【Ⅶ】—4 器
風に二人で乗るのは余計な消耗を招くだけだ。途中出会った兵に召喚士を任せ、セトは一人で屋敷に向かっていた。朝方のまだ冷えている風が、幾らかセトに冷静さを取り戻させてくれた。意識して己を落ち着かせて、思考を巡らせる。
どうやって警戒態勢の街へ侵入したのか。召喚士一人くらいなら、かなり前から——それこそ数年前から潜り込んでいた可能性がある。しかし聖者の方は転移の呪を使ったとしか思えない。屋敷に来る、あるいは既に来ている聖者とは、ほぼ間違いなくクレイドだろう。炎の祠を落としてからまだ一日経っていない。相手は呪力さえ消費しなければ疲労を感じない身体の誓う者。この程度は無茶でも何でもないのだろうが、これほど身軽に動き回られては、被害が増すばかりだ。何か手を打たなくてはならない。
必要な思考だった。が、呪と呪の合間、無意識にその僅かな時間を惜しんだか、多少走っていた。気を付けていたのに、という後悔は遅い。冷えた空気を取り込み過ぎて咽ることになる。血の味はしなくなったし、熱も高熱の域は抜けたが、まだ万全とは言えない。
この身体で、どうする?
これも考える必要があった。兵を連れて行くのは、個々の技量が高い北の兵であっても、徒に被害を増やすだけだ。相手が疲労で鈍るなら考慮の余地があるが、そうではない以上は、散華に意味すら与えてやれない。では一人で行くか? ワグレでの光景が、セトの脳裏を駆け抜ける。白獣の気で少しばかり身体が重かったとはいえ、ほとんど万全の状態だった自分を含めた、北支部の精鋭四人がかりで交戦しても、傷一つつけられなかった相手だ。勝算は皆無と言う他ない。
ただ——
父親と呼ぶのも悍ましいあの男は、なぜ子など成したのか。目障りだったユリユを再起不能にしたかったというのは間違いない。だが、それならば殺した方が手間がかからなかったはずだ。なぜ禁忌を犯させるという回りくどい手法を取ったのか。疑問はこれだけではない。少なく見積もっても四度、あの男には自分を殺せる機会があった。口では殺すと言いながらも見逃し続け、何なら治療まで受けさせて、こうして生かしている。
何かある。確信できた。
ゆえに、一人で行くのは無謀でも捨身でもない。ハリアルからの諫言もノタナからの心配もユウラとの約束も、全部無碍にはしないともう決めていた。
「副長?」
屋敷の前には、常と変わらず見張りが二人立っている。異変には気づいていない。彼らは騒ぎの起こっている外を警戒していただろう。無理もないが、屋敷の中には既に異質な気配が一つある。何やら前に遭遇したときとは違う気配だが、それでもクレイドであるのは分かった。扉のすぐ向こうのロビーにいると思しい。そこには他にも数人、生きた人間がいるのが分かった。おそらく、屋敷内の人間が集められている。ハリアルは本来二階奥の寝室に寝かされているはずで、そのままならばまだ距離があるが、この分だともうロビーまで連れてこられていると考えるのが適当だろう。そこにいるとしても、意識のないハリアルの気配は微弱で読み取れまい。クレイドが全く動いていないのは、わざわざこちらの到着を待っているのか。
「中に誰も入れないでくれ。オレが声を掛けるか、物音がしなくなってからしばらく経つまで」
「え?」
状況説明をせずに済むならその方がいいと思っていたが、流石に言わないままでは納得も承服もできない様子だ。やむなく全て話すことにした。
「中にクレイド聖者がいる。他を守りながら戦える相手じゃない。死人を出したくないんだ。頼む」
「しかし、副長。我々は、副長まで欠くわけには——」
「分かってる。ありがとう。それでも、オレに任せてくれ」
返事は待たないことにした。一つ、深い息を落とす。気配は隠さず、一度収めていた剣を抜き直しながら、セトは正面から屋敷に入った。見張りは狼狽えこそしていたものの、止めはしない。限られた時間の中で、できるだけ言葉は選んだつもりだが、足手まといだと言ったも同然だ。誇りを傷つけただろう。生きて戻って、後でフォローしなければ。
「来たか」
