はい、ですのでこれで」

と千円札をヒラヒラさせてみせる。


「……キャッシュバックキャンペーンとかですか? 」

「え? いえ、そういうのはやっていないですが……」

店員はますます居心地が悪そうな顔をした。

僕は、呆然と一円玉を見ていた。店員は困った様子で僕を伺っている。


「1001円だったら、千、と一円、でいいですよね」

そう言って改めて千円札と一円玉を前に出すと、全く理解できないという顔で僕の顔を直視した。微動だにしない。


その様子には、悪ふざけで人をからかうような素振りは全くなかった。そもそも、こんなからかい方をしたとして、何が面白いというのか。


「よろしいですか? 」

店員は面倒くさそうに千円札だけ取り、次の方どうぞー、と仕事に戻った。一円玉を握りしめたまま、僕はふらふらとレジから離れた。視覚や聴覚、味覚がおかしいと気づいたとき以上の違和感が僕の中を駆け巡っていた。

 


 僕は病院には行かず家に向かった。鍵を開けて真っ暗な玄関に灯りをつけ、真っ直ぐにリビングに向かった。抽斗ひきだしをガサガサとあさり、電卓を取り出した。


 一を一回、0を三回押す。小さな窓に「1000」と表示された。「+」《プラス》と「1」を押し、「=」《イコール》を押した。「1001」と表示された。安堵する。


 念のため、「-」《マイナス》を押し、一を一回、0を三回押して、最後に「=」《イコール》を押した。小さな窓に「0」と表示された。


冷や汗が流れる。

もう一度、1001を入力し、1000を引く。答えは「0」だ。もう一度やってみた。答えは「0」だった。もう一度やった。「0」だった。もう一度。「0」だ。答えは「0」。



 恐怖より混乱が先にきた。僕は101-100を入力し「=」を押した。「1」と表示された。11-10を入力して「=」を押す。「1」と表示された。また、「1001-1000」を試す。「0」だった。


 つまり、1001-1000は0なのだ。だから、店員は一円玉を受け取らなかった。そう考えるのが自然なのだ。


 だって僕の脳は魔女の呪いに冒されているのだから。


 でも、電卓で確かめると101-100も11-10も10001-10000も全て1だった。

 


 理性が悲鳴をあげる。

そんなことがあるはずがない。絶対にありえない、と。

 


 視覚異常が起きていることが原因だろうか。いや、電卓のディスプレイの錯視ではない。なぜなら、店員は1001円を1000円と認識していたのだ。だからこそ一円を受け取らなかった。それが普通であるというように。



  それにさっき1000+1を試したとき、そこには間違いなく1001と表示されていた。1を足すと1増えるが、そこから1000を引くと自動で1が減っているのだ。そんな計算はありえない。それにもかかわらず、101-100や11-10で試すと正しく引き算がされるのだ。「1」が表示される。



 試しに「1-0」を入力して「=」を押した。表示されたのは、「1」だった。1+1は普通に「2」だった。それ以外にも掛け算、割り算を試したが、問題ないようだった。


 つまり、「1001-1000」の引き算が、そのときだけ、「0」なのだ。


 もはや僕は自殺しようとしていたことを忘れていた。





 そのとき、突然携帯電話が鳴った。姉だった。応答ボタンを押した。

「あき! どこにいるの? パパが、パパが……」

動転した声に嫌な予感が過った。



「持ち直したよ! 山を越えたって! 」



身体の力がふっと抜ける感触がした。次いで、心が回復していくのを感じた。



 そう言えば、別に家に帰らなくても携帯電話の電卓を使えばよかったかも。そんなことを考えながら、急いで病院に向かった。

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