第25話 父の足掻き

 家に着くと、ほっとしたのか、急に疲れが出た。今すぐにでもベッドに倒れ込みたい気分だった。彼女の最後のあの筆舌に尽くしがたい豹変が呪いのようにフラッシュバックした。


このままでは本当に発狂してしまう。乱暴に冷蔵庫を開け放ち、ジャスミン茶をペットボトルごとひっくり返してごくごくと飲んだ。キャップも閉めず早足で浴室に入り、頭からシャワーを浴びた。どくどくと鼓動を上げていた心臓が和らいでいく。


 彼女は僕に何が起きているかわかっていた。つまり、今のこの状態は間違いなく彼女が原因だ。冷たい感覚が背中を上がってくる。心臓の鼓動がまた上がる。


ふざけやがって。一体僕が何をしたというのか。今まで恐怖で痺れていた感覚が、怒りに塗り替えられる。ふざけやがって。絶対にこの状況から抜け出してやる。どんなことをしても。

 


 頭を冷やした後もやもやした心のまま気絶するように眠り、朝を迎えた。だが、灼熱のような怒りは晴れなかった。


 二度寝して十二時頃目覚めた僕はリビングに降りてきた。ダイニングテーブルに置かれたミネラルウォーターと書かれていると思われるそれをがぶりと飲み、これからどうしようかしばらく考えた。


「おはよう」

開け放たれたドアを軽くノックする音と共に父が姿を現した。

「え、仕事は?」

思わず聞き返すと、「サボっちゃった」という答えが返ってきた。独立してから多忙を極めていた父とは思えない大冒険だ。


寝不足らしくいつもに増してクマが酷かったが、どすどすと近づいてきたかと思うと興奮した様子で話し始めた。

「調べたぞ。正直言うと、さっぱりわからなかった」

頼もしい答えだ。


「お前に起きていることは統合失調症の症状に近い。妄想知覚とか体感幻覚なんて症状もあるらしい。幻覚を見る精神病は他にもあるようだからはっきりとそうとは言えないが。だが、幻覚にも幻視、幻聴と色々あるらしいからもう少し詳しく聞かせてくれないか」

僕は頷いた。

「ありがとう。父さん☆¥#んばるよ。まず今お前は世界がどう見えているかもう一度教えてくれ。以前とどう変わったんだ? 」

 


 どのように表現しようか、少し言葉を考えた。

「うーん、見えているっていうと色々難しいけど、そうだな、なんというか前より暗い中でもものが見える気がする。あと、照明や電灯がえーと、なんというか、青が強いというか、そんな感じ」

「夜目が利く……青……」

考え込むような様子で父は僕の顔を見た。


「他はどうだ? ご飯の味がしないとか、妙なものが聞こえる、とか」

また少し考える。

「ご飯の味は……そうだな、前よりも甘味とか酸味を強く感じるかも知れない。あとコーヒーを飲んでも苦くない」


父がぽかんとした顔をした。何を言っているのか、という表情に焦燥感が募る。


「耳について言えば、実は、」

僕はごくりと息を飲んだ。

「実は、父さんや姉さんの話している言葉が一部聞き取れない」

「なんだって? 字が読めないだけじゃないのか」

父は顔をしかめた。

「父さんの話す言葉がわからないのか」

慌てて訂正した。


「いや、そうじゃないんだ。今話してる内容はわかる。ただ、たまに聞いたこともないような言語? 音? で話しているように聞こえるんだ」

すると父は泣きそうな、憐れむような顔になり、僕を見つめた。


父が急に僕の肩をグッと掴み、そのまま抱き締めた。ちょっと驚いて思わず腕で突き放してしまう。

「いや、まあ、九割以上はわかるから大丈夫だよ」

その様子を見て、父はまた、今まで見たことも無い真面目な顔で僕を見て、語り始めた。

 


「はっきり言おう。お前はやはり、うん、辛いことだけど、何かの精神症なんだと思う。そう思うのだけど、とても妙だ。統合失調症の症状とはどうも合わない。もちろん僕は医者じゃないからはっきりとした診断は出来ない。


