第24話 お散歩
目を覚ました。まるで何事も無かったかのような朝だ。
ああ、悪い夢を見ていた。そう、僕はあの子に偶然会って、話して、抱きしめた。そして……
昨日のことを思い出した。その後とてつもなく恐ろしい出来事に出合った。だが、あれは現実だったのか。まるで世界が一瞬で変容してしまったかのようなあの出来事は。
まだ
パッケージには☆|乳と書かれていた。
悪夢は終わっていなかった。僕は足早に部屋に戻り、またベッドに倒れ込んだ。寝ればこの夢から抜け出せる。そんな微かな希望にすがって。遠くから姉の声が聞こえたような気がしたが、無視した。気絶するように脳をシャットダウンさせる。
次に目を覚ましたときは、もう夕方だった。西日に堪えかねて思わず体を起こした。もう晩秋だというのに気温が高い。腹も減った。二度と冷蔵庫を開けたくなかった僕は、そのまま街に出ることにした。
ポケットに、カッターナイフを忍ばせる。何が起きてもおかしくない。これは、自衛のための保険だ。
街全体がなぜか普段より青ざめて見える。これも病のせいか、それとも昨晩の薬がまだ効いているのか。僕はよく知る緑のコンビニに向かった。看板には「^|mily ~|<#」と書いてあるように見えた。意を決して店に入り、薄暗い店内を何周かして改めて確かめた。
ポテトチップスと思しきオレンジの袋に入ったそれには「/¥☆テト~¥/¥¥¥/~」と書かれているように見えた。ヨーグルトは「,☆#¥ると」、アイスコーヒーは「¥#~☆/~^^#」だった。……どうも読める字と読めない字がある。
頭がおかしくなりそうだ。いや既におかしいのか。そして、認めてしまった。
これが、魔女の呪い。
僕は自嘲気味に笑った。そして、プレッツェルに似た「|~¥.^,~」と書かれた見慣れたパッケージの菓子とコーヒーと思しきものを選び、レジに向かった。店員はにっこりと笑って「お預かりします」と答えた。
ふと気づいた。今持っているこの千円は使えるのだろうか? 若干の緊張を隠して千円札を出した。
「#^☆☆からお預かりします」
言っていることはわからない。
だが使えた!
良かった、このおかしな世界でもお札は使える! 思わず目が潤んでしまった。それを見て心配そうな顔で店員は僕を覗き込んだ。
「|¥☆^¥^¥&,#¥¥¥#?」
次の発言は全く聞き取れなかった。僕はあいまいに返事をして釣りをもらい、少しうつろな表情で店を出た。
開拓時代のガンマンのようにタバコを加えて繁華街に向かう。まあ、タバコといっても菓子だ。肺に影響はない。色とりどりのネオンが目に飛び込んで来たが、全てなにか青白く高温のガスのような色が混ざっているように見えた。
こうして散歩してあらためて分かったことがあった。
文字に限らず、僕の視覚がおかしくなっているということだ。普段なら認識することすら出来ない暗闇の青が見えた。そう、視界が青ざめている。見えないものが見えているのだ。いまや、残飯が溢れそうなゴミ箱の裏にいるネズミすら感じられる。フランス映画のような青みがかった視界が広がっていた。紫外線などが見えているということなのだろうか?
音だってそうだ。日本語に聞きなれない外国語が混じっているだけでなく、ノイズが入った音に聞こえる。車のクラクションですら、普通ではない。一般的にはラッパのような音だと思っているが、今聞こえるのはピアノの演奏のような、年季の入ったオルガンのような、くぐもった音だった。風の音すらなにかの楽器のような微かな旋律が聞こえた。
北風が強く吹き、身体を凍えさせた。僕は今一度自分の置かれている状況を省みた。何度も思い返してもきっかけになるような出来事が思い当たらなかった。確かに彼女の変容はショックだったのは間違いない。だが、その発言以外に何ら変わった出来事は起きていないのだ。
そう考えるとやはりあの発言の後に僕の感覚がおかしくなってしまった、というのが一番しっくりくる答えだ。あまりに突拍子もない発言に、きっと僕の頭の螺子も吹き飛んでしまったのだ。あのときの光景、感触を思い出し、また背筋が震えるのを感じた。
同じことを呪いのようにグルグル考えている自分は、確実に狂ってきている。僕はそれを自覚した。
行くところも思いつかなかった僕は、何も考えずにブラブラと街を歩いた。まだ五時を少し回った位の街並みは人が多く、心落ち着くような情景とは言い難い。自然と人混みから外れた道を歩く。めちゃくちゃに道を右に左に曲がる。夢遊病者のように一時間以上は歩いただろうか。
見慣れた通りに出た。
いつの間にか、あの街に来ている。なんの巡り合わせだろうか。
ここは確か、教会と中央公園に繋がる道だ。暗くなった道は以前よりさらに閑散としていた。
闇の中にそびえ立つ中央の大木から、ただならない気配を感じた。あの時のゾワゾワとした感覚が蘇ってきた。意識はしり込みしているのに、脚が勝手に大木の方に向かう。辺りがますます暗くなっていった。周囲には誰一人いなかった。
中央の沿道に着くころ、肌にひりつく感覚が走った。明かりひとつない漆黒の闇の中、大木の幹が年寄りの皺のような樹皮をぬめぬめと光らせていた。その前のベンチには、星あかりで辛うじて見える人影が座っていた。
そろりそろりとその影に僕は近づいた。二メートル、一メートルと距離を縮めた。直感的に彼女だと確信した。
僕は意を決して後ろ姿の彼女に話しかけた。
「僕に何をしたの? 」
静寂が訪れた。
「よかったでしょ」
その発言に僕は怒りで我を忘れそうになった。
「何が良かったんだよ! やっぱり君が、君が、魔女か! そうなんだな!? 」
僕の怒号に彼女は一言も答えなかった。
こちらを向かせて一発ひっぱたいてやりたい、そんなことを女性に対して初めて思った。
「僕に何をしたんだ? 」
さらに僕はその影に詰め寄った。彼女はぴくりとも動かなかった。風の強い日の風車のように、頭に血が上る音が実際に聞こえた。また幻聴だ。足早にさらに距離を詰めて乱暴に肩を掴みこちらを向かせようとした瞬間、彼女がこちらを振り向いた。
「何もしてないよ」
その顔は、安物のパーティ用仮面ではなかった。
……ゴムの仮面は半分引き裂かれ、中から萎びた皮膚が露わになっていた。剥き出しになった眼球が、漆黒の中でもさらに黒く僕を直視してきた。引き裂かれていない片方の目は枯れ井戸のように深い穴が空いていた。頬の皺は大木の樹皮のように幾層も重なり、一部は皮すらも削げて白い骨が見えた。下唇は半分形をなくしていて、だらりと重力に従って垂れた。
触れそうになっていた手を慌てて引っ込めて僕は仰け反った。ポケットのナイフの歯を全開にしてむちゃくちゃに振り回した。そして思い立ち、剥き出しの心臓を目掛けてカッターナイフを思い切り突き刺した。萎びたそれにナイフは当たったが、力なくポキリと折れた。恐怖に失神しそうになる。
僕は取るものも取らず後ろを振り向いて全力で走った。禍々しさを形にしたような化け物。絶対に触れてはいけないもの。地獄の魔女。僕はそのまま一度も振り返らず、全力疾走した。
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