クレイドは、既に屋敷内を制圧したらしかった。ハリアルの部屋の前にいただろう見張り二人が——酷い手傷を負わされているが、まだ息はある——倒されていて、世話係だろう、男女一人ずつが怯えた様子で座り込んでいる。そして意識を失ったままのハリアルもやはりロビーまで運ばれたらしく、クレイドの足元に寝かされていた。転移の呪で突然屋敷内に現れたのだろうが、すぐ外にいる見張りにすら悟らせずにここまでやり遂げたらしい。
そしてやはり、何やらクレイドの気配が変容している。その訳は、呪力を丁寧に探れば知れた。内側から微かにシュアの呪力を感知できるのだ。抑え込まれているようだが、彼女の力が抗おうとしているのも読み取れた。なぜそのような状態になっているかは定かでないが、それがクレイドにとって煩わしいことの方に属するのは間違いない。
極めて冷静に、セトはそれらの情報を揃え終えた。どうしてそうしていられたのかは分からない。どこか俯瞰して状況を眺めているような感覚がある。襲撃に間に合わなかった以上、ここで焦っても何にもならないことは確かであり、よって支部の責任者として正しい姿勢ではあるのだろう。
「支部長が狙いじゃないのか?」
「そのつもりだったのだがな。気が変わった」
「あんたと交渉はしない。……たとえ支部長を質に取られたとしても」
「俺と交渉ができる立場か?」
「なら何のために全員生かしてる?」
問いに問いで返せば、クレイドは答えなかったが、微かだった笑みを深めた。抜き身だった剣を、倒れ伏しているハリアルにゆっくりと宛がってから口を開く。
「思いの外動揺せんな」
「動揺しても何も変わらない」
「それでも心を鎮められんのが人間だろう」
「その中で最善を尽くそうとするのが人間だ。問答をしに来たわけじゃないだろ。何をしに来た?」
目の前の男と言葉を交わすうちに、セトは自分が今現在冷静でいられる訳に行き当たった。中央で精神の限界寸前まで追い込まれたこと、そこで無理やりにでも立ち続けるために見つけた脳と心とを切り離すあり方。そうあるべきだと理解してはいたことを、ようやく体得できたのだ。
「器を取りに来た」
誓う者が器と呼ぶものとは。そう難しい問いにはならなかった。精神だけになった者が誓いの他に器を必要とするならば、それはきっと肉体を取り戻すということだ。心とは乖離した頭がその先を理解する。感情の遅れ、あるいは鈍りが今はありがたい。ああ、と得心の息が零れた。
「それが血縁を欲した理由か? オレを殺さなかったのもそれでか」
「母親の血が濃いのが懸念点だがな」
思えば、ランテの中にいるラフェンティアルンは始まりの女神であり誓う者だが、彼女はランテの身体を一時的に乗っ取ることができていた。誓う者も既に存在している肉体の主導権を奪うことで、新たな器を得ることができる。クレイドはそれを求めて子を成したらしい。何らかの繋がりがある方が、身体の占拠はしやすいことは想像に難くない。
「一度捨てた身体をなぜ欲しがる?」
「俺は望んで誓った訳ではない。時呪の束縛から逃れるために、身体を捨てる必要があっただけだ。ただでさえ斬られぬのに、ようやく斬られても何も感じぬ身体はつまらんからな」
それだけではないだろう。クレイドの存在の中に混じった異物——シュアの呪力を統制しきれていないせいか、偶にクレイドの外形が揺らぐことがある。存在を安定させるために、おそらく今は肉の器が必要なのだ。
「身体を寄越せ。寄越さなければここにいる人間を全員殺す。言いたいことはこうか?」
「いや。選ばせてやる。ハリアルか、お前の身体か」
何を言っているのか、一瞬、理解できなかった。暫し思考の時間を要して、どうにか把握する。
あのとき——ハリアルがベイデルハルクに致命傷を負わされたとき、セトは自らの存在を呪力に転換して肉の不足を補う癒しの呪を使った。つまりハリアルに自分の一部が今なお紛れ込んでいるようなものであり、それによって、クレイドとハリアルの間にまで繋がりを与えてしまったのだ。だから、クレイドはどちらかを選べるようになった。
今度ばかりは、心を波立たせずにはいられなかった。すぐには答えられないセトを前にして、クレイドは笑みに含ませる嘲りを強めていった。
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