第23話 異世界

 帰り道も覚束おぼつか無いままに僕は家に着いた。午後七時。普段なら夕飯の光が窓からぼんやりこぼれているのに、家は真っ暗だ。まだ父も姉も家に帰っていないらしい。鞄から鍵を取り出して扉を開けた。


 玄関の電灯のスイッチをつけると、紫がかった点滅を何度か繰り返して電気がついた。恐ろしい体験をしたあとだからか、何だか視界がいつもより青ざめているように感じる。


フラフラとキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてジャスミン茶のペットボトルを取り出し、そのまま一気にそれを飲んだ。冷たい感触が喉を通り胃に到達する。それと同時にあの不気味なキスの感触が頭を過り、また背筋に怖気が走った。あれはなんだったのだろう? 

 

 八千歳? 


 冗談だろう。ありえない。彼女の見た目は十八歳の少女でしか無かった。確かに疎遠にはなったが、三年彼女を知っている。老婆のような目元? ゴムのような肌? まるで現実感がなかった。ボーッと薄暗い天井に視線を移す。

 

その刹那、僕はまた背筋を震わせた。あの事件!


「八千歳の老婆」


まさか……まさか!!


 その恐ろしい考えに至ったとき、一刻も早く落ち着きたかった僕は、家族の帰宅を待ち望んだ。父や姉はいつ帰ってくるのだろう。姉は最近インターンが忙しくなったと言っていてこの時間に家で見ることはまずないが、父はどうしたのだ。いつも六時くらいには家に帰ってきていて、さして興味もないプロ野球を見ながら晩ご飯を作っているのに。



 気を鎮めるため、いつも見ている番組を見ようと、僕はテレビをつけてみた。最近流行りの山の木を全部伐採して日本固有種や絶滅危惧種を探すバラエティが流れていた。僕は動物好きだが、この番組は好きではない。


リビングでくつろいでいたところに、突然家の屋根が外れて上から巨人に見られているような気分になるのだ。自分とはかけ離れたアウトドア被れを気取った常連タレントの、自然好きアピールも好きではなかった。



 今日の出演タレントは自分の知らない面々のようだ。ディスプレイを見ていると、違和感を感じた。いや、自分はこのタレントを知っている。間違えなく見覚えがある。しかし、目や鼻や口が、覚えているものと少しずつずれている。デジャヴとは違う違和感がある。実際の映像と自分の見えている像がずれているような……



 瞬きして頭を振ってまた画面を見ると、テロップが流れた。それを見てまた僕にぞくりと冷たい感覚が走った。

 



 画面には見たことのない言語が流れていた。

 


 漢字を複雑にしたような、そう、台湾や中国の漢字に近い。だが、カタカナのレを二つ足したような字や平仮名の「し」と「め」を一緒にしたような文字は、明らかに日本語でも中国語でも台湾語でもない。ああ、ああ……


 僕はこの不可思議な文字を見たことがある。だが、最も僕の背筋を凍らせたのは、それが読めることだ。生まれてから骨身に染み付いた母国語のように、当然のように読めた。明らかにあの日本語ではないというのに。


リビングに無造作に放置された新聞を手に取ると、そこにはやはり同じような字が紙面に広がっていた。


全て読める。文字一つ一つに、僕の知る日本語が重なりあって頭の中に入ってきた。VRゲームで風景に字幕が重なるような感覚に似ていた。ただ、重ね文字のように実際のインクが重なっているのではなく、インクの上にそれを補強する弱い光の線が見えているようだった。



 玄関の方からカチャリと金属音が聞こえた。薄くドア側の照明がゆらりと揺れ、僕は固まった。

「ただいま」

聞き覚えのある声が聞こえた。


そのまま固まっていると、いつもより少し色褪せて見えるスーツに身を包んだ姉がドアから姿を現した。それを見て思わず安堵あんどした僕は、その脚にすがりついた。

「ん? あき、顔が真っ青だよ?」

怪訝けげんな顔で姉は僕の様子を伺った。固まって動けない僕の尋常でない様子を悟り、どうしたの、と背中をさすった。その声や言葉が知っているものであったことに心から安堵し、涙で濡れた顔を挙げて姉を見上げた。


「なんか変なんだ、姉さん。周りが」

その発言に姉は固まり、まじまじと僕の顔を見つめてこう言った。



「∬&∫☆&♡¥?」




 今度は僕が固まった。



「え? なんて? 」

寒々しい笑顔で返答すると、姉は途端にけらけら笑い出した。 


「∬&∫☆&♡、あー面白い」


聞き間違いではない。


彼女の発した言葉は、僕の知る言語ではない。台詞の早回しのような、外国人が話す流暢な母国語のような、知らない楽器のような、なにかだ。それは間違いなく日本語ではない。

「……姉さん」

呆然と聞き返すと、姉はそんな様子を見てさらにけたたましく笑い声をあげた。


「¥.℃&♪,~~♪~?#.^/<♪|~?」


不快なメロディのような、下手くそな楽器のような、耳障りな発声を姉は何度も繰り返した。僕は真っ青な顔を隠すようにリビングを出て足早に自分の部屋に向かった。

 


 本当にどうにかなってしまった。新聞も雑誌も見知らぬ文字が見えるし、肉親の言葉もわからない。


本棚の本を無造作に手に取り中身を見ると、やはり見たことの無い字が並んでいた。いまや、テレビのテロップで現れたあの光の筋すら見えなかった。あまりに恐ろしい体験をしたからだろうか。僕の知覚は明らかに正常に機能していない。そして、思い出すのはあの記憶だった。

 

弓削紗子━━その死の直前のノート。



 狂気。天野さんの豹変を見たときのショックに、脳が動作異常を来して、幻視、幻聴、幻覚が見えているに違いなかった。ああ、そうか。そういうことだ。



 僕は、薬棚の一番上を乱暴に引き出し、奥をがさがさと漁り、錠剤の入った小瓶を取り出した。数年ぶりに精神安定剤をバリバリと噛み砕いて飲んだ。しばらくベッドに倒れ込み、見るともなく天井を見上げる。

 



 しばらくして徐ろに僕は起き上がった。そうだ、写真だ!


