第29話 事務所にいた人物
次のレッスンの日。
開始時間の15時に間に合うように余裕をもって家を出たところ、思った以上に早く着いてしまった。璃緒は車の中で数秒考えた後、「ミューズ」の中に入ることにした。
夏なので車の中で待っているのも避けたかったということもあるが、大抵こういう場所はレッスンを受けるために待つ場所が設けてある。璃緒がピアノのレッスンを受けていたところも、簡易的ではあるが廊下に椅子が設置されてあって、次にレッスンを受ける子はそこで待っていた。
前回来たとき椅子は設置されていなかった。しかし「休憩室」があることを確認していたので、そこが空いていたら待たせてもらえるのではないかと思い建物の中に入る。すると今日は事務室に人がいて、偶然にも、設置されていた透明な窓越しに目が合った。
璃緒よりも少し年上くらいだろうか。明るい茶色に染めた髪を、首の後ろで一つに束ねている女性だった。淡い緑色の細いフレームの眼鏡をかけていて、小奇麗な服を着ている。身長は低く、150cmもないのではないかと思うほど小柄だった。
璃緒が軽く会釈をすると、その人は事務室から出てきて「こんにちは」と満面の笑みを浮かべて挨拶をしてくれた。
「こんにちは」と返すと、よく通るしかし柔らかい印象の声で質問をされる。
「体験レッスンのお申し込みですか?」
事務室にいたくらいなので、きっとここの先生をしているか管理者なのだろう。そして璃緒を初めて見たのでそのように尋ねたのだと思われた。
「いいえ。これからレッスンなんです」
「あ、ヴァイオリンですね!」
彼女は璃緒が手にしていたケースを見ると、にこにことしながらヴァイオリンを弾くジェスチャーをする。初対面の人に対しても全く物怖じしない性格らしい。
「はい」
璃緒が頷いて階段の方へ向かおうとすると、女性は「ちょっと待ってください! 自己紹介を……!」と言うと、バタバタと事務所に戻り名刺入れを持ってきて、璃緒に名刺を差し出した。
ミューズ (ピアノ・ヴァイオリン教室)
Muse (Piano Violin Class)
ピアノ講師 緒方千賀
Piano Ogata Chika
「申し遅れました。私、ここでピアノの講師をしております、
璃緒は名刺を受け取りつつ、頭を下げた。
「清水璃緒です。こちらこそ」
「ところで清水さんはいつからこちらに?」
いつから、と問われ最初のレッスンの日を思い出す。
「八月の上旬からお世話になっています」
今は九月。つまり茉莉花からヴァイオリンのレッスンの話を聞いてからひと月経ったということだ。
「あら、じゃあもう数回はレッスンをしているってことかしら?」
「三回目ですかね。とはいっても、一回目と二回目はレッスンというより説明を受けて終わったような感じです」
「あはは、習い事を始めるときは大体そんなもんですよ。あ、もしかしてそろそろ始まります?」
小柄な女性は後ろを振り向いて、事務所にある時計を確認する。時刻は14時47分を示していた。
「いえ、少し早いみたいなので待たせてもらうかと思って。そういえばお聞きしたかったんですけど、二階にある『休憩室』って使えるんですか? レッスンが始まる前までそこで待機していようかなと思ったんですけど……」
「それでしたら、ちょうど一週間ほど前、廊下に椅子を設置しましたのでそこでお待ちになった方がいいかと思います。一階にも二階にも設置してあります」
言われて璃緒は視線を奥の方へ向ける。確かに、前回まではなかった椅子が廊下に設置されていた。
「分かりました」
「でも、『休憩室』を使うことも可能ですよ。ただお使いになる場合は、この事務室にある使用一覧表に名前と使用時間を書いていただいて、使い終わったらそのときもサインをしていただくことになっているので、少々手間がかかりますが……」
そう言って女性はバインダーに挟まれた紙を見せてくれる。表になっていて、「休憩室」「練習室」と書いてある。
「成程」
確かに管理側であれば、誰が使っているのかが分かっていた方がいいなと思ったとき、「練習室」の欄に走り書きされた名前を見てしまった。
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