第14話 神学論争(1)
その日は、例の飛び降り事件からちょうど一週間経った日曜日だった。
事件について、やはり自殺扱いとなったのか、新聞やニュースでも触れられることはない。家族もそんな事情を知ってか、なるべくその件に触れないよう、優しくしてくれていた。
僕はといえば、あまりに現実感のない経験に呆然としていた。弓削さんとは特に親しくはなかったが、ついこないだまで毎日顔を合わせていた人が、もういない。気の抜けた炭酸のような気分になっていた。
一週間の休校でやることもなかったので、リビングで「ローマ市民の休日」の実況動画を見ていた。このゲームは世界中で売れていて、実況動画もかなりの数アップロードされている。ゲーム内には「元老院」と呼ばれるグループが無数に存在しており、それぞれのグループでプレイヤーは独自の緩やかなテーマで連帯していて、あるグループは「飽食」、あるグループは「演劇」、別のグループは「テルマエ」など庶民では味わえない娯楽に興じる一方、「領土拡大」、「内政」など、好戦的な集団もいた。
事の発端はゲーム内の「イエズ教会」グループの集会所で集団虐殺が起きたことだった。動画のコメント欄が大変なスピードで膨れ上がったのを見た僕は、思わず立ち上がった。落ち着いてからゆっくりとソファに座り直し、携帯でメッセージ機能を開く。
「重要:必ずご覧下さい」と赤字で書かれた「ローマ市民の休日」事務局からの全メンバー宛のメッセージが、事の重大さを物語っていた。
「親愛なるシチズンの皆様、日本属州イエズ教会で痛ましい事件が発生しました。テロです。被害者は確認した限り2万5702名。被害に遭われた方で痛覚デバイスをご利用の方は、念の為医師の診断を受けてください。現在日本属州の総督館が占拠されております。危険ですのでログインはお控えください」
ゲームは実際の地名をもじった属州と呼ばれるエリアで分割されており、プレイヤーはいずれかのエリアの領民になる。基本的にゲームの目的はローマ時代の生活をシミュレーションして楽しむことであるため、ゲーム内でのプレイヤー同士の傷害行為は禁止されており、通常権限のプレイヤーではそのようなことはできない仕様となっていた。つまり、サーバーがクラッキングされて仕様を変えられたのだ。
僕は日本属州所属だったので、この状況に気が気ではなかった。コツコツと毎日ログインポイントを貯めて買った我が家が無事か一刻も早く確認したくて、二階に上がってログインしようかとソファを立ち上がった。そのとき、またメッセージを受信する音が聞こえた。全メンバー宛のメッセージだ。
「親愛なるシチズンのみなさん、
我々は<ヤオヨロズ>
我々は歴史に封殺された
まずは十二月二十日、日本属州のイエズ教会で惨劇が起きる。やがてそれは現実の日本にも波及するであろう」
そのメッセージに僕は震えた。<ヤオヨロズ>。弓削さんを脅迫した謎の人物の組織。そして恐らく、魔女伝承や怪談についてなんらかの情報を握り、僕の学校で起きた事件の中心にいる人物。偶然の一致だろうか。魔女を匂わすような文言はない。皇道という言葉が何だかよくわからなかったが、恐らく政治や歴史に絡んだ要求だ。
どうしようか。
僕はしばらくの間懊悩した。ゲーム内の家の様子も気になるが、このテロリスト自体がもっと気になる。もしかしたら事件について何かわかるかもしれないーー。そう思うと恐怖心を好奇心が上書きしていく。決めた。ログインしてみよう。そう思って再びソファから立ち上がった。
僕が二階に上がっていこうとしているのに気づいたのか、代休だった父がエプロン姿でダイニングから出てきて突然話しかけてきた。
「どうしたアキ、部屋に戻るのかい。もうすぐご飯だから楽しみにしててね。今日は、なんと父特製薬膳カレーだ! 」
父のテンションは非常に高かったが、それどころではなかった僕は足早に階段を上がると自分の部屋に駆け込んだ。スウェット型のコントローラスーツを下着の上から着て、味覚デバイスを舌に装着し、顔にぴったりフィットする視聴覚デバイスマスクを被った。デスクチェアに座り、スイッチを押すように親指を二回折り曲げると、ゲームが起動した。最近デバイスの調子が悪かったが、行けそうだ。
