三キログラム

@piano531

第1話 過食のはじまり

 明日の朝食になるはずだったフランスパン一本が瞬く間に消えた。噛むことに疲れた顎がきしみ、次なる大福は、二口でごくりと飲み込む。さらに二個目をがぶり。このむにゅむにゅの触感がたまらへん。かっぱえびせんじゃないけれど、止められへん、止まらへん。脇においてあったダイエットコーラであおるように流し込んだ時……

 ウッ。喉がつまり、呼吸が止まった。ゴホッゴホッ。死にもの狂いで咳き込み、喉頭にへばりついたもちを何とか吐きだすと、梅樹ルイはふうと大きく息を吐いた。あーマジでやばかった。もう少しで窒息死するところやった。この若さでもちをつまらせて死んだなんてシャレにならへん。もちは凶器。次からは気ィつけよっと。声に出してつぶやき、決意新たに顔を上げる。三つ目のターゲットは……そうよケーキ。安全なのはケーキ。中でも一番は、安くておいしい一石二鳥のシュークリームちゃん。クリーム二十パーセント増量と書かれた袋を引き裂き、両手のひらに載せる。ふわふわのシューに包まれたクリームの重量を感じてうっとりする。ああ。幸せ。と、ふと目に入った398キロカロリーのカロリー表示。それがなんやねん。心の中で叫んだ。大阪人をなめとったらあかんで。たった2キロカロリーの差やったら、クリーム小さじ分増やして、正々堂々400キロカロリーにしろっていうねん。ルイは菓子業界に挑むような気持ちで、目を見開き、特大シュークリームにかぶりついた。途端、カスタードクリームのどろりと脳みそまで溶けるような甘さが口の中いっぱいに広がる。さすが洋菓子。この強烈な破壊力。和菓子はそら絶対かないませんわ。おっと、気力でノックアウトされたらあかん。大和撫子として最後まで闘い抜かな。日の丸を背負って残りをほおばる。耐えるように飲みこむ。ゲッ……やっぱりあますぎるわ。とその時。バチン。頭の中で何かがはじける音がした。やばい。必死でやり過ごそうとするが、喉から食道にかけての粘膜がヒクヒクと痙攣を始める。あかん、限界や。ダッシュでトイレにかけこむと、センサー式最新のウオッシュレットが、いらっしゃいとでも言うようにビーンと音をたてて蓋を開く。おじゃましまーす。がくりと膝をつき、首を垂れた。

オエッ。のけぞってから、お辞儀するように顔を突っ込む。オエッオエッ。引いては寄せる波のように嘔気の周期は何度もやってくる。けれども、なかなか物は出てきてくれない。産みの苦しみってやつ? 早く出て……出てきて……出てこいや。いたたまれず、右手の中指を喉の奥につっこんだ途端、胃袋を丸ごとひっぺ返されるような巨大な津波が押し寄せた。頭は真っ白、全身脱力。へなへなと座り込むと、嘔吐と一緒にじみ出た涙が頬を伝った。

 またやってしもた……吐物で汚れた長い横髪を耳にかけて、便器の中をみつめた。さっき食べたパン、大福、シュークリームが、胃液と交じり合って浮かんでいる。まだ形の残っているものもあって、もう一回食べられそうと考えた自分がおぞましく、そそくさとレバーに手をかける。流れていく水の中に、ご飯一粒残しただけで「眼がつぶれるわよ」と睨んだ母親の顔が浮かんだ。

「なんでこんなになってしもたんやろ」食べている間の記憶があいまいだ。気付くと食べたいという衝動に駆られ過食。最近は嘔吐。そんな生活をかれこれ一年も続けている。激しい自己嫌悪に打ちひしがれながら、とぼとぼとリビングに戻り、午前一時を指す時計を見た。スマホを確かめるが、夫からのメールも電話の着信もない。十二時には帰るって言ってたのに……チッと舌を鳴らす。何もかもが腹立たしく、むしゃくしゃした。だが、散らかった部屋をそのままにしておくのも気がひけて、「よっこらしょ」と掛け声をかけて立ち上がった。床に散らばるパンのくずやお菓子の袋を拾いゴミ袋に入れていく。けれども、数分もしないうちに、ぜえぜえと息が切れる。ピチピチのTシャツと短パンが汗で肌にまとわりつく。高校時代には陸上短距離選手として鍛えた体が、ゴミを拾うだけで悲鳴をあげる。