 天野さんと繋がったSNSサイトを開き、メッセージのアイコンをクリックした。何件かのメッセージの下に天野さんとのメッセージがあった。彼女は以前証明写真を撮ったものを送ってくれていた、そのやり取りを探した。最近のやり取りを飛ばすと、画像が出てきた。そこに写っていたのは、あの不自然な光沢を放つ老婆だった。



 どういうことだ。少なくとも、僕の記憶の中の彼女は全くこのようなものではない。彼女は不自然に若作りした整形を施したグラビアアイドルのように不気味な笑顔を浮かべていた。彼女だけが、僕の視点では老婆になっている?



 薬のせいで朦朧としてきた意識を覚ますため、僕は再び階下に向かった。冷蔵庫を開けてまたジャスミン茶を取り出し、今度はコップに注いだ。


するとまた「ただいま」と玄関から声が聞こえた。父だ。軽い足音を立てながらキッチンに姿を現した。

「やあ、僕にもジャスミン茶をくれるかい」


 僕は、その言葉が理解できることに心から安堵した。こくりと頷き、別のコップに父のジャスミン茶を入れながら気を落ち着け、意を決してゆっくりと父に告げた。

「ねえ父さん、さっき家に帰ってから、ありえないものが見えたり聞こえたりするんだ」

と、自虐的な笑顔を父に向けた。その異常な告白に、父は動揺した表情で答えた。


「な、何を言っているんだい、アキ? 頭でも打った? 」

ああ、良かった。彼は僕のよく知る父だ。安堵すると共に深く深呼吸をして僕は続けた。


「新聞やテレビの日本語が日本語に見えなくなった。」

父は、僕の目を見つめた。怯えた声で言葉を吐き出した。


「いつから? 」

「ついさっき。ここ一時間くらいだよ」

ややあって、落ち着かない様子で父は答えた。



「そうか……まあ昔からお前は感受性が強くて繊細なところがあるからな……なにかあったのかい」


 僕はあの体験を話そうかどうか逡巡した。とても信じてもらえる気がしない。話したらきっといよいよ脳の病気を疑われるに違いない。ただでさえニート気味だった息子が元気になってきたと思った後に精神病を患ったら益々家庭環境が救われない。黙って父の目を見た。


見られるのが苦手な父はしばらく動揺を隠せなかったが、徐々に事態の深刻さを察したのか、ぽつりと

「話してみろ」

とつぶやいた。



 僕は彼女の話をした。ついさっき起きた奇妙な出来事の話をした。八千歳の老婆。魔女の正体。十数年前から、あの街で起きた事件が全て繋がっていること。父は一言も発さず僕の話に耳を傾けてくれた。そして、五分程じっと目の前のグラスを注視したあと、話し始めた。


「あの、モデルみたいな子が原因だって言うのかい? ちょっとにわかには信じがたい話だね。」

その口調には普段の気弱な様子が微塵もない。


「まず、きっかけだ。確かに、ありもしない音やものが聞こえたり見えたりするという症状は、精神疾患の症状として聞いたことがある。だけど、そうだとしても今の話はどうも違和感があるよ。そういった精神的な病はなにか強烈な出来事が原因となって発症するものだ。だが、今の話を聞くと、そんな出来事はなかった。その……魔女の話? そういったものと無理矢理話を繋げて、必要以上の恐怖に襲われている。そんなふうにも見える」

思わず僕は答えた。


「いや、だって急にお婆さんの姿になったんだ! ありえないことだよ! 」

「いや、それはそうなんだけど、違う」

「その時点で、既にたぶんアキに何か起きてしまってるんだよ。お前が見たものが幻覚だと仮定すると、その原因はなんだい」


強烈な体験? 考えてもみなかった。あっただろうか。彼女が変貌してしまう前にあった出来事は。


「八千歳なんだという発言……? 」


幽霊のような声で僕は呟いた。父はしばらく沈黙した。


「発言は確かに強烈だけど、やはり信じがたいね。うーん、他に彼女から、たとえば飲み物や食べ物をもらわなかったかい?」

「いや、特には」

「そうか……父さんはこういった事例にあまり強くはないけど、昔の同僚の話や書斎の本にヒントがないか調べてみるよ。他でもない息子のためだしね」

そう言うと、力強く僕の背中を叩き立ち上がった。


「何だか楽しそうだね」

あまりに普段のイメージと違うのでそう言うと、父はニッコリと笑顔を浮かべ、

「知らなかったかい?父さんは本当は謎や不思議が大好きなんだよ」

と答えた。その目は、魔女狩り事件の時に僕が立花先生に指摘された、怪しい輝きを放っていた。

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