第30話 想像

 ――西田真央にしだまお


 リストにはそう書いてあった。

 名前が書いてあるだけだったが、璃緒はそれを見てしまったことにちょっぴり罪悪感を覚える。今は役所や銀行などでは番号札で来店客を管理するようになってきているので、仕事柄個人情報に関して敏感になってしまっているのだ。そのため半分悪いことをしているような気分になってしまったのだが、正直言うと、もう半分は興味が沸いていた。


 走り書きされた字から、思わずどんな子か想像してしまう。

 名前からすると女の子のように思えるが、字の書き方から見ると男の子のようにも思える。だが璃緒は、そう思ってから後者を否定した。


(そういえば林さんの字、結構酷かった……)


「林さん」とは、職場の五つ上の先輩である。璃緒がこれまで見ていた女性の字は、多少癖があっても整っているものが多かったため、林の字を見たときはとても驚いた。

 独特のバランス感覚のせいなのか、並んだ文字はサイズがバラバラであるし、一つ一つの字も不格好。璃緒も癖字なので人のことは言えないが、さすがにそこまで酷くない。


(林の場合、顧客宛の封筒にその字で相手の名前を書いているのだから、度胸がある……)


 字の良し悪しを悪く言うのは違うのは分かっている。だが、自分だったら封筒を見た相手のことを考えて宛名を印刷した封筒を使うし、出来るだけ自分の字を見せないようにするものだが、林はそういうことを一切しない。

 凄いと言えば凄いし、仕事をする人としてどうなのかと思う部分もあるといえばあるのだが、単純に林の強烈な字を見たときに璃緒はそんな風に思い、それと同時に女性だから字が綺麗というわけではないことを悟った。


(西田さんは……中学生くらいかな。乱雑な印象があるけど、ゆっくり書けば案外綺麗な字を書くかも)


「清水さん?」

 ぼうっとしていた璃緒に千賀が首を傾げながら尋ねた。

「あっ、すみません。『練習室』もあるんだなと思って……」


 すると千賀は花が咲いたように嬉しそうに笑う。興味を持ってもらえたことが嬉しかったらしい。


「そうです、そうです。ここは『練習室』も完備しているんです。使うときにリストに名前を書いて下されば、ここの生徒さんなら誰が使っても構いません。ですから清水さんも良かったら」


 璃緒は「ありがとうございます」とお礼を言いつつ、「西田真央」という人物について何か聞けないかと思い千賀に質問してみた。


「あの……普段、どういう方が使っているんですか?」


 すると彼女は、ちょっと困ったように笑う。


「それがですねー、まだこの教室自体が始まったばかりであまり実績はないんですよ。今は一人……二人いるかな……くらい。『練習室』にはアップライトピアノが置いてありますから、大体は家にピアノがないとか、練習ができない事情がある方が使用しています」


「えっと……家にピアノがないのに、ピアノを習っているんですか?」


 璃緒が驚いた様子を見せると、千賀は「ふふっ、ちょっと驚きですよね」と言う。それには彼女も同感だった。普通、ピアノを始めるなら家にピアノがあるのが前提だろう。そうでなければ、レッスン室以外のどこでピアノの練習をするというのだ。


「ここのオーナーの方針なんです。『やりたい』と思ったときに出来るようにって」


 それを聞いて、璃緒は納得した。

 大川は、「この町でピアノやヴァイオリンを習いたいという人たちのために、それができるチャンスを作りたい」と言っていた。まさにそれを有言実行している。


「それは素敵ですね」


 璃緒が賛同すると、千賀は嬉しそうに笑った。


「ね!」


 丁度そこで話が切れたので、璃緒は千賀の後ろに見える事務所のなかの時計を見た。そろそろレッスン室の前で待っていた方がいいかもしれない。


「レッスン始まりますね」


 璃緒が時計を見ていたのには気づかなかったようだが、千賀は自分の腕時計を見てそう言った。


「そうですね。私は上へ行きます。それと、お話できて楽しかったです。ありがとうございます」


 千賀はあの柔らやかな笑みを浮かべて頷く。


「私もお会い出来て良かったです。また、分からないことがあればお声がけ下さいね。いつでも事務所にいるわけではありませんが、またお話出来たら嬉しいです」


「ありがとうございます。それじゃあ」


 璃緒は千賀に軽く会釈をすると、彼女に背を向けて階段の方へ向かう。すると後ろから千賀の明るい声が聞こえた。

「楽しんで下さいね」

 璃緒は一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 ——レッスンを楽しむ。


 それがどんな意味なのか分かったとき、璃緒はもう一度千賀の方をちらりと見ると、笑みを浮かべて軽く頭を下げた。


(楽しんで下さい、か)


 そんなことを言われたのは、習い事をしてきたこれまでのなかで初めてのことだ。

 子どもの頃のレッスンは、毎週来るその時間をどうにかして「消化すべきもの」という印象が強く、「楽しむ」という考えに至ったことがない。


 しかし、今は親の期待を背負っているわけではないし、お金を払ってもらっているわけでもない。目指す目標がなくても全然いい。そもそもこちらがお願いされてやっているのだから、肩の力を抜いて楽しんだ方がいいに決まっている。


 璃緒は足取り軽く、階段を昇り始めた。

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