第20話 狂気の予兆(1)

 イルミネーションがニューイヤー向けになった頃、母の病状が悪化した。僕は謹慎の上、たっぷりとオンラインで補習をやらさせられていたので見舞いに行けなかった。


父や姉は時間を見つけては母の見舞いに行っていた。毎回見舞いから帰ってくる都度、二人の顔色は悪くなっていた。僕は出来るだけ穏やかに新年を迎えようと、あまり母の病状について二人に尋ねなかった。

 


 新年を迎え、瞬く間にひと月が経った。


 この冬一番の寒波を記録した翌日、母は亡くなった。


 

 その日、僕は中央公園にいた。裸の木々を見ながら、何をするでもなく、遠くに見える教会の十字架の数を数えていた。ひとつ、ふたつ、みっつ……ここのつ、と数えたタイミングで、携帯が鳴った。父が普段以上に声を震わせ、母の逝去を告げた。そして電話を奪い取った姉の狼狽した声が聞こえた。


 「ママはずっと、ずっと……あきは大丈夫? 学校で友だちはできた? って心配してたよ」



 行く暇などあれほどあったのに、どうして僕は母を訪ねなかったのだろう。学校に行くようになって、新年からはアルバイトを始める、もう心配しないで。そう自信を持って言えるようになるまで、会わない。そんな卑屈で身勝手な決意。僕は、どうして一度も顔を見せなかったのだろう。

 


 日が中天に昇り沈むまで、中央公園の広場に置かれたベンチから動けなかった。心神喪失者のようにずっと中空を見つめていた。


 ペンキのような夜空に金星が瞬いていることに気づいたとき、後ろからとんとん、と肩を叩かれた。


「風邪ひくよ」

柔らかい声が聞こえた。振り返るとそこには天野美凪がいた。


もう傷はすっかり癒えたようだった。その目は、あの冷たい煌めきをほの光らせていたが、表情は慈愛に満ちていた。


「もう三時間くらいずっといるね」

彼女はぼそりと呟いた。本当はもっと前からいる。僕の目には相変わらず現実感のない景色が映っていた。



「母さんが亡くなった」



ロボットのように返した。彼女は何も言わなかった。そのまま虚空のような僕の瞳をじっと見つめて、五分も経っただろうか。彼女はふいと視線を逸らしてからまたこちらを見つめ、こう言った。


「大丈夫、また会えるよ、必ず」

それはまるで祝福のような、呪いのような音で僕の頭に浸透していった。

 


 通夜、葬儀と告別式を終えて、心を殺した日々を慌ただしく過ごし、それらが山を越えると母を思い出す時間が増え、家族はみるみる憔悴した。


 僕はと言うと、また学校に行けなくなった。部屋にいるとおかしくなってしまいそうだったので、一週間に一度中央公園と大阪屋を巡回していた。


 三週目、パン屋で天野さんに会った。僕の目を見つめ、何か考えているようだった。その一週間後、今度は公園で会った。後ろから彼女がずっと見ていることがわかったので、ポツリ、ポツリと二、三言言葉を交わし別れた。それは思春期のむず痒くなるような会話ではなく、まるで懺悔ざんげ室で牧師に打ちあける罪のような会話だった。彼女は黙ってそれを聞いてくれた。


そんなことが何度か続いた。

 

 

 母の思い出が家にはあり過ぎた。日々使う食器が、庭の花が、部屋の匂いまでが母の幻影を見せた。二ヶ月経った頃、遂に一人が音をあげた。


 このままでは思い出に潰されてしまう、という、頬がけてしまった姉の発言に引っ張られるように、僕達は母の記憶が染み付いた家を売り、隣町に引っ越した。僕は転校した。父は長年勤めた出版社を辞め、フリーランスになった。姉はかけ持ちしていたサークルを全てやめてしまった。

 


 そして、二年の月日が流れた。


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