第3話

 4、

「お、お前、あの一族の出だったのか。危うくーー誑かされるところだったぜ」

 誑かすも何も、そっちが勝手に入れ込んだクセに、と云い掛けて止まる。ニエマスの双眸は、夜目にも分かるくらい興奮でギラついていた。

「ってことはーーお前は、奴隷以下の存在ってわけだな」

 独り合点した挙げ句、嗜虐性に火が着いたのか、ニエマスは山刀を小刻みに振り回した。

 後ろに従う手下にも、ニエマスの興奮が伝染しているようだった。

「家畜だ! 山羊と一緒だ! 何したって、かまやしないんだ!」

 一人が情欲に上擦った声で叫ぶ。

 アルマナは全身の血が足元に下がるような気がした。一番、知られてはならない人間に素性を知られてしまった。

「朔まで待つこたあないぜ!」

 もう一人の手下も云い募る。

「ああーーそうだな!」

 涎を垂らさんばかりに、ニエマスが応じた。

 アルマナは急いで左右を見回したが、絶望に駆られただけだった。大岩の向こうは断崖絶壁、左右も急峻に落ちていて、降りることはかなわない。ニエマスと手下の三人をかいくぐって逃げることが、できようはずもなかった。

 今となっては、命乞いすら聞き入れられまい。

 ーーいや。

 アルマナは、山賊たちを、あらんかぎりの気迫を込めて睨み付けた。

 こんな奴等に、金輪際、命乞いなどするものか!

 いざとなれば、崖から飛び降りてでも、舌を噛んででも、奴等の目的を遂げさせないつもりだった。

「く、何てこった!」

 背後から声がしてアルマナは、岩の囚人のことがすっかり頭から消え去っていたのに思い当たった。

 ゴキッという不気味な音がしたのはそのときだった。

「ゲェッ!」

 ニエマスたちが、目を剥いている。

 岩の方を見たアルマナは、信じられない光景を目にした。

 玩弄され、壊れた人形ーーそうとしか見えないものが、そこにあった。タルスの手足が異常なくらい延びていた。それらは有り得ない方向にねじ曲がり、見ているだけで此方が痛みを感じる気がするほどだった。奇っ怪な蜘蛛の脚めいた四肢が蠢き、タルスを縛りつけていた鎖のいましめの僅かな隙間から、みる間に右手が抜け、左手が抜け、ついには両足が外れたのだった。

 グンニャリとなった手足が、短い呼気が吐き出されるごとに、復元していく。

 その場の誰も知らないことだが、タルスはヴェンダーヤの苦行僧の邪行を身につけていた。呼吸法によって痛みを麻痺させ、手足の関節を自ら外し、いましめから脱け出したのだった。

 すっかり元通りになったタルスが、蜻蛉を切って、岩の上に立った。恐るべき跳躍力だった。

「アルマナーー」

 虜の間は気づかなかったが、月影に照られたタルスは確かに人間ゾブオンとは異なる立ち姿に思われた。タルスはルルドとモーアキンの間の子である。手足は短くずんぐりむっくりで不恰好だった。しかし発達した筋肉が、それを補う、ある種の美を醸し出してもいた。

「アルマナーーいま決めるんだ」

「やって」

 アルマナに躊躇はなかった。

「けぇっ!」

 たわんだ枝の反発力の勢いで、タルスが跳んだ。怪鳥めいた影が、ニエマスたちの頭上に舞う。

 泡を食ったニエマスが山刀を振り回す。しかし腰の入っていない斬撃などタルスには何ほどでもない。

 死神と化したタルスは、ニエマスの頭蓋骨に全体重を載せて降り立った。

 蟇蛙が潰されたような声を挙げて、ニエマスが崩折れる。顎が胸にめり込んでいる。アルマナは気分が悪くなった。

 残りの二人は、さらに呆気なかった。一人は口の端しから泡を吹いて、タルスに襲いかかるが、体を入れ換えて躱され、背後から頸を捻り壊された。

 もう一人は、踵を返して逃げ出そうとしたが、三歩ほど進んだ位置で、タルスに捕まり、無造作に稜線から放り投げられた。

「けはっ!」

 不様な断末魔の声だけが、尾根に残った。

 圧倒的な殺戮だったが、タルスに警戒を解く暇はなかった。

「小屋の奴等が気づいていたみたいだ」

 その通りだった。アルマナの位置からも、尾根道を此方に向けて迫り来る灯りが幾つも見えた。と言うことは、叔母たちだけでなく、山賊たちも一緒にやって来るということだ。

「捕まったら、今度こそ命はないな」

 どこか他人事のようにタルスが云う。

「どうやら生き残るには、あんたの力が要るようだ」

 それはアルマナにも分かっていた。やるしかなかった。烏人ザレ=ムを呼ぶしか。

 滅亡後に分岐した有翼人種のうち、言葉を失うほど知性が退化した一派が烏人ザレ=ムだった。しかし心話の力は残った。母の一族は、翼を失ったがやはり心話の力は残っていた。

 そのことによって、完全な意志疎通は望むべくもないが、心話で烏人ザレ=ムを呼び、使嗾することが可能になったのだ。それが母の一族の秘密だった。しかし父と一緒になってより人間ゾブオンに同化しようとした母は、死の間際にあっても、その力を使おうとはしなかった。母はアルマナに、ただの人間ゾブオンとして生きて欲しいと願っていた。アルマナに力を使わないことを約束させていた。

 ーーでもわたしは、約束よりも生き残る道を選ぼう。

 崖の縁に駆け寄るとアルマナは、両手を拡げ目を閉じた。胸の裡で太古の詞を唱える。自ずとそれは口から洩れ、辺りを切り裂くような鋭い叫びとなった。

 おぞましい、人語ならざる年ふりた音律が山々に響き渡る。タルスは僅かに顔をしかめた。

 それ、が訪れたのが分かったのは、聞いたこともないような強い羽ばたきが耳朶を打ったからだ。奇岩を大きな影が二つ、横切った。タルスは上空を見上げて、ゾッとなった。南北の大陸を渡り歩いたタルスでも、初めてみる異様な生物だった。

 その奇っ怪な生物が、躊躇うことなく舞い降りてきた。

 尾根に降り立った烏人ザレ=ムは、見上げるほどの背丈をしていた。四肢はひょろ長く伸び、しかも、ねじくれて見えた。

 歪な形の頭部といい、醜い鉤爪といい、なまじ、人間ゾブオンに近い姿をしていることが、逆に涜神的なおぞましさを呼び起こす。人間ゾブオンの想像する悪魔を具現化したものーーそれが烏人ザレ=ムだった。

 その悪魔が、蝙蝠の皮膜めいた翼を閉じて、跪いた。頭を垂れ、忠実なる臣下の如く。

 アルマナこそ、彼等の女王であった。

 

 5、

 無惨に殺されたニエマスを発見して、山賊の頭領ザキは悲嘆にくれ、次いで復讐の雄叫びを挙げた。

 しかし、彼の手下どもは、あまりに信じがたい悪夢めいた光景に、頭領に追従の悔みを述べることすらできなかった。

 雄大な脊梁山脈を背景に、二つの影が夜空を遠ざかっていく。

 巨大な翼を持つ怪生物が、二人の裏切り者を乗せ跳び去っていく姿は、人間ゾブオンの、天敵に対する原初的な恐怖を呼び起こしたのだった。

(了)

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約束の日 しげぞう @ikue201

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