第21話 狂気の予兆(2)

 高校三年になった僕は、学校に通っていた。転校した直後は半年くらい塞ぎ込んでいたが、不登校の僕の学力を支えてくれた母に顔向けできない生活を続けていくことが耐えられなかった。奮起して勉強し、死に物狂いで後れを取り戻した。


 姉も同じ気持ちだったようで、インターンをしながら、サボり気味だった授業に積極的に出席し、見事四大商社に数えられる超一流企業の内定を勝ち取った。


 辛さを噛み締める毎日を送っていた父も、フリーランスとして顔が売れるようになってきて、慌ただしくも充実した仕事の日々を送っていた。



 天野さんとは転校してから会っていなかった。SNSで偶然見つけて思い切ってメッセージを送ったところ、既読無視された後、思い出したようなタイミングで返信をくれた。返事は素っ気なかったが律儀に返信をくれるので、細いながらも関係性は続いていた。とても忘れられる気がしなかったので、写真をください、とお願いすると、一ヶ月後に証明写真を携帯電話で撮った写真が送られてきた。ちょっと笑ってしまった。素っ気ないし愛想もないけどいい子なんだな、と思った。

 


 一方で、最近は他の女性にもよく話しかけられるようになった。クラスの底辺から二年で著しく成長した様子を見ていたクラスメートの何人かの興味を引いたらしく、何度かデートもした。一人からは告白めいた誘いを受けたが、断ってしまった。家族や環境に甘え続けた自分には人から愛される資格はない。まして、ひとりの女性の多感な青春時代を引き受けられる器もないと思っていた。ただ、あの時の寒空の公園で、何時間も僕を見守ってくれていた彼女のことが過ぎらなかったかと言えば、嘘になる。



 姉の最後の夏休みが終わる頃、新しい家族が増えることになった。


 いつになくスマートな出で立ちで家を出た父が、女性を連れてきたのだ。優しそうで笑顔を絶やさない雰囲気はどこか母に似ていて、僕も姉も意気投合した。女性の名は京子さんといった。背は父より少し高い。それを気にしているのか、ローヒールの靴を履いている。

 「ひかりちゃん、あきくん、よろしくね」

 ややふくよかな体を揺らしながらのんびりした口調で京子さんは言った。声はやはり母に似ていたが、話すスピードは二分の一位だ。だが胸の大きさは二倍くらいあった。父さんそういうのも好きだったんだね、と言いそうになったがやめた。


 その日は京子さんが料理を作ってくれた。シンプルな和食だ。母も健在のときよく料理を作ってくれたが、火を扱うのが苦手で、焦げた魚を食べさせられたこともあった。京子さんの料理は非の打ち所がないと言ってよかった。久しぶりに家族で団らんを囲んで、ちょうどよく焼けた秋刀魚を食べながら、僕はいつも魚を焼きすぎて苦くなってしまう母の味を思い出していた。


 一週間もたたず父と京子さんは結婚した。僕たちは祝福した。

 



 新しい家族が増えてから二ヶ月が経ち、京子さんの料理にも慣れ、母の焦げた魚の味も懐かしくなってきた頃、僕は無事に推薦で大学に合格した。暇な時間が増えたので、それまであまり経験したことがない新しいことに興味が出てきた。


 以前とは比較にならないほど自信がついていた僕は、声をかけてくる気がありそうな同級生に声をかけた。彼女の名は結花ゆかと言って、少々垢抜けないが笑顔が可愛らしく、話していると安心できる子だった。放課後にテストの最後の追い込みをかけているところに、さりげなく話しかけて勉強を教えたり、昼食を一緒にとったりした。やがて一緒に帰るようになり、ものの二週間もかからないうちにクリスマスのミサに誘った。彼女は二つ返事で承諾してくれた。


 澄んだ冬の空気が染み込むようなクリスマスの日、僕たちは教会に向かった。この街でも三本の指に入る古い教会だ。道すがら寒そうに手を擦る結花の様子を見て、僕はそっと手を差し出した。一瞬固まったあと、彼女は手を握り返した。暖かいコートの袖と対照的に冷えた華奢な手を握りながら、僕は今まで感じたことのない高揚を感じていた。少しだけ握る力を強めると、それに答えるように結花も握り返してくれた。


 教会は既に人で溢れており、建物の前でキャンドルを渡していた。見渡すと家族連れが多かったが、何人かカップルもいた。僕たちもその中の一人として見られているんだろうか。そう考えると面映おもはゆい気持ちになった。

「あきくん、」

僕の肩を彼女がつつく。

「もらいに行こ」

僕は頷いて受付に向かった。キャンドルを二つ受け取ると、受付のおばさんにかわいいカップルねと冷やかされ、思わず意識してしまった。結花は少しもじもじしたと思うと、突然一人で建物の方に走り出した。僕は二つのキャンドルを持ちながらその後を追った。

 