ただ、今の状態で精神科に連れていったらきっと何かの病名を付けられて入院するだろう。だけどな、調べたんだ。前のルポで読んだ資料やそういった分野に詳しい仲間にも声をかけて電話して聞いてみた」


「今の話を聞いていると、どうも普通の症状じゃない。


抑うつや何らかのショックが原因で五感がおかしくなるという症状は確かにある。


だけどね、通常は逆なんだよ。感覚が弱くなってものが聞こえない、視力が下がる。味覚が弱くなる。普通はそうなんだ。


  だが、今のアキの話を聞いていると、視力は上がっていて、味覚は鋭くなったと言っていたよね。耳も聞こえないのではなく、聞こえているのに聞いたことの無い音が聞こえて理解ができない、と。こんな症状は聞いたことがない。


 さっき街に出た時の話を聞いたけど、アキに幻覚のようなものが見えているとは思えなかった。そして、話していてお前の中身が変わったようには思えなかった。父さんのよく知るお前だよ。間違いなく。~#~~」

思わず父を遮る。

「いや、僕は自分が狂い始めていると思ってる……今の最後だってよく聞こえなかったし」

そんな僕の告白を悲しそうに見ながらも、落ち着いた様子で父は続けた。


「ちょっとテストしてみよう。いいかい?」僕は頷いた。父は近くのものを手に取ってこちらに見せた。


「これは? 」

しゃもじだ。僕はしゃもじ、と答えた。

次に冷蔵庫を指さした。

「冷蔵庫」

父はダイニングテーブルの新聞を手に取って一面をこちらに向けた。

「どの文字が読めないか指さしてくれ」

紙面を見て僕は「国民の|¥¥~♪☆」と「|¥~,?大臣」を指さした。

「何が読めないのか文字を指してくれるか」父がそう言ったので、|¥¥~♪☆を一文字ずつ指す。そのようなやり取りを何度か繰り返した。父はずっと悲痛な眼差しで僕を見ていた。その後少しメモをしながら考えをまとめているようだった。


「だめだ、僕には規則性が見つけられそうにない。友人だけでなく、仕事で面識のある先生にも確認してみるよ。最悪病院に行こう。もちろん一緒についていくからね。しかし本当に奇妙だ。今こうして普通に話が出来ているしね。話してみて生活には支障が今のところはないようだから、お前はお前でもっと原因になりそうなことを思い出して欲しい。なんでも協力するよ」


この人が父で本当によかった、僕はそう思いながら頷いた。


「一つだけ、確信していることがあるんだ。それは彼女が間違いなく原因だってこと」

僕は、昨晩中央公園で彼女と会い、僕になにかしたことを認めたことを詳細に話した。その容貌は、さらにおぞましくなっていたことも。


 父はしばし、信じられないといった顔で絶句していた。僕の目をまじまじと見て、嘘をついているのではないかと確かめている。

「もし今アキが言ったことが本当であったら、許せないね」

意外な言葉が返ってきた。父が初めて見せた怒りの表情に僕は驚いていた。気弱で押しの弱い男だとずっと思っていた。亡き母が、あの人は普段頼りないけど、家族のためならなんでも出来る人、だから一緒になったの、と小さい頃に言っていたことを思い出した。思わず目頭が熱くなる。


「うん……ありがとう。うっ……うっ……」

僕は涙を隠すこともせず父の肩にすがりついた。父は細腕ながらも力強く僕をしっかりと抱きとめた。


  「それじゃあ、ちょっと図書館で調べ物をしてくるよ」

そう言ってそっと手を離す。

「アキ、父さんが助けるから、絶対に&?¥/てはだめだよ」

最後の言葉は聞き取れなかったが、その言葉に宿る意志に僕は勇気づけられた。行ってくるね、と言う父を幼子のように玄関まで見送った。

 



 


 その日父は交通事故にあい、家に帰ってくることは無かった。

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