第2話

2、

 翌日もアルマナは、朝から忙しくたち働いた。

 水汲み場は、小屋から斜面を下った谷底の湧水で、重い桶を担いで、日に何度も往復しなければならない。その合間に、山羊の世話や薪拾い、畑仕事、機織りと、息つく暇もないのだった。

 それでも、幼い時分に父を亡くし、母も死んだいま、アルマナを引き取って屋根の下に住まわせてやっている恩情を、遠縁の叔父叔母は強調するのだった。

 水桶から大瓶に汲み水を移していたとき、ニエマスがやって来た。仲間を二人引き連れている。男たちは、いつものように、締まりのない厭らしい顔つきで、重労働をするアルマナを冷やかした。

「よう、アルマナ」

 仕方なくアルマナは応じた。

「はい、何の御用でしょう、副頭領」

 正しくは、ニエマスはまだ副頭領ではなかったが、誰もがそう見なしていた。ニエマスは、山賊の頭領ザキの息子だった。ザキはこの出来の悪い長男を溺愛していて、そのためニエマスはいっぱしの山賊気取りで、荒くれたちを顎で遣っていた。

 叔父叔母の小屋は、山賊の息のかかった拠点の一つであった。普段の仕事は見張りで、一朝、山賊狩りの警備隊を発見すると、狼煙で報せる仕掛けになっていた。無論、金が出る。この山域にはこのような見張り小屋が幾つもあって、互いに報せを行き来させては、代わりに山賊の恩恵に預かっているのだった。

 脊梁山脈の尾根には、何万年もの往古、一帯を版図とした古代皇国ザレムによって敷かれた街道が健在だった。石畳で整備された街道は、往来がしやすいが、同時に山賊に狙われやすい。山賊たちは、古代皇国ザレムの子孫を自称し、通行税を徴収していると嘯いていた。そこで、街道で結ばれた国々の盟主たちは、共同で街道警備の兵に警邏させていたのだった。

 反対に、低地の道は土や石塊がそのままで、移動には時間を要する。その代わり比較的、山賊の出没が少ないので、隊商や伝令は、安全と時間とを天秤に掛けて道を選ぶのだ。

「御用ってほどじゃないけどな……」

 ニエマスは下卑た笑いを浮かべていたが、やにわにアルマナの腕を掴んで引き寄せ、反対の手で膨らみはじめた胸を乱暴に苛った。手下どもが追従の歓声を挙げた。

「やめて!」

 アルマナは、嫌悪感の余り、勢いよくニエマスの手を振りほどいて、頬を張った。

 少女の抵抗に、ニエマスの顔が一瞬赤黒く染まった。しかし思い直したように、またニヤニヤ笑いを取り戻して、アルマナを突き飛ばした。

「次の朔までおあずけだ」

 そう吐き捨てると、三人は高笑いとともに去っていった。

 屈辱感で、手が、全身が震えている。アルマナは唇を噛み締めた。

 次の新月の晩、ニエマスは正式に山賊の副頭領になる。そうなれば、あの叔父叔母は、喜び勇んでアルマナをニエマスに差し出すだろう。アルマナの未来は決まってしまったも同然だった。薄汚い山小屋に閉じ込められ、妻とは名ばかりで奴隷のように玩ばれ、飽きられたら売り払われる、そんな暗くみじめな未来が。

 ーーあの囚人の処に行くしかない。

 そのあとは、水汲みをしながらも、山羊に餌をやりながらも、ひたすらそのことだけを考えていた。

 だから夜が更けるとアルマナは、寝所に引っ込むふりをして、すぐに奇岩へと向かった。昨夜より、一段と月影が弱く感じられた。

 しかし、いざ男を前にすると、やはり疑いの心持ちがわき上がる。そこでまず、タルスが烏人ザレ=ムのことを、どう理解しているかを聞くことにしたのだった。

 

 3、

「古代皇国ザレムは、人間ゾブオンの国じゃなかった。今は名前も忘れ去られた有翼人種の国だ。山賊どもが末裔だなんて嘘っぱちだ。彼等は人間ゾブオンを奴隷として使役していた。街道は人間ゾブオンが、物資を運ぶためのものだ。彼等自身に道は必要ではなかった。彼等は空をかける。王宮は山嶺にあって、空からしか訪うことが出来ない造りだった。彼等自身は心話で互いに伝達し合いうため全く問題なかった。それでもあんな道を造れるくらい強大な国だったんだ……」

 タルスの語る「歴史」は、アルマナが母から伝えられた内容と一致していた。

人間ゾブオンが有翼人種に反旗を翻したとき、既に彼等は往時の活力を失っていた。長命で強力な文明を持つ彼等は、享楽に溺れ、衰退の一途を辿っていたのだ。勝負は呆気なく着き、王宮は炎に包まれた。僅かばかりの生残りは、考え方の違いからさらに分裂した……」

 月が南天に昇っていく。気温は下がり続けていたが、不思議と寒くは感じない。虜のままで喋るタルスを楽な体勢にしてやりたくなったが、アルマナの腕では、鎖はびくともしないだろう。

人間ゾブオンを嫌い、純血を守るためさらに険しい山中の洞窟に籠った一派は、すっかり退化してしまった。いまや言葉も忘れて獣同然だ。一方、真の姿を隠して人間ゾブオンに紛れ込んだ一派もいた。彼等も翼を失ったが、太古の記憶を口伝えで遺していった。アルマナ、おまえの母親の一族だ」

 そう、その通りだ。

 母は古の種族の血を引く一族の出だった。それが母の命を縮めた。

 長い時代を経て、種族の血は人間ゾブオンと混じり合い、有翼人種の形質は消えた。だが、人間ゾブオン社会に刻みつけられた恐怖は拭い去ることはできなかった。母の一族は、理由は判らぬまま賤しまれ、母と所帯を持った父は邑を出奔せねばならなかった。父が死に、女手一つでアルマナを育てた母も、ある日、出自を明かされ、暴徒に殺された。アルマナは、一族の最後の生き残りだった。

「俺も、異種族の間の子よ。しかも両おやとも人間ゾブオンですらない。だからってわけじゃないが、おまえにとってどっちが生きやすいか、選ぶ機会があればと思った。分かっているだろうが、ヴェジャの〈仕事〉とやらも、どうせマトモなもんじゃない。だから単純な分かれ道なんだ。このままここで暮らすか、思いきって飛び出すか……」

 最後の方は半ば独り言めいていた。しかしアルマナの心は既に決まっていた。タルスが本当にトレム叔父の処に連れていくかどうかすら、もはやどうでもよかった。今はただひたすら、ここから出ていきたかった。

 アルマナは、寒さのあまり組んでいた両腕をほどく。すると、袖の中に隠してあった小振りな鉈が露になった。

「おい……」

 タルスが無事な方の目を見開いた。

 そんな囚人に頓着することなく、振りかぶったアルマナは、満身の力を込めて鉈を打ち下ろした。

 ガチッという鈍い音が闇夜に響いた。鉈の刃は、くろがねの鎖に弾かれた。

「やっぱり、壊せないわね」

 アルマナがひとりごちる。

「あぶねえーー無茶するな!」

 タルスが抗議した。

「俺は自分でどうにかできる! それより……」

 タルスが、目線で訴えかけた。アルマナは、振り向いた。

 そこには、あの厭らしいニエマスが、抜き身の山刀を提げて立っていた。

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