【Ⅶ】—5 選択

 小さく、セトは息を吸って吐いた。努力してもう一度頭と心とを切断する。必要なのは狂いのない思考だ。尊敬する師を視界に留めることで、どうにか頭を動かした。師はいつだって、思考を絶やさない人だったから。


 こちらに決断を迫ったということは、元の身体の持ち主の合意なしに器を奪取するのは至難を極めるのだろう。ランテの身体を女神が征服するときも、本人の意識が飛んだときばかりだったことから考えても、正解に近い推測と言えそうだ。だからこれは駆け引きや揺さぶりではない。こちらが受け入れればこの身体を、拒めばハリアルの身体を確保するつもりで言ってきている。


 そして、あちらが欲しいのはどちらか。その答えももう見えていた。ハリアルの身体が欲しければ、とっくに【転移の呪】で連れ帰っている。わざわざセトの到着を待ったのは、状況を整えて、本当に欲しい身体がやって来るのを望んだからだ。


 あのとき——我が身と引き換えにでもとハリアルの蘇生を願ったとき、頭の中で師と己を天秤にかけた瞬間が確かにあった。皿に乗せた瞬間に結果が決まるほどの重みの差が、確実にあった。冷静でなかったことを差し引いても変わらない。知能、戦力、経験、人脈、求心力——どれを取っても、ハリアルは無二の人物だ。北支部にとって絶対に失えない人間だった。


 だが、今は状況が違う。ハリアルを守り抜いたところで目覚めるかどうかは定かではない。目覚めるとしてもいつになるか分からない。そんな中、現在支部の最高責任者であり、また最も状況を事細かに知る自分がいなくなったとしたら。北支部には優秀な人間が多いと胸を張って言えるが、混乱は必至だ。急に重責を負うことになる人間の負担は計り知れない。


 そして、この身を渡せば同時に癒しの呪をも敵に与えることになる。クレイドの剣技に癒しの呪が備わったなら、純粋な誓う者を相手にしているときと変わらないような絶望感を、対峙する者に与えよう。


 私情は完全に殺したつもりだ。殺しても殺しても繰り返し湧き上がってくるが、この判断は情にかかずらって誤るわけにはいかない。もう一度師の姿を見つめる。敬愛と憧憬と感謝と後悔と悲嘆と無念と躊躇と。感情の横溢を、その瞬間だけは己に許した。


「この身体は渡せない」


「ほう」


 真の覚悟を初めてした。それを悔いることのできない立場に、自分はもう、立っていた。


「支部長の身体を素直に渡す気もない」


 現在のクレイドはどう見ても万全の状態ではない。こちらも体調の枷はある上に人質を複数取られている状況だが、勝負をかけるなら今だった。それが分の悪い勝負でもだ。


「やってみろ」


 クレイドはハリアルを己の背中側に投げ倒し、剣腕を倒れた兵二人の方へ掲げた。そこへ【疾風】で割って入って、同時に自力で動ける世話係二人に声を掛ける。


「扉へ!」


 意識のないハリアルと自力で動けない兵二人に、非戦闘員の世話役二人——守るべき対象が五人いる状態で、全てを守ろうとするのは、相手を考えれば無茶極まりない選択だ。


 そう、全てを守ろうとするならば。


 剣は剣で受け止める。両腕で支えればどうにか止まった。これで兵二人は背中に庇えた。自分が動かない限り、二人は安全圏だ。クレイドは次に扉に向かった世話係らに意識を向ける。扉まで彼らの足で残り八歩の距離——このままクレイドを行かせたら、あと二歩進んだところで追いつかれる。


 だが、クレイドはそちらには行かない。択が多いのはあちらも同じ、もう手は打った後だ。


「何」


 敵の意表を突けたことを、セトはその声でもって知った。笑えはしない。心を殺しているのに必死だった。走らせた風が刻む結果は、どんなものでも、本当ならば望みたくはない択ばかりだったので。でも——


 支部長。あなたが守ってきたものは、何一つ傷つけさせない。


 放った【風切】を目で追う間の回想は、多分一瞬のことだっただろう。この呪を教えてくれたのは他でもないハリアルだ。これのみではない。こうして握っている剣も、蓄えてきた知識も、巡らせている思考も、左腕にある支部要人の証も、無二の仲間たちも、ようやく持てるようになった矜持も自負も、全て。


 ——何もかも、あなたがあってのオレなんです。


 あのときの言葉に一片も嘘はない。今までも、これからもだ。


 だからこそ、だからこそだった。


 加減など欠片もない、文字通り渾身の風の刃は、一途にハリアルの元へと走った。風が目的地に届くのと、クレイドがそこに到着するのとは、全くの同時だ。


「くっ」


 追いつかれるのは計算外だったが、微かに苦悶の声を上げたのはクレイドだ。流石に【光速】で飛び込むのがやっとで、防御呪が間に合わなかったらしい。追撃の準備も済んでいる。既に迷いはなかった。上級呪【狂風】。もろともになる。それでもいいと——いや、むしろそうしなさいと、師と仰いだあの人ならば言う。


 激しい辛苦の中でどうにか心を殺し切ってようやく選べた択だった。温い覚悟のほどではなかった。躊躇いはなかったし、己の力量の全てを出し切ったことは間違いない。


 それでもなお、届かなかっただけのこと。純粋に力不足だったという、つまらない、それでいて如何ともしがたい現実に阻まれただけのことだ。風の止んだロビーの奥処には、それなりの量の血痕だけが残っている。クレイドとハリアルは跡形もなく消え去っていた。つまり、敵はハリアルという優れた器を手に入れたということだ。


 心の停止には、ここまでで一番の努力が必要だった。無力感と虚脱感に打ち勝つのは易くはない。目を閉じて深く息を吐き出してから、セトは剣を収めた。返答を与えた段階で、こうなる未来が一番予見された。覚悟のうえで選んだことだ。最早受け止めて、先に進むしかない。


「よく耐えてくれた」


 共に重傷を負っていた兵二人に声を掛ける。意識があったからこそ堪えただろう。二人同時に癒し始めながら、扉の前で呆然と立ち尽くしている世話係二人にも呼び掛けた。


「恐ろしい目に遭わせたことと、あなた方の主人を守れなかったこと、申し訳ありません」


「ああ……」


 セトに声を掛けられたことで、初めて事態を理解したのだろう。彼らは二人して萎れるようにして座り込み、顔を俯け両手で覆った。全く同じ挙動を見ていると、確証はないが夫婦に思える。ハリアルは屋敷に帰ることがほとんどなく、必然セトもここを訪れることはなかった。そのため二人とは知り合いではないが、引きずられそうになるほど、彼らと同じ感情を抱きたがっている己を自覚する。


「……あなた方に責はありません。支部長は、自分のために誰かが犠牲になることは望まなかったでしょう」


 だから、ハリアルに一番の危険を背負ってもらった。これまで彼が懸命に守ってきたものを最期まで守り切ることができるように。それはこのエルティという街であり、そこに住まう人々であり、己が導いてきた支部の兵たちであり——そして、実の子のように扱ってきた者である。無事その全ては守られた。あまりにも惜しい、傑物の長の身と引き換えに。


 ハリアルは、今度こそ戻らない。いや、戻ってきたとしたら、そのときは敵として、器だけで戻ってくるだろう。皆が受け入れがたいこの事実をどうにか受け入れられるようにするのは、自分の役目だ。兵を癒し終えてセトは立ち上がった。守られたこの身がその価値を持てるように、なすべきことをなそうと思った。

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