第3話 お見舞い
母の病院はパン屋から徒歩十分ほどの距離にあった。先刻の出来事にまだ心が落ち着かなかった僕は、しばらく早足で夕暮れの街を歩いた。さっき見た教会の屋根の前をひとつ曲がると、病院が見えてきた。
ようやく平常心を取り戻してきたので、少し軽い足取りで母の病室に向かう。301病室の前に立ち、二回ノックをした。返事がないのでそのまま静かに扉を開けた。奥の窓に少しずつ暗くなってきた街と公園が見えた。それを柔らかい表情で見ている女性がこちらを振り向いた。
「まあ、あきじゃない。どうしたの? 」
少しやつれて蒼白い顔をしているものの、意識ははっきりしているようだ。後れ毛が多めの三つ編みを肩に垂らして笑顔で母は僕を見た。よかった、そんなに悪くは無いみたいだ。
「母さん、着替えとお見舞いを持ってきたよ」そう言って僕は持っていた袋を差し出した。
「ありがとう。みんなは元気? 」
小さく頷いた。
「あと、これ。大阪屋の塩バターパン」
僕は手に持った袋をもうひとつ差し出した。
「ありがとう。これ、美味しいのよねえ」
母の顔が緩む。本来病人にこのような食べ物を与えてはいけない。だが、母はこのパンが大好きだったので、医者を説得して特別に月一回だけ差し入れの許可をもらっていた。母は嬉しそうな表情で袋を開けた。
「六個も買っちゃって、そんなに食べられないんだから。二つでいいわ。あとはあきとひかりとお父さんで食べて」
そう言って袋から二つだけパンを母は取りだした。ティッシュを三枚敷いた膝の上に乗せ、残りをこちらに差し出した。僕はそれを受け取った。
「具合、悪いの? 」
そう聞くと彼女は曖昧な笑みをたたえながら手を口に当て、大丈夫、と答えた。
「それよりあき。今日はなんだかいつもと様子が違うわね。何かあった? 」
母は昔からこういう所が鋭い。僕の表情から何かを読み取るのか、いつも見破られる。
「何もないよ。強いて言えば、えーと、とてもきれいな女の子に会った」
それを聞いて母は、まあ、と目を見開いた。
「あなたが女の子の話をするなんて珍しいわね。学校の子? 」
「いや、知らない子だよ」
僕は少し俯いて、
「学校は、その、……まだ行けていないよ」
と答えた。母は少しやつれた頬でふっと息をつくと、心配そうな顔で僕を見つめた。
「ごめんね、あきには心配をかけてて。母さんがもっと家にいてあげられればいいのにね 」
父も母も決して学校に行けとは言わない。そういう意味で僕は精神的には楽だった。
「その子はどんな子? 」
「とても美人だったよ。細くて白くて、まるでモデルみたいな。歳は同じくらいか、少し下かな? 大阪屋でもバイトしてるみたいだった」
「あら、そんな子いたかしら。心当たりないわねえ。もしかしたら、引っ越してきたのかしら。」
母は意地悪そうに唇の端を上げる。そして、
「学校に行ったら会えるかもよ? 」
といたずらっ子のような表情で言い放ち、僕の顔を覗き込んだ。相変わらずうまい。
「そうだね、考えとくよ」
と僕は曖昧に答えた。そんな様子を見て、母はふふふ、と薄い笑みを浮かべた。
「そう言えば、ちょっと行きたいところがあるんだけど、散歩しない?」
突然の誘いだった。この様子だと母の今の病状は本当に悪くないらしかった。日はもうほとんど落ちかけていたが、他ならぬ母の頼みだったので僕は快諾した。
初秋の心地よい風を受けながら、僕たちは病院の外に出た。母は淡い赤のカーディガンを羽織っていて、先を歩く後ろ姿はどす黒い夕日と同化して、そのまま消えてしまいそうだった。病院の入口を出て、たわいない会話をしながら公園の方にずっと進んでいく。母が目指しているのはどうも教会のようだ。
この街には五十を超える教会があった。昔は様々な寺社仏閣があったらしいが、何度かの戦争を繰り返して、寺の数は激減してしまったらしい。今や国民の半数以上がイエズ教となっていた。僕の家もそれに漏れずイエズ教だったが、敬虔な信徒という訳ではなく、とは言え決して蔑ろにするでもなく、ちょうど良い距離を保っているつもりだ。
大きくはないその建物の前に母は立ち、ちょっとお祈りしてくるわと言って木製の扉を開け中に入っていった。後に続き僕は中に入った。夕暮れの聖堂は静まり返り、きりりと乾いた空気が漂っていた。誰もいないようだ。祭壇には簡易なイエズの像と、少し汚れた聖母画がその後ろに見える。目元が黒ずんでいて、老婆のように見えた。
微動だにせず母は祈りを捧げていた。しばらくして、ふと小さくため息のような音が聞こえたかと思うと、母がこちらを向いて徐ろに声を発した。
「あき、あなたは神様を信じてる? 」
「あまり」
僕はぶっきらぼうに答えた。
「だってもし神様がいるなら、母さんみたいな人がこんなに病気で苦しまない」
そんな僕の様子を見て、母は僕の顔をじっと見た後、こう言った。
「神様はね、あなたの中にいるのよ。お母さんとあきを結びつけてくれたの。あきが望むなら、どんな世界にもなるかもよ? 」
僕はそれに答えることはできなかった。その様子はまさしく敬虔なイエズ教徒そのもの。何だか他人のような気持ちになりながら、病院まで一緒に帰り、じゃあ、と軽く声をかけて病室を出た。
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