第2話 少女との出会い(2)

 その言葉通り、僕は二日外に出なかった。いつものことだ。


 三日目の朝、いつもより慌ただしい階下の物音に目を覚ました。時計を見ると、まだ七時だ。すぐに活動を諦めて布団に戻ろうとしたとき、控えめに部屋のドアがノックされた。


 「おーい、アキ、ちょっといいかい」

朝とは思えないしゃっきりしない声が聞こえてきた。のそりとベッドから起き上がり、僕はドアから半分だけ顔を出した。


「なに? 父さん」

そう答えると、父はほっとしたような顔で僕を見た。

「ああ良かった、元気かい? ちょっと母さんの病室に荷物を持って行って欲しくて」

父はそう言うと、着替えや日用品が入った袋を差し出した。


「あ、もしかして、今日は学校に行くかい? 」

思い出したように、しかしやや怯えながら、質問してきた。この父にしてこの子ありといった父だ。


「いや、もちろん行かない」

僕はぶっきらぼうに答えた。

「そうだよね、じゃあ頼んでもいいかな? 」

と少し嬉しそうに、だが顔色をうかがうような様子で父は答えた。


 癇癪かんしゃくを起こしてしまってから父は昔以上に息子に気を使うようになった。十代の荒ぶる勢いに任せて僕は増長していて、心の中ではごめんなさいと思いながら、ずっと素直になれなかった。

「しょうがないな、いいよ」

と答えると、父は少しほっとした顔になり、

「じゃあお願いするね。僕は仕事に行くから。今日はアキの好きなもの食べさせてあげるよ」

父は精一杯楽しそうな様子で返答した。



 僕が扉を閉めようとした瞬間、ドアがこちらに勢いよく開かれ、額を直撃した。一瞬意識が真っ白になる。呆然としていると、さらに三回ドアが僕の額を強打した。視界が真っ赤に染まる。


 「おいあき! パパをいじめるな!」

顔を出したのは姉の光子だ。光子と書いて「ひかり」と読む。「子」はいわゆる置き字というやつだ。気の強い声が響いた。


「パパは仕事あるんだから迷惑かけるなよ。荷物持ってくのくらい出来るでしょ! 学校行ってないんだから働け! 」

姉はそうまくし立てた。

「はい……」

僕は瞼の裏をチカチカさせながら答えた。姉は強い。我が家では最強だ。


「あとパンも買ってきて。いつものやつ。大阪屋の塩バターパンね。ママにも買っていきなよ」

そう言うと、光子は千円札を差し出した。

「はい……」


僕は額を抑えながらそれを受け取った。父はそんなやり取りに足を震わせ、ケンカはダメだよ、ダメだよ、と狼狽うろたえていた。それを見て姉はにこりと唇の端を上げ、じゃあ学校行ってくるねパパ、あき、と満足気に手をヒラヒラさせて、家を発った。


 姉は花の女子大生だ。友達も多く、その切符の良さと豪快な性格で年上からも年下からもモテるらしい。僕の運と生気の九割は姉に吸い取られている。頭もよく、行動力もあり、なんたらサークルを三つ掛け持ちしていた。行ってらっしゃい、と父が声をかけた。いってきまーす、と階下から元気な声が返ってきた。それを聞いて、父もじゃあよろしくね、と階段を下りていった。


 我が家は四人家族。美しく気の強い姉、病弱だが優しく器の大きい母、気弱だが優しい父、ニート兼ひきこもり気味の自分。でこぼこな家族だが不思議とバランスが取れていた。ケンカもするが仲はいい。だからこそ、お荷物の自分が心を病まず快適な実家暮らしを満喫できていた。

ただ、ここ数年は母の病状が思わしくなく、皆の顔には少しかげりがあった。だが、治らない病気ではないらしいので、皆がまだ希望を持てていた。

 

