第7話

 リビングの床にドサリと投げ捨てられた死体に、ユキは冷ややかな視線を落とした。他の誰とも変わることのない、捩くれた醜い抜け殻に成り果てているのは、その美しさや優しさに憧れたこともある、かつて彼女が『母』と呼んでいた女性だ


「ひ、ひぇ、ひゃ〜! ふぁ、ふぁ!」


 言葉にならない悲鳴に顔を上げれば、壁に背をつけてへたり込んでいる義父、タツキの姿。実業家として成功し、威厳と自信に溢れていたはずの男が妻の死を前にしてみっともなく狼狽している様子に、ユキはため息をついた。


「こんな男を『お父さん』って呼んでたんだ……バカみたい。そうそう、私の価値は石ころ以下……でしたっけ? お父さん」


 ユキがゆっくりと歩みよると、グレーのスラックスの股間にジワリと染みが広がっていく。これなら、まだアカネの方が気丈だった。こんな矮小な男を父と呼んで尊敬し、失望させまいとしていた自分の努力はいったい何だったのか……ユキは自問せざるを得なかった。


「い、いくら欲しいんだ?」

「……は?」


 タツキの口走った言葉の意味を推し量れず、ユキは訝しげな表情を浮かべた。


「か、か、金ならやる! なぁ、いくら出せば助けてくれるんだ!?」


 この男は私が金欲しさでやっていると思っているのか……何でも金で解決できると考えている無神経な男に、同類として見られるのは耐えがたい屈辱だ。


「お金なんかいらない。だいたい、アンタたちが死んだら遺産は全部私のものだもの。私、娘なんでしょ? 一応」


 ユキがあえて強調した最後の一語に一瞬曇ったタツキの表情が、どういうわけかまた明るくなった。


「だ、だったら俺を殺す必要なんて、もうないってことだよな? なぁ、そうだろ? ほ、ほら、どうせ俺がここで死んでも死ななくても遺産はオマエのところにいくんだから……」

「だから金なんてどうでもいいって言ってるでしょ? アンタ日本語分かってる?」


 どこまでも金のことしか考えられない男の相手をするのがそろそろ面倒になってきたのか、ユキの表情が曇り始める。


「アンタが全ての元凶なの、分かってる? 身の程を弁えずに上ばっかり見て、そのために私を利用して……もういいわ。アンタは無様に死んじゃって」


 ユキがそういうと同時に、タツキの身体はは不可視の触腕によって捉えられた。


「や、やめて! やめて〜!」


 涙も鼻水も尿も垂れ流して、タツキが悲鳴を上げる。その右腕が『ゴキリ』と音を立てながら捩じ折れると、その悲鳴は一層甲高いものとなった。次は左腕、右脚……最後にみっともない表情のまま首が捩じ切られ、断面から溢れるその血を吸い尽くした『星からのもの』はあの哄笑に似た声を上げながら宇宙へ帰還していった。


 死の静寂が主人を失った家に訪れる。本来そこにあるべき温もりが失せ果てた空間に残ったユキは


「終わった……」


 そう呟き、ホッと息をついた。


 これで、彼女の人生をねじ曲げ、奪い去っていった憎むべき連中は一人残らずこの世から消え去ったことになる。


 彼女の復讐は完遂されたのだ。




 ユキは全てが終わったことを報告に行くために、アイナの住むビルへと走った。ユキにとっては復讐の副産物に過ぎないが、タツキが死んだことで彼女はそこそこ多額の遺産を手に入れることになる。その金であのビルに華やかさを取り戻せば、アイナは喜んでくれるだろうか……そんなことを考えながら。


 アイナは屋上で星空を眺めていた。あの時この場所でアイナに声を掛けられていなければ、こんな充実した気持ちを味わうことは一生出来なかったはずだ。ユキにとってアイナは恩人、いや、すでにそれ以上の掛け替えない存在になっている。


「アイナ」


 声を掛けると、アイナはチラリとだけ振り返り、また視線を夜空に戻した。


「今、両親を殺してきたの……これで、私の人生を壊した連中はもういない……全部、アイナのおかげよ」

「そう」


 何故か素っ気ないアイナの返事に一瞬、表情を曇らせたユキだったが、思い切って前に進み出てアイナの隣に並んだ。


「それでね、遺産が相続できたらお礼にこのビルを綺麗にしようと思ってるの。もしアイナがよかったら、ここで私も一緒に……」

「そんなことは頼んでないわ」


 冷たい言葉が、彼女の手に伸ばしかけたユキの手を拒絶する。


「アイナ……?」

「ユキ、私はね……貴女に失望してるの」


 それは、目的をやり遂げたことに対する称賛を予想していたユキにとって、まったく予想外の言葉だった。


「……え?」


 ユキは困惑するしかなかった。『星からのもの』を召喚して、彼女を虐げてきたもの全てに復讐を果たすよう持ちかけたのはアイナで、自分は彼女の言う通りそれを最後までやり遂げたはずだ……だから、ユキにはいったい自分のどこに失望される要素があったのかがわからなかった。