最後にセーブした公会堂の映像が視覚デバイスに映し出された。良かった。まず僕は無事なようだ。公会堂にも特に異常は見られなかった。ただ、ログインユーザ数が極端に少ないようで、辺りは閑散としていた。大理石で作られた巨大なホールには人影が全くなく、歴代皇帝が描かれた絵画が
人影がもぞもぞと姿を現した。全体的にもっさりとした野ブタのような体格の中年男性だ。顔は髭が濃く、八割位は毛で覆われていた。箒のような眉から星のような眼光が覗いていた。関わりたくないタイプかも知れない。だがその毛むくじゃらはまっすぐこちらに向かってきて話しかけてきた。
「そこの、柱の陰の君。出てきておくれ。取って食いはしないよ」
そんないかにも悪党が吐きそうな台詞を吐いたので、僕は柱の陰で固まっていた。
「あー……面倒臭い奴だね。ではこれではどうかな? 」
そう言うとそいつは少女に姿を変えた。その姿を見て僕は思わず飛び出した。
「天野さんか! 」
そこに居たのはローマ上流貴族の格好をした天野さんだった。黄金の髪飾りに小さな宝石をあつらえ、唇は普段より少し濃いリップを塗っていた。虹色の光沢をたたえて複雑なひだを形成した、白絹のドレスに包まれた体の線は相変わらず細いが、胸の下に結われた紫の紐がバストを強調していた。髪色は瑠璃のような光沢を放っていた。まるで女神のようだ。……気持ち実物より胸が大きい気がした。
彼女は美しく微笑し、僕に語りかけた。
「こんばんは、来栖くん」
その瞬間、ぼわんと白煙が舞って、髭面の中年男性の姿に戻った。僕のテンションがみるみる下がった。
「……なんでおじさんなの? 」
「……」
仏頂面の大男がぷくっと頬を膨らませた。
「弓削さんのことは……その……」
僕が切り出すと大男は真面目な顔になった。
「聞いてるよ。……自殺するような子じゃない。だから来たんだ」
僕はそれに頷き、
「例の脅迫メール、見たんだね」
と答えた。天野さんは頷いた。
「ヤオヨロズ、皇道……、これはね、来栖くん、根が深い事件かもしれないよ。真相を暴かないと」
そう言って天野さんは公会堂の外を指差す。
「来栖くん、外の様子を見てみよう」
彼女はそう言うと出口の方に向かった。僕は仕方なく後に続いた。
「見てごらん。人一人いない」
少し扉を開けながらそう呟く。もじゃもじゃの頭の上から僕も顔を出して伺った。確かに人の気配は全くない。
「流石にみんなログインしないんだね」
「まあわざわざ痛い思いするかもしれないのにログインする人はいないよね。ところで来栖くん、今回の一連の事件、繋がっていると思わないかい? 」
このゲームには痛覚センサーが標準搭載されているため、仮にゲーム内で斬られたり殴られたりするとそれなりに痛いのだ。ただ、決して死ぬことはない。
「うん、偶然の可能性もあるけど。気にはなるよ。でもプロの人達に任せた方がいいんじゃないかなとも思う」
「それはもちろんその通りなのだけど、ちはるのこともあるし、出来る限りのことをしたいんだ。家に篭ってるくらいなら少しでも真犯人に近づけるよう調べたいと思って。それに彼らの要望は皇道の復旧なんでしょ? もしかしたらとても興味深い人間に会えるかもしれない。さあ、総督の館に向かおう! 」
また変なスイッチが入ったのか、よく喋る天野さんが少し面白かった。友人を亡くしたばかりにしては不謹慎なほど元気な気もするが、強い意志を感じた。その空元気は、彼女なりの弔いなのかもしれない。それと同時に、彼女を一人放っておくと、危険なことに首を突っ込んでしまうかもしれない、と心配になった。僕は我が家の様子が気になっていたが、少々痛い思いをすることを覚悟して、彼女<彼>の後をついていくことにした。
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