 遅い朝食を取り、寝癖がついた髪を気持ち程度手櫛でとかし、僕は千円を握りしめて外に出た。


  三日ぶりの青空は不必要な程はっきりと瞳に映し出され、僕は季節外れの汗をかいた。母の入院する病院は家から程よく遠く散歩にちょうどいい。まだ朝の慌ただしい雰囲気が残る通りは、少し汗ばんだ通勤途中の人々がまばらに歩いていた。通りの向いには角張った建物が見え、陽の光を黄金に反射する三角の屋根が並び、そこから巨大な十字架がいくつか見えた。教会だ。迷信深い噂が飛び交うこの街は教会が多く、五分歩くと一つは見かける。


 まだ面会可能時間まで少し時間があったので、僕は病院にほど近い公園に向かった。ベンチに座りながら三十分ほどぼーっとする。


 人がほとんどいない中央公園は街に似つかわしくない広大な敷地を持ち、遊歩道を一周するだけで十五分程度かかるほどの大きさだった。公園の中心には、魔女を吊るしたというまことしやかな噂がある、樹齢三百年と言われる大木があり、それを囲むように同心円状に遊歩道が敷かれていた。


 大木の南側には遊具やベンチがある広場があり、今僕がいるのは中央広場と呼ばれるその広場だった。じわりと太陽が大きくなり、季節外れの暑さに堪えきれなくなってきた頃、ようやく僕は自分のミッションを思い出した。



 広場の周りに巡らされた遊歩道を越えて、大通りのさらに先にあるパン屋に向かった。しばらく行くと黄色と緑のタペストリーも鮮やかな洋風の建物が見えた。お使いを頼まれた大阪屋だ。センス良く小物が置かれた入口を通り、塩バターパンの売り場に向かった。


 我が家はこのパン屋の大ファンだ。中でも塩バターパンは絶品で、クロワッサンのような見た目でカリッと焼かれた表面と、中の柔らかな感触とふわりと香るバターの風味が絶妙なのであった。姉から貰った千円をしっかりと目で確かめて、買えるだけ焼きたての塩バターパンをトレーに乗せ、レジに向かった。 


 程なくして自分の番になり、三番レジの前に立つ。

「塩バターパン七つですね。1001円です」

数呼吸置いて、僕はしばし言葉を失った。今ポケットに入っているのは千円。何度確かめても千円だった。

一円? まさか? 一円足りない? 

混乱しながら、とりあえず千円札を出した。汗が吹き出ているのがわかった。


「……」 


沈黙が続く。店員は一言も発さずじっと見ているのがわかった。

「1001円です」

またぽつりと店員が呟く。


まだ僕はうつむいていた。


「……」


「あと1円です」


観念した僕は顔を上げた。そしてまた固まった。そこには、さっき大通りで見た、あのモデルのように美しい彼女がいた。

「あ……こないだの」

と呟くと、直毛の髪を揺らしながら少しだけ首を傾げ、ブラックホールのような漆黒の瞳で僕を飲み込んだ。



しばらくして彼女は息を漏らし、左手を顔に添えてささやいた。


「(あと1円です)」


いい匂いがした。桃のような香りにとろけそうになりながら、僕は答えた。

「あの、あ、い、う、」

彼女は形のいい眉をほんの少しゆがめた。無理もない。僕は何とか声を絞り出した。


「い、一円、いま、ないのですが。家から取ってくるので待ってもらえません、か? 」

こんな不躾ぶしつけな要求を、このタイミングで、こんな美女に言える胆力が自分にあったのか、と感心した。


だが、そんな僕の感動と裏腹に彼女は真顔だった。

「そういうことはできません」 

と、無機質な答えが返ってきた。その声がまた冷たいながらも美しく、僕は一瞬惚けてしまった。彼女の瞳がゆらゆらと揺れているように見えた。


「……」


眉一つ動かさず、目で彼女は僕に訴えてくる。じわじわと首、背中、そして腰に汗がにじみ始めた刹那、奥から様子を伺っていた強面こわもての店員が割り込んできた。


「あー、えっと、会計足りないなら一つ返してもらっていいですかね」


……その通りだ。そそくさとパンをひとつ戻して会計した僕は、静かにじっと様子を伺っているような彼女の視線を受けてさらに硬直し、逃げるように店を出た。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る