第22話 世界の反転
十一月が来て夏の熱も冷め、僕は何となしに以前住んでいたあの街の駅で降りた。連日の飲み会とデートに疲れていたのか、ぼーっと何も考えず街を歩いた。
自然と足が向かったのは、病院だった。道すがら母がいた病室の窓を見つけてしまい、心が傷んだ。結局、僕は母に何をしてあげたというのか。最後までわがまましか言っていない。三年前、家族全員が精神的に限界だった。全員がこの街を訪れることを無意識に拒否していた。家族に自然な笑顔が戻ったのは、間違いなく京子さんのお陰だ。
ふと、窓から誰かの視線を感じた。思わず目を凝らすと入院着を着た女性が小さく見えた。夕日に影を作る少し痩けた頬と後れ毛が多めの前に垂らした三つ編みを見て、直感的に母だと認識した。しかし、そんなはずはない。
病院の入口の方へ走った。タクシーが一台、ロータリーから発車していった。その後ろに、先程の母の影が公園の方に向かっていく姿が見えた。僕はその姿を追った。
夜の帳が落ち始め、視界が悪くなった。母は公園の広場の方に歩いていった。そのコースは、生前の母が教会に行くときに辿っていたルートだ。何度となく一緒に歩いたから体が覚えていた。しばらく走ると中央の大木が見えてきた。周囲にはまばらに人がいて、訝しげにこちらを伺っていた。
大木の周りには円形の遊歩道が巡らされていて、円を四等分するように東西南北に道が分かれている。円の中央まで息急く走った僕は母の影を探し周囲を見回した。そして、ぽつぽつと設営されたベンチの一つに、ぽつりと座っている彼女を見つけた。およそ三年ぶりに見る天野美凪だった。
遊歩道に等間隔に置かれた灯りの下、彼女は真っ直ぐに背筋を伸ばし、眉一つ動かさず一心不乱に本を読んでいた。肩で息をしている僕には気付いていないようだった。
僕はその美しさに、追いかけていた母のことすら忘れて見入った。
時を経て、彼女はさらに美しくなっていた。五センチ位背は伸びたのだろうか。以前インタビューを受けているときと変わらない、いや、あの時以上に透明感を増した存在感。ロングストレートの髪は電灯の光を受けて碧く幻想的な輝きを放ち、絵画のようだった。僕は確信した。この時、ここで、彼女に会うために、僕は準備をしてきたのだと。母がここに連れてきてくれたのだ、と。
十五分くらいずっと見ていただろうか。僕と彼女の間に風が吹いた。美凪の細い直毛が頬にかかった。煩わしそうに顔を振ったその時目の前の僕に気づいた。大きな目をさらに大きくして凝視する。
「天野さん」
彼女は固まった。顔と名前を思い出そうとしているようだ。相変わらずだ。
「久しぶり」
真顔になった。
……あの天野さんが、頑張って思い出してくれようとしている!
「久しぶりだね」
思い出したようだ。意外にも、彼女は人懐こい猫のような顔になった。こんな彼女の顔は見たことがない。もう既にどきどきしてきていた。
「ちょっと変わったかな? 」
彼女はあざとく首を傾げた。
「……でも元気そうだね」
たちまち澄ました双眸で強く僕を見つめてくる。射抜くような眼力はさらに力を増しているようだった。以前の僕だったら既にこの時点でギブアップだった。
だが、方法を覚えた僕は賢しく返した。
「天野さん、綺麗になったね」
美凪の瞳に光が宿った。ベンチから立ち上がって少し僕に近づいてきた。
「来栖くんこそ、変わったね」
「そんなことないよ、相変わらず吃り症だし」
そう言うと、ふふ、と彼女は笑った。
「もう大丈夫になったんだね」
その微笑みは慈愛に満ちた聖母マリアのそれだった。僕の心臓がまた一つ鼓動を上げた。しばし沈黙した。
「天野さんは、元気? 」
「超元気ー」
突然バーベルを持ち上げるようなポーズを取ったので、笑ってしまった。あざといのか天然なのかわからなかった。
「ずっともやもやしてたんだ。僕のつらい時に寄り添ってくれてありがとう」
素直にお礼を言った。じっと僕を見る視線がさらに強くなった。瞳に映る灯りの反射が増えていた。
三秒ほど見つめ合ったあと、
「何もしてないよ」
とそっぽを向かれた。
攻めるべきだと直感した僕は精一杯真剣な顔をして、
「天野さんは、恋人はいるの? 」
と畳み掛けた。一瞬こちらをちらりと見て、また視線を逸らされる。
「僕はずっといなくて、最近寂しいんだ」
間を置く。
ずっと逸らしていた目がまた一瞬僕を見た。
「もし良ければだけど、付き合ってみない? 」
そんな台詞を吐きながら、二の腕と背中に優しく触れた。僕のなかで完璧なタイミングだった。
そう、この時のため、僕は準備してきたに違いない。複数の女性と同時に関係を持っていた。それでも彼女たちは僕から離れようとしなかった。開けっぴろげにしたら許されるはずはない。
だが。僕にはそれだけの魅力があるのに違いないのだ。全ては彼女のため。そして僕のため。
しばらく静かな時間が流れる。彼女は居心地悪そうに身動ぎした。
そして、不自然に顔を歪ませた。その瞬間、時の流れが緩やかになった。
「もういいや。仕方がない。
あのね、」
「私は八千歳なの」
虚ろな目で彼女は言った。
ぞくりと背中に針が刺さる感覚が走る。時間の流れが戻ってきた。
僕は余りに狼狽したため、二の言を進められずにいた。そんな僕の様子を見ながら、無垢な子供のような笑みで彼女はもう一度繰り返した。
「八千歳なんだ」
頭の中は経験したことがないほど困惑していた。
八千歳?
そんな僕の思考を読んだかのように、彼女は笑った。身体中の細胞が悲鳴をあげる。触れた肌の柔らかな感触を通じて、得体の知れないエネルギーが身体に入ってきた。とてつもないスピードでそれは全身に拡がり、脳に到達した。その瞬間、視界に映る彼女の顔が変容した。
白い肌はゴムのように不自然な光沢を放ち始める。花の唇は油絵具のような着色料が、出来の悪い絵画のようにべっとりと付着していた。二重瞼には薄黒い皺が刻まれ、黄濁した白目は瞳だけが怪しくぎらついている。一見して、大量生産された人型の仮面だ。それを見て誰も女神などとは思わない。
何が起きてるんだ? 今この手に抱いているものはなんだ?
冷汗がシャツの中で吹き出る。僕はそれを悟られないように、必死の笑顔を彼女に向けた。仮面を被った老婆の顔がゆっくりと僕の頬に近づいてきて、触れるようなキスをした。
その感触は柔らかい凹凸の吸い付く感覚ではなく、まるでパーティ用のマスク越しにキスをされているような、無機質な感覚だった。
呼吸のために小さく空いた穴からぬめりとした舌が這い出て僕の頬をなぞる。思わず指でそのあとを触ると、得体の知れない液体がねばねばと指を濡らした。背筋の冷たい感覚が全身を巡る。
「へえ……そうなんだ」
可能な限り平静を装って、僕に言えた言葉はそれだけだった。
周りを見ると、
正気を失いそうになる心を必死に押し殺して、僕は彼女から手を離した。
そして、逃げるように公園を去った。
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