6:築いていく
【Ⅰ】 凶器
「いい気味」
尋問担当の上級司令官——名はシュアだった——の存在を内側に押し込めた状態で、クレイドは久方ぶりにユリユの前に現れた。大方、見くびった彼女にしてやられたのだろう。顔を見るたび憎しみしか湧かない相手だったが、今ばかりは少し気分が良かった。だからそう言ってやったのだが、クレイドは顔色一つ変えない。
「何とかしろ」
「できるわけがないでしょう。私はただの癒し手で、癒しの呪は外傷を治す技術。そんなことも分からない知能になったのなら、さらにいい気味です」
ベイデルハルクやクレイドに飼われている。無論、ユリユにはその立場の自覚はあった。しかしただ飼われているつもりもなかった。こちらは、中央に無二の域にある癒しの呪という益を供給する。あちらがその益を惜しめる範囲の勝手をする。あくまで表面に出てくる部分では、だが。
「飼い犬だと思っていた人間に、手を噛まれ続ける心地はどうです? 長いことかけて育てて来た白軍を使っての東大陸攻めは失敗、西大陸が自然に内乱をするよう対立を煽ったことも失敗、叶ったのは精々恐怖で繋ぎ止めた兵を手元に残せたことくらい。結局はほぼあなたたちだけの力で世界を崩壊させる他なくなった。七百年かけて積み重ねてきたものがほとんど徒労になりましたね。その上祠攻めの結果も芳しくないようで」
クレイドは鼻で笑うだけだった。もう少し、言葉を重ねてみる。
「でも、あなたより、ベイデルハルクの心中を確かめるべきかしら。流石の彼も、あなたによって【超越の呪】の情報が漏洩したとは思っていないのでしょうね。知ればより酷い気持ちになりそうだわ。仲違いでもしてくれると嬉しいのですけど」
「その揺さぶりに効果はないことくらい、お前も分かっているだろう。俺が他人に弱味を握らせるとでも思ったか? あの方はそれを知ったところで、俺に危害を加えることはない。お前と同じだ。益が不利益を上回る。この状況ならば特にな」
「本当のところは、あの男よりあなたの方が狂っているのかもしれない。あの男は最終的に安寧を求めているようだけれど、あなたはどこまで行っても乱世を求めているのだから。あなたたちがたとえ思うように道を歩んだとしても、最後に進路は分かたれるのでしょうね」
【超越の呪】の研究文書は、クレイドを唆して手に入れたものだった。「その方があなたが楽しめる世界になる」と囁くだけで事足りた。クレイドにベイデルハルクへの翻意はないのだろう。ただ単に、あちらへ少し手を貸さなければ、クレイドが遊ぶ間もなくベイデルハルクの勝利で終わると考えたからであろうし、事実その考えは正しかっただろう。
この世の根底にある祈りに関与する、運命操作とも呼ぶべき能力。ベイデルハルクは間違いなくその力を既に手にしている。ユリユは二十年程前から持っていた王国の知識と、大聖堂で読んだ禁書、そして最近手に入れた【超越の呪】の研究文書とでその事実に辿り着いた。対抗するには、同じだけの力を持たなければならない。あちらにいると聞く王国の姫ならば、術さえ分かれば渡り合えるはずだ。そうなってようやく絶望的な戦いに一縷の希望が見え始める。
解せないのは、そこまでの力を持っていながら、ベイデルハルクがこれまで不本意だったであろう事件を幾度も許容してきたことだ。運命に干渉することは、多大な力を使うために要所でしか使いたくないのだろうか。ユリユが現在導ける答えは、それしかなかった。
溜息を一つ零して思考を打ち切り、手元の本に目を戻す。
「用件はお済みでしょう。帰ってくださる? 私があなたの顔を見ていたくないことくらい、ご存知のはずですね」
「お前にどうにかできないのならば、お前の息子を俺の器にする」
緩やかに上げた視線で、クレイドを見た。できるだけ冷たく見える微笑を急いで拵えて、顔に貼りつける。
「好きになされば? あの子は私が望んでの子ではないことは、あなたが一番知っているはずです」
「あれを守るために自ら我々に降っておいて、よく言う」
「私がここに来たのは、あなたたちに私という毒を含ませるため」
その台詞を最後に、ユリユは今度こそ視線を本に遣った。
この状態のクレイドをどうにもできない、というのは本当の話だ。だからここで慌てても、クレイドがセトを狙いに行くという未来は変わらない。興味も執着もないように装うことが、今後のことも考えれば一番ましな選択だ。歯痒いが、対策は本人に委ねるしかない。
しかし、そろそろ、ユリユがここにいることで得られる益と不益が逆転してしまう頃合いと思われる。自分では、人質として扱われたとき、セトや周辺の人物に枷を嵌めてしまうことになるかもしれない。だからあのシュアという上級司令官に手柄を立てさせて、そのとき死んでしまってもいいと思っていた。彼女が揺れていることは尋問官でなくても分かった。そういう人間にユリユの次の毒になってもらいたかったのだ。
だがシュアは、命を賭してユリユを庇ってしまった。ベイデルハルクに裁きを与えられた彼女を救命できたことは知っていた。しかし、それだけでは足りるはずもない。彼女の行いに報いる何かを、新たに果たさなければならなくなった。だからまだ、こうしてここにいる。
次に何かをできるとしたら、何か。支部連合軍側が窮地に陥ったときに、一助になろうとは思っている。だが、戦闘能力は皆無と言ってもいいこの身でできることは多くなかろう。貢献できるとしたら、結局は情報の面でしかない。大聖堂にあった禁書——あれは今、どこにあるだろうか。おそらく、無防備に大聖堂に残したままにはしていないだろう。もしここまで運び込まれているのなら、何としても目を通したい。何か有益な情報が必ず眠っているはずだ。
そして、癒しの永続呪をできれば授けたい。使い方が分かったところで扱い切れる者は多くないだろう。もしかしたら誰にもできないかもしれない。だが、誰かが扱えたなら、あるのとないのとでは大きく違う。十三年ぶりに、こちらから一方的にだが再会した我が子を思う。自分で自分に行ったらしい治療の痕跡を見た限り、あと数年もあればセトの癒しの呪はユリユの域に到達する。あの子になら、と期待をかけずにはいられない。癒しの才が受け継がれたと知った当初は、絶望しかなかったが——逆風の中生きていくことが確定した我が子の行く末を案じたゆえだ——今は己に追随するほどになった息子を頼もしく思っている。それがために、これからより熾烈になる争いの中から絶対に抜け出せないだろうことを思うと、やはり遺伝を呪わしく感じる瞬間もありはするが。
何にせよ、できることは今もなおある。落としていた視線が左手の薬指に留まった。この誓いの証が発奮の原動力になったのは、もう何度目か数えられない。
——イベット、ワグレの皆、きっともうすぐよ。
ユリユらラフェンティアルン王国軍——ワグレの研究者らで勝手に名乗っているだけだが——の最終目的は、王国を蹂躙し、さらに史実を捻じ曲げ、無意味な争いを強いて来た白軍組織の転覆だった。できれば無血でと思っていたが、ワグレを、仲間たちを、同郷の人々を、そしてイベットまでをも皆葬られてまで願えるほど、ユリユは清くも正しくもいられない。
諸悪の根源は一掃する。毒で足りないならば、次は刃になろう。懐に凶器を飼っていたことを、いつか必ず後悔させてみせる。踵を返したクレイドの背中を冷たく見据えながら、ユリユは静かに覚悟を新たにした。
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