「あっつぅ」汗をぬぐい、冷房温度を十六度、風量を最強にした時、背後でヒッという声がして振り向いた。夫であることちゃんが、頬をひきつらせて立ちつくしていた。

「また食ったんか」つぶやく夫の黒い瞳には、悲哀と困惑の色がたたえられている。

「そうよ。全部吐いてしもたけど……それより、何でこんなに遅いんよ」

「バイトの子が急に辞めるって言い出したんや。引き留めるんに時間がかかってしもて……」

「バイトの子って女の子?」

「そうやけど?」

「それだけでこんなに遅なる?」問いただせば問いただすほどに、くすぶっていた疑惑が膨れ上がっていく。

「俺は店長やで。店長やってたら、責任あるやろ」

「そやけど、遅なるんやったら、一言、連絡ぐらい入れられるんとちがうん?」

「アホか。店長がそんなことでいちいち連絡してられるか」

「アホはそっちやろ。店長、店長ってたかがコンビニの店長ぐらいで偉そうに」

「なんやと?」

「なによ。やる気?」こぶしを握って睨みつけると、倫夫は降参とでも言うように両手を上げ、

「お前、ファイティングポーズより、四股踏む方が似合ってるぞ」

「それが夫の帰りを待つ妻に言う言葉? 私が待ってる間どんな思いでいてるか考えたことあんの?」

「ほな、これ以上どうしろって言うねん。毎日、仕事が終わったら寄り道ひとつせずに帰ってきて、休みの日も遊ばんと掃除と洗濯してやってるやろ」

「してやってる? ちょっと待ってよ。家事分担は結婚前の約束やろ。私かって働いてるねんで。大体、このマンションかって……」

「はいはい。分かってますよ。緑地公園の高級マンション、ありがとうございます。どうせ俺はたかがコンビニ店長、ミュージシャン崩れ、超売れっ子ホステスのヒモですよーだ」倫夫は、吐き捨てるように言うと、くるりと後ろを向き、玄関の脇にある四畳半の物置部屋に入ってしまった。ふてくされたってわけか。いつもそうだ。男のくせして、肝心なところで逃げる。ごねる。すねる。ひきこもる。

「死ぬまでそこに入っとけ。ミイラになるまで出てくんな」我ながらナイスな悪態をついて、逆襲を待ったが、倫夫が出てくる様子はなかった。

「せっかく作ったのに……」

 ルイは食卓に並ぶ二人分の肉じゃがを見つめた。母親が東京出身ということもあってか、肉じゃがの肉は、絶対、豚やと言い切る倫夫のために、信念を曲げて作ったものだ。

「ねえ、御飯食べたん?」歩み寄る気持ちでそっと尋ねてみた。物音一つしない。

「なんで分かってくれへんのよ」

 胸が熱くなり、涙がぽろりと頬をつたった。「全部、倫ちゃんのせいやんか。倫ちゃんがヤヨイと不倫したからやんか。大体、何やねん、超売れっ子ホステスって。もう太って人気なくなってしもたわ。代わりにヤヨイがナンバーワンやん」不満をぶつけるうちに、ルイは突然、自分が空っぽであるような所在なさを覚えた。何かで満たそうと、鉢に盛り付けた肉じゃがの豚肉を手でつまんで口いっぱいにほおばり、物置部屋の扉に向かって叫んだ。

「ほっちがほのきなら、こっちにもかんがえがある。ひぬまでぜったい、ぶかにくなんかでにくががぐぐったらへん。つぎは、ずえったいA5のあぎゅうでづぐるんあから」泣きながら味噌汁を鍋ごとすすって飲みこむ。一緒に飲み込んだ涙のせいで、味噌汁はいつもより、しょっぱく、そして苦く感じられた。