「……ユキ、私は貴女の中にある怒りと憎悪に期待していたのよ。あなたなら『星からのもの』をより大きく成長させ、世界を焼き尽くしてくれるんじゃないかと思ってた。でも、そうはならなかったわね」


 ユキを見るアイナの眼差しはナイフのように冷たく、鋭い。


「何故だと思う?」


 問われて、ユキは首を振った。


「ねえ、貴女は本当に復讐がしたかったの? ううん、最初はそうだった。でも、今はどうなのかしら? 私には貴女が純粋な憎悪で動いていたようには見えないのだけれど」

「そ、それは……」


 アイナの言葉がユキの胸に突き刺さる。確かに、最初は復讐だけがユキにとっての全てだった。しかし、アイナと出会い、彼女と触れ合う度に別の気持ちがユキの中で大きく育っていったことは間違いなく、いつしか目的がアイナに喜んでもらうためへとシフトしていたかもしれない。


「憎悪と愛情は真逆の感情。愛を得るためにいくら生贄を捧げても『星からのもの』は育たないわ……ユキ、貴女には期待していたのだけれど、残念だわ」

「そんな、アイナさん……だったら、私、もっと殺します! ほら、ま、まだまだ殺したい人だって……!」

「無理ね」


 アイナは冷淡に吐き捨てた。


「数だけ殺しても意味はないの。ユキ、貴女はあんなに晴れ晴れとした顔でここに現れたじゃない。復讐から解放された貴女の中にはもう、憎悪なんて残ってないはずよ」


 ボロボロと、ユキの両眼から大粒の涙がこぼれる。アイナに見捨てられたくない。だけど、もう目的を果たしてしまった彼女の中からは、怒りや憎悪の炎は消え失せてしまっていた。絶望から全身の力が抜けてしまい、ユキはその場にへたり込んだ。


「ユキさん、ユキさん……」


 子供のように泣きじゃくりながら、ただ彼女の名前を繰り返すユキに近づいたアイナは、その耳元に口を寄せた。


「貴女は終わりよ、ユキ。だって今の貴女にはもう、石ころほどの価値すらないもの」


 かつて、最も信頼していた義父に投げつけられたものと同じ言葉が再びユキの胸を深々と抉り、その心を今度こそ粉々に打ち砕いた。


 愛されたいと思った。


 必要とされたいと思った。


 だから身を、心を、魂を捧げた。


 だけど、やっぱりダメだった。


 自分には生を望む価値も資格もなかったということを思い知らされ、ユキは頭を抱えて慟哭した。行き場を失い、胸の中で濁流のように渦巻く悲しみと絶望感はやがてありとあらゆる負の感情を巻き込み、大きな破壊衝動へと変わっていく。


 絶叫が闇を震わせた。


「殺してやる! 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!」


 血走ったその眼の中に狂気の炎が揺れるのを確認し、アイナは満足気に頷いて天を仰いだ。持ち上げて、叩き落とす。ただそれだけで人の心とはなんと簡単に壊れるものか。


 夜空を震わす哄笑と共に『星からのもの』が現れた。ユキの狂気に惹かれて現れたそれは今までよりも遥かに巨大で、この街全てを覆い尽くさんばかりに成長していた。天より降り注ぐ無数の触腕が無差別に人を捉え、その生命を無慈悲に啜り上げていく。たちまちパニックに陥った人々は恐怖の叫びをあげながら逃げ惑い、やがて街のあちらこちらで火の手が上がり始めた。


 ゴトリ、という音にアイナが振り返れば、その魂を『星よりのもの』に食い尽くされたユキが力なく倒れていた。確認するまでもなく、既に事切れている。


「前言を撤回するわ……ユキ、やっぱり貴女は素晴らしい『素材』だったわね」


 極限の恐怖に歪み、直視することさえ躊躇われるユキの死顔にアイナが微笑みかける。その黒瑪瑙のような瞳に浮かび上がるのは『黄の印』……旧支配者の忠実なる下僕にして、破滅を招くものに与えられし証。


 その瞳を、アイナは再び虚空の彼方の深淵へと向けた。悪意で満たされたユキの魂を食って大きく成長した『星からのもの』によって、やがてこの街は炎に包まれ、全ての命が死に絶えるだろう。絶えることなき苦痛と怨嗟の声は空を割り、遥かヒアデス星団の彼方、数多の昏い伝説に語られる忌まわしきハリ湖に棲むハスターが到来するのだ。その時、この惑星は死さえ死に絶えた永遠の静寂へと還るだろう。


 夜空が引き裂かれ、黄色の闇が降り注ぐ。

 

 アイナは跪き、名状し難きものへの祈りの言葉を呟いた。

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堕天少女 蒼 隼大 @aoisyunta

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