【Ⅶ】—2 母
平原を長距離、一人で渡るのは久しぶりだった。一人旅ならば、時折【疾風】を使いながら徒歩で行く方が速い。
ノベリら使節団とはピッサで別れていた。本当ならば、自分が責任を持って王都まで——使節団の待機場所は、ミゼに頼んで王都に用意してもらっていた。流石に敵地の只中では気が休まらないだろうから――送り届けるべきだったが、かなり長い間エルティに戻っていない。現在全権を握るレクシスのことは信頼しているものの、状況把握と方針確認、そして治療のために、どうしても一度支部に顔を出しておきたかった。
無理な消耗は控えた移動だった。それでも幾らか逸る気に急かされたらしく、予定よりも早く、未明にセトはエルティに辿り着く。門番らには涙目で迎えられた。ありがたい歓迎だった。
日の出前で、支部でレクシスに会うにはあまりに早すぎる時間だ。支部の見張りが門番らと同じような反応をした場合、ちょっとした騒ぎを起こしてしまうかもしれない。まだ眠っている者も多かろう。せめて日の出までは待とうと決めて、セトは別の行き先を定めた。
美しいながらやや素朴さを感じる街並みが、酷く懐かしい。冬は雪に見舞われるゆえ、角度の鋭い屋根が目立つのが北の準都市エルティの特徴だ。それらが立ち並ぶ景色を眺めていると安らぎが湧き出てくるのを自覚して、ここが自分の故郷なのだとセトは再認識する。雪の名残は見られたが、大きな被害は出ていないらしいことが幸いだった。
「ノタナさん」
目的地に行き着いて、扉を開けると同時にセトは呼び掛けた。この時間帯、ノタナは客の朝食の準備のために間違いなく起きていると知っていた。
最初、ノタナは奥からちらりと顔を見せた。戸惑ったような表情をしていたが、目が合った途端に圧倒されるような勢いで迫って来たので、思わず笑ってしまう。
「ただいま」
セトが挨拶したと同時に、腕が回される。息苦しさを感じるほど強く抱き締められた。
「ノタナさん、締まるって」
「少しぐらい我慢しとくれ。こっちは、あんたが帰ってくる夢を何度も見たんだ。もう目覚めて虚しくならなくていいんだね……」
応じる声が泣き声になっていたから、セトはしばらく大人しくしていることにした。震えが収まってきた頃に、改めて声を掛ける。
「心配かけてごめんな。でもほら、無事だろ?」
「こんなに痩せておいてよく言うよ」
「それはノタナさんも」
「あたしゃあいいんだよ。元々丸いんだから。またすぐ戻っちまうだろうしね」
セトを解放したノタナは、指先で残る涙を拭って、ぱっと表情を明るく変えた。
「ちょうど朝食の支度をしてるところでね。もう出来上がるから食べて行きな。待ってる間は、あんたに包みを預かってるから、それでも開けておくといいよ」
「仕事増やしたな。手伝おうか? 炎呪系の呪具、使い物にならなくなってるよな。料理も大変だろ」
「仕事なもんかい。呪具については代用物があるから大丈夫だよ。いいから待ってな」
一度奥に引っ込んだノタナは、両手に収まるような大きさの小包を持って現れた。何重にも紐がかけられている。
「ハリアルからだよ」
思わぬ送り主に、無意識のうちに背が伸びた。
「支部長は、いつ?」
「総会への出発前日だよ。他の誰かの手に渡りそうになったら燃やせとも言っていたね」
手触りで、中にあるのは分厚い紙の束だと分かった。ハリアルが、支部外に置いておきたかった——つまりは、万が一にも他の誰かに見せたくなかった——情報がここには封じられている。
「ありがとう」
礼を聞くと、ノタナは頷いて厨房に去った。見送ってから紐を解いていく。その手が少々強張ってしまうくらいに緊張していた。やがて現れたのは手紙の束だった。一番上の一通をまず手に取ってみる。古びているのだろう、紙は茶に変色していた。
『北支部の方へ。この手紙は、信頼でき、かつ支部に影響力を持つ人に渡して欲しいと頼みました。三年前、港町ワグレの傍の林に一人の子供を置き去りにしました。故あってのことですが、どうしてもあの子のことが心配で、こうして手紙を書いております。何かのついでで構いません。機会があれば、その子を探してはいただけませんでしょうか。そしてもし荒んだ生活をしているのなら、救ってやって欲しいのです』
呼吸が止まっていた。その後に続く子の特徴を全て読み終えてしまうまで、自分がそうしていたことにも気づかなかった。差出人はもう分かる。しかし感情の湧き上がりは遅く、手が動く速度に負けていた。何も感じられないままに、二通目、三通目と次々続きを追いかけていく。その全てが同一人物からの——実の母親であるユリユからの手紙で、この十年の間に、ハリアルと何通もに渡ってやり取りをしていたことが分かった。
