第四章 ボーイング
第31話 西田真央
階段を上がって踊り場を通り過ぎたとき、僅かにピアノの音が聞こえてきた。先程のリストを見た限り、練習室から漏れている音だろう。
扉が完全な防音ではないので音が聞こえてくるが、実際に聞くよりもずっと小さく、籠った音である。それでも璃緒は、レッスン室の前に用意されていた真新しいソファに座ってヴァイオリンケースを膝の上に置くと、聞こえてくる音に集中した。
きっと「西田真央」という人物が弾いているのだろう。どんな曲なんだろう、と聞いていると学校のチャイムのような音程が続く。
(知らない曲かも)
しかしそう思ったあとすぐに、聞いたことがあるメロディが耳に入って来た。
ゆったりとしているが、緩急がある。イメージをすると「夏」というのがぴったりくる曲だ。晴れた空には入道雲、そして何故かナスやキュウリと言った夏野菜も思い浮かぶ。それはこの曲が何気ない夏の風景を切り取ったかのような印象があるからだろう。
そして、この曲は間違いなくどこかで聞いたことがあるメロディだった。だが、曲名が思い浮かばない。
(それもそうか。私、メロディは覚えているけど、曲名と作曲者を一緒に覚えていないもんね)
璃緒は諦めて、僅かに聞こえてくる知ったメロディに耳を澄ませた。
「こんにちは、清水さん」
穏やかな声で呼びかけられ、璃緒は閉じていた目をパッと開く。顔を上に向けると、そこには瑞樹が立っていた。
「もしかしてお疲れですか?」
心配そうに尋ねられ、璃緒は慌てて否定した。どうやら少しの間眠っていたらしい。
「いえいえ、大丈夫ですっ」
丁度そのとき、練習室の扉がカチャリと開いた。璃緒は相手のことを考えてそちらを向いてはいけないと思い、何気ない風を装いながら、ヴァイオリンケースを持ち上げて立ち上がる。すると、瑞樹があの柔らかな声で「真央君」と声を掛けるのが聞こえた。
(まお、くん……?)
その瞬間、彼女の心の中にある興味関心が、練習室の方へ視線を向けさせた。見るとそこには、ワイシャツにスラックスを着た高校生ぐらいの青年が、右肩だけにリュックのショルダーストラップ掛けて、こちらを見ていた。
「練習終わり?」
瑞樹が朗らかな笑みを浮かべながら問うと、練習室の前に立った青年は無表情のままこくりと頷いた。
「はい」
「気を付けてね」
「はい。さようなら」
彼は礼儀正しく頭を下げると、さっさと階段を降りて行ってしまった。
(男の子だった)
璃緒はふと思った。練習室使用者リストに書かれた「西田真央」という文字と、瑞樹が言った「真央君」。この二つを総合して、間違いなく彼が「西田真央」だろう。
(女の子じゃなかった)
璃緒はそんな風に思いながら、自分の弟以外で男の子がピアノを弾いていることに、とても意外に思っている自分がいることに気づいた。
頭では男だろうが女だろうが、誰がピアノを弾いたっていいことは分かっている。ピアニストと呼ばれる人たちに男性がいることも当然だと思っているのだから。
しかし、璃緒がこれまでピアノのレッスンを経験してきた中で、自分と同い年の男の子がピアノを弾いている様はほとんど見たことがない。中学生のときに一人だけ、母親がピアノの講師をしているということもあり、「弾ける」と噂されていた男の子がいたが、クラス人たちにからかわれるのが嫌だったのか、卒業するまで弾いた姿を見ることはなかった。
またこれまで関わってきた先生も全員女性である。そのせいか自分と接点のある世界、例えばこの「ミューズ」という音楽教室に、男の子がピアノを弾いているというのが彼女にとってとても不思議な感覚だったのである。
「清水さん?」
璃緒の視線が真央の背を追ったままだったので、瑞樹は首を傾げながら声を掛けていた。
「あ、すみません……。あの子、真央君って言うんですね」
彼女は咄嗟に彼のことを話題にしていた。
星の音色 彩霞 @Pleiades_Yuri
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