 薄暗い礼拝堂の長椅子にぼんやりと橙色の灯りが並んでいた。司祭の長い口上と聖歌隊の賛美歌が荘厳に響くなか、僕は手元の灯りを見ていた。……なぜここにいるのだろう。


 結花はかわいらしい子だ。確かに少し垢抜けないが、色白で細身でスタイルもよく、愛嬌もあった。男女問わず仲が良く、クラスの男子の何人かが噂しているのも聞いたことがあった。いわば、それなりにもてる子だ。


 じっと祭壇を見つめる彼女を見て、そのまま柔らかいカーブを描いた胸元に視線を移した。じくりと体の芯に小さな熱を感じた。見られていることに気づいたのか、一瞬彼女はこちらを見て、少し脅えたように顔を下に向けた。僕は慌てて視線を祭壇に戻し、儀式に気を向けた。一時間ほどでミサは終わったが、僕の中の火種はずっと燻っていた。



 外に出ると、夜もふけて色とりどりの電飾で飾られた通りの景色が一層際立って見えた。

「すごくきれい」

結花は呟いた。そうだね、と僕は答えた。

「今日はなんで誘ってくれたの? 」

ぽつりと核心を突くような言葉をかけられ思わず動転した。

「い、いや、なんというか」

久々に少し吃ってしまった。

「結花ちゃん、最近勉強がんばってるし、気分転換にその、いいかな、と、思ったから」

僕はしどろもどろながらもそう言って彼女の方を見た。


 イルミネーションを写した瞳がこちらを見つめる。僕は吸い込まれるようにその光の方に近づき、肩と背中に手を回した。結花は数秒硬直したような様子を見せたが、僕が、男とは比べものにならない柔らかな肌の感触に思わず衝動的に唇を重ねると、力が抜けた。距離が縮まり、胸と胸が触れた。その瞬間ちらちらとまだ燻っていた残り火が勢いをあげて僕の理性を奪った。背中に回した手は腰に降りていって、その下の膨らみに至った。経験したことの無い柔らかいものが手のひらに吸い付いた。彼女は一言も発せずじっと立っていた。

 


 どうも僕は女性受けは悪くないらしい。そんな不遜な自信を付け始めていた。姉にアドバイスをもらいながら、無頓着だった服装や髪型にも気をつけ始め、一月も終わる頃には結花の他にも二、三人の女の子とデートを繰り返していた。そんな様子を京子さんは微笑ましく見てくれて、姉からはやや冷たい視線を受けた。父はよそのお嬢さんに迷惑をかけやしないかと心配しているようだった。


 受験の山が終わり三月になり、卒業式後の二週間ほどで僕は三人から告白を受けた。その中にはクリスマスミサに一緒に行った結花もいた。


 僕は全員とデートしてうち二人とキスをし、結花に至っては体の関係の直前まで行った。お祝いを口実に家族の誰もいない日に家に呼んで部屋に誘い、誘惑した。元から気があることがわかっていた彼女は素直に流れに身を任せようとしていたが、ちょうどブラジャーのホックを外そうとしたそのとき、いつからか扉の外から様子を伺っていた姉が飛び出してきたのであえなく未遂に終わった。

 


 僕は誰かと付き合ったかと言うと、結局誰とも付き合わなかった。それは、あの女神のような彼女が忘れられなかったからだ。初めての恋人はどうしても、彼女がよかった。恐ろしく不遜だった。そのまま僕は卒業し、四月になった。

 



 新生活が始まり桜が満開になる頃、いよいよ僕の青春も花開こうとしていた。大学には実家から通うことになったが、片道一時間半ほどかかる道程だったこともあり、家に帰るのは遅くなりがちだった。時として帰らない日も何度かあった。そんな時僕は何をしていたかというと、学内の様々なサークルの新歓コンパに参加しては酔いつぶれて出会ったばかりの友達の家に泊まったり、時には女性の家にお邪魔することもあった。


 そんなことを繰り返しているうち、ある女性の先輩と一線を超えた。特にその人のことをよく思っていた訳でもないが、飲み会の席では明らかな好意のサインを送ってきて、何度か僕にしなだれかかってきた。ぱっちりとした目とセクシーな唇が印象的で、顔の大きさ程もある胸とくびれた腰、その肉感的ながらも均整が取れた体の誘惑に堪えきれず、酔った勢いで押し倒した。


  それからは、今まで抑圧された生活を送ってきた反動のように欲望をむさぼる日々を続けた。一度「やり方」を覚えた僕は増長を続け、夏になる頃には複数人の女性と関係を持った。それでも僕は、その中の結局誰とも付き合うことはなかった。

 



 狂乱のような夏休みが終わり、後期授業が始まったが、僕の生活は相変わらずだった。二、三日おきに女性と遊び、朝に家に帰るような日々が続いた。自分でも、どうしてこうなってしまったのか分からなかった。心を開いてくれた女性に自分が心を開くことはなく、次のターゲットに目を向けていた。人間として、男として、無礼極まりないという意識はあり、罪の意識に苛まれることもあったが、なぜか自分を嫌悪することはなかった。例えるならば、それは試験勉強のようだった。なにかの準備をしているかのようだった。その理由がわかる日は、突然来た。

 


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