一方からのものしか読めなくても、流れを理解するのは容易かった。確かにこれは他の者の目に触れさせてはいけない。もしベイデルハルク側の誰かに知られたら、ユリユの身の安全にかかわる。ユリユはセトと別れてから三年後に、我が子を探して欲しいという旨の手紙を送り、それをハリアルが受け取った。次の手紙はさらに三年後、ハリアルとノタナが平原でセトを保護したという報せを受け取ってからだ。ユリユは感謝を述べてから、自分が中央にいるということ、それを息子には伝えないで欲しいということ、そして息子が中央の手に渡らないように守って欲しいということを
以降はユリユから中央の情報を書いたものが、大体半年から一年に一度程度、送られている。ベイデルハルクが主体となって何らかの研究を行っていること、癒しの永続呪の研究を強いられていること、北支部や東支部が中央に疎まれていること——中にはワグレが狙われている、という内容もあったが、これは支部が動くまでには間に合わなかったのだろう。三年前のあの事件のとき、ワグレ付近の黒獣討伐隊には当時の副長始め精鋭たちがこぞって参加したが、あの程度の黒獣を相手するには不自然な采配だった。きっとあれが偵察がてらのつもりだったのだ。
最後の方に差し掛かると、ほとんど【超越の呪】関連の内容だった。最後の一通は総会前のやり取りと思しい。このときにはハリアルの方からも手紙を送ったようで、綿密に打ち合わせがされている。手紙もかつてないほど長かった。ベイデルハルクの研究書類を持ち出したのはユリユで、総会のときにそれをハリアルに渡す手筈になっていたが、きっとその通りに実行されただろう。いくらハリアルでも、警戒されている中本部内を——それも書類が存在したのは最奥と予想される——自由に動き回るのは難しい。ユリユもかなりの危険を冒しただろうが、元から本部内にいておかしくない者と、そうではない者の間には負うリスクの量に大きな隔たりがある。
手紙を元に戻そうとしたら、包みの一番下に、ハリアルからの一筆があった。手のひらに収まってしまうほどの紙を取り上げる。目を走らせて、初めて感情が動いた。
「大事なものだったみたいだね」
セトが顔を上げたのと同じタイミングで、ノタナは声を掛けて来た。幾らか待たせてしまったようだ。
「食事は後にするかい?」
ノタナの手には、既に準備された朝食を載せたトレーがあった。ユウラ辺りから情報が入っていたのか、身体に配慮されたメニューだ。わざわざ宿泊客らとは別のものを作ってくれたに違いない。
「いや、いただくよ。ありがとな」
セトの応答を聞いて、ノタナは優しく笑んだ。食堂まで通してもらい、そこで食事に手を付ける。一口飲み込んだだけで、遅れて波立ち始めていた心がすっかり凪いでしまったのが不思議だった。
「ノタナさんのところで食べると、帰って来たって気になるな」
「それならもっとたくさん顔を見せてくれると、こっちも安心するんだけどねぇ」
微笑と苦笑交じりの顔でそう言われて、今度は別の方向に心が揺れた。
「……血の繋がった母親のことも、少しは覚えてるんだけどさ。オレにとってはノタナさんの方が、母親って感じがするんだよな。関わってきた時間も、今年でノタナさんとの方が長くなったし」
言い終えるまで顔を上げられなかった。口を閉じてからようやく視線を向けると、ノタナはとても穏やかな顔でセトを見つめていた。
「じゃあ、親御さんのところには六のときまでいたんだね」
「多分」
「愛してなきゃ、六年も育てられないよ」
予想外の言葉が投げ掛けられて、返答がすぐには浮かばない。黙ったセトを待たずに、ノタナは言葉を重ねていく。
「あんたは自分の名前も、齢も、誕生日もちゃんと知っているだろう。全部ね、あんたが生きていることを親が祝ってくれなきゃ、知れないことさ。私のことを母親のように思ってくれるのは嬉しいことだけど、実の母さんのことも忘れないようにしておきな。いいじゃないか、母親が二人いたって」
人の感情を読むのは得意だった。いつからそうなったのかは、きっと、優しかった母親の瞳に憎悪の色を見つけたときからだったと思う。以来、人の顔色や仕草、言葉には自然と注意するようになった。母親に好かれているのか嫌われているのか、知りたかったゆえにそうしてきたのだろう。だが、どれだけ人の感情の機微に敏くなっても、母親の心情にだけは迫れなかった。
だから、セトには分からなかった。ああしてハリアルに息子を救うよう求めた母が、何ゆえにそうするのかが。義務感からか、罪悪感からか、それとも。その三択目を信じていいだろうか。
「ノタナさんって、ほんと……人格者だよな。年の功?」
「あんたもそうやって照れ隠しに人をからかわなきゃ、十分人格者さ。昔から変わらないね」
「お褒めに預かり光栄です。ご馳走様。美味しかった、ありがとう」
席を立った頃には空がぼんやり光を持ち始めていた。皿を片そうとしたら、ノタナに止められる。大した手間じゃないからと言われたので、その言葉に甘えることにした。
見送ってくれるノタナに、いつもの挨拶をしようとして、寸前で言葉を変えた。
「次は、心配させる前に来るから」
目を丸くしたノタナに微笑んだ。返事は待たずに扉を潜る。そうしながら、制