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 大雨だったその日、お姉ちゃん死亡の知らせを病院で受け取った三十分後くらいに、私は普通に催したのでトイレに向かった。病院のトイレの個室には「気分の悪くなられた方はこちらのボタンを押してください」と説明のついたボタンがあって、それでふと笹山くんを思い出して、スマホを取り出した。

 通知を開くと、笹山くんから大盛りラーメンの写真と、「カロリーだけで家が建つ!」というよくわからないメッセージが届いていた。私は、「おいしそ」と送ってから少し考えて、でもすぐに考えるのをやめて、「今病院。さっきお姉ちゃん亡くなっちゃって。交通事故」と打って送信した。

 十秒後に「ほんとに?」と返信が来て「うん」と返したらしばらくなにも来なくなって、二十分後に、「哀悼の意を表します 」という返信が来た。それは絶対に笹山くんの語彙にはない言い回しだった。こんな場合の言葉を検索して貼り付けたのかな、と思ったら少し笑ってしまった。

 公欠の後に連休が続いたこともあり、笹山くんとはその後しばらく会えなかった。その間も、それまで毎日していたのと同じように、メッセージのやり取りを続けた。

 時々寝る前の時間なんかに、笹山くんは妙に自分の気持ちに饒舌になることがあった。笹山くんは笹山くんが私に「好き」と言うのと同じ回数の「好き」を私に要求したりはしなくて、時々確認みたいな感じで尋ねてくる程度だった。せいぜい「うん」としか言えない私に、その「うん」で完全に満腹になるらしい笹山くんの感じが伝わってきて、私も私の「うん」に熱い水になって溶けたみたいな気持ちになって、いつもそれを抱きかかえるようにして眠った。

 私は大丈夫だった。お姉ちゃんはあっけなく死んでしまったけど、どうやら死とは、歩いていった先にあるものではなくて、ある日突然足元に開く穴みたいなものだということがわかった。それは純粋な学びだった。突きつけられる無情な現実なんていう悲観めいたものじゃなくて、はいわかりました、と頷けばいいだけの、薄情なほどさっぱりとしたただの事実だった。


「全然、大丈夫だよ」


 そう言った時、激しょっぱ生梅干し飴の袋がようやく開いた。切り口からうまくあけることができず、袋が避けたような形になり、中身がばらばらとこぼれ落ちた。片手でそれを拾いながら、片手で炙り牛タン塩味ポテチを口に運ぶ。激しょっぱ生梅干し飴があらかた片付いたので、今度はシナモンアップルパイ味のキャラメルを開封し始める。赤い目印を引っ張ってフィルムをはずし、中身をごろごろと出した。

 これは全部チャレンジだ。食べた事のないものを軽率に買って食べてみる、という無意味なチャレンジ。笹山くんはあんまり乗り気じゃなかったけど、私は考えもなしにぽんぽんかごに入れて買ってきた。あとは小豆入りぜんざいミルクティーと、黒ごま風味黒糖ほうじ茶と、完熟ドリアンソーダがある。

 口に入れるのはいいけど、なぜか喉が詰まって飲み込めなくなった。少し詰め過ぎたみたいだ。流し込めばいいやと思って、ドリアンソーダの瓶を掴み、蓋を開けにかかる。

 

「もうそこまで!」


 笹山くんの手が、私からドリアンソーダを乱暴に奪い、テーブルの上にどんっ、と置いた。


「大丈夫な奴がな、牛タンと梅干しとアップルパイ一気に口に入れてな、それをドリアンで流し込んだりするか!?」


 私は咀嚼を止めて、なんて羅列だろう、と思った。笑おうとしたけど、なんだか急に気持ち悪くなって、口の中のものを吐き出し始めてしまった。


「あぁっ、ほら!」


 笹山くんが慌ててビニール袋を広げてくれて、私はそこに全部吐き出した。汚い。もったいない。私はなにをしてるのかなと思う。

 でも、わかってしまう。私は、このお菓子たちがおいしいかおいしくないかなんて、ほんとはどうでもいいと思っている。だって――

 

「だって人間てね、あっけなく死ぬんだよ」


 一旦吐き出してしまったら、知らずに押し固めていたものが立ち上がって駆け上がって、一斉に噴出した。お姉ちゃんの、笑った時の目じりのシワの、そんな細部が目に浮かんで、涙が湧き出す。


 お姉ちゃんは自由な人だった。やりたいことをやったし、行きたい所に行った。そのことでよく周りを心配させたり怒らせたりしていたけど、本人はからっと乾いた風みたいに身軽だった。

 優しさを真っ直ぐに出すことを恥ずかしがる人で、私が困っていると「しょうがないなぁ」と言って助けてくれた。面倒くさそうなふりを装った「しょうがないなぁ」が、私はとても好きだった。

 最後に話したのは、ふらりと帰ってきていたお姉ちゃんが、ひとり暮らしをするアパートに戻る日の朝だった。新しいヘアアイロンを買うから古いのはあげる、と言ったと思ったら横に来て私の髪を巻き始めて、トーストを食べ終わる頃には見事に過剰なカールを施された私が完成していた。こんなんじゃ学校行けないよ、と慌てる私を、お姉ちゃんは「似合う似合う。彼氏に見せてあげな」と笑った。私はなぜ笹山くんの存在がお姉ちゃんにバレているのかわからなくて、飛び出す鉄砲玉みたいな速さで家を出た。お姉ちゃんが後ろから「行ってらっしゃい!」と言った。

 最期、お姉ちゃんは綺麗に整えられていたけれど、眼球の復元はできないとかで、なくなったらしい目の部分にはガーゼが当てられていた。そのガーゼの白さがあまりにも清潔で、そこに感情を放出する余地さえ与えられていない気がして、だから私は、そっか、と思った。真空の中に体ごと投げ込まれたみたいな気持ちになって、全部、意味なんてないんだと思った。なにもかも、最後にはあっけなく終わるのだと。

 きっとみんな、ここが自分の結末だなんて気付かないうちに死んでいく。生きていくことが、ハッピーエンドで終わるなんて、きっとありえない。みんな等しく、なにもかもから手放されている。それは私の中で、答えとして成立した。

 だから、意味を付加することをやめなければいけなかった。私の考えることにもすることにも、意味はない。だから、おいしくないかもしれないお菓子をたくさん買うことも、元気のない家族の前で明るい自分として振る舞うことも、処女じゃなくなることも、全部簡単にできなければいけなかった。そこに、意味を付け添えてしまわないように。


 排出物が絡まって作動停止に陥る機械のように、私はゆるゆると失速して止まった。ひどい泣き方をしているような気もしたけど、笑っているのかもしれないとすら思えた。

 笹山くんは黙ったままだった。俯いている頭のてっぺんを見ながら、この人は私のことが好きなはずだけど、お菓子を吐き出した口のままよくわからないことを喋っている私のことは嫌いになるかもしれないと思った。


「……なんだよそれ」


 笹山くんは顔を上げる。


「一人で勝手に結論付けんな」

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