 目が覚めたのは正午を過ぎていた。倫夫は仕事に出た後で、食卓には、昨日のけんかの詫びのつもりなのか、三角おにぎりが二個と、きれいに皮をむいたリンゴがガラスのお皿にもりつけられている。さらには、昨夜散らかしたゴミまで、きちんと燃えるごみとプラに分別して片付けられていた。

「まめなやつ」感謝というより、軽蔑の気持ちでつぶやくと、げっぷと共にすっぱい胃液があがってきた。当然だ。けんかのあと、倫夫と自分の分の味噌汁と肉じゃがを完食したのだ。それにしても……あの野郎、一晩、物置で寝たということか。ルイの心にもやっとした形のない不安がよぎった。結婚以来、寝室を別にしたのは初めてのことだ。気をまぎらわせようと、倫夫の作ったおにぎり二個をぺろりと平らげる。冷蔵庫を開けて一リットル入りのオレンジジュースを取り出し、ペットボトルのままラッパ飲み。気持ちダイエットのつもりでリンゴはそのまま冷蔵庫に戻し、シャワーをあびるために脱衣場に入った。Tシャツと短パンを脱いでふと顔を上げると、真実を映し出す鏡が、ルイに見たくない現実をつきつけていた。二重あごならぬ三重あご、パンツのゴムが食い込む臨月なみのお腹、コンクリートのひびみたいな肉割れが拡がった大黒柱のような太もも。コンプレックスのAカップの胸だけはDカップになったが、脂肪が主成分のせいか、八の字方向に垂れている。唇をかみしめ、洗面台の奥にしまっている体重計に目をやった。三ヶ月前が六十一キロ。六十キロの大台に乗ったのがショックで、その日だけは甘いものを控えたが、翌日は反動で一日中食べ続けた。以来おそろしくて測っていない。身長百六十五センチ、体重四十五キロ。それが高校時代から一年前まで維持してきたルイの自慢の体型だった。それなのに……このままやったらあかん。とにかく現実と向き合わな。勇気をふりしぼり、体重計を引っ張り出す。思い切って右足のつま先を乗せる。おそるおそる左足を宙に浮かせる。ゆっくりそっと、針に負担をかけないように。そうすれば、長年の付き合いになる体重計が、ルイの乙女心を察してくれるのではと期待して。だが……八十三キロ。体重計は容赦ない数字をルイにつきつけていた。慌ててブラジャーとパンツも脱いで測りなおしたが変わるわけはない。呆然としながら体重計を降りる時、かつて痛めたことのある右膝がうずいた。続いて心臓を誰かにぎゅっと握られたような激痛。ドックン、ドックン、ドク、ドク、ドク、ドクドクドクドク………胸が激しく踊り出す。必死で深呼吸をするが酸素が肺に入ってこない。手先がピリピリとしびれ始める。視野がせばまり、辺りが暗くなる。何とかせな。素っ裸のまま台所にかけこんだ。冷蔵庫を開け、残しておいたリンゴをほおばる。ヨーグルトのパックを取り出し、素手ですくってなめつくす。ソーセージを生のままむさぼる。大丈夫。大丈夫。目をつむり、何度も自分に言い聞かせる。

 どれぐらい時間がたったのか。フローリングの床の硬さと冷たさで、ルイはゆっくり目を開けた。はっと起き上がり、ヨーグルトにまみれた一糸まとわぬ全裸の自分を見つめた。何してるんやろ、私。あまりの情けなさに、ぎゅっと目を閉じる。惨めだ。惨めすぎる。いっそこのまま消えてしまいたい。ぽっくり眠るように死んでしまいたい。そうや、死んだらええんや。そしたら、こんな苦しい思いもせんでええし、倫夫も、か弱い嫁を裏切ったことを心から後悔するだろう。でも、とルイは改めて自分のあられもない姿を見つめた。このまま死んだら笑いものや。葬式に来た友達は棺桶にぎゅうぎゅう詰めの自分を見て、なんて言うやろ。死ぬんやったら、ガリガリに痩せてSサイズの棺桶に入れるようにならんと。そのためには……

「病院行こ」

 ルイは冬眠から覚めた熊のごとく、のっそりと立ち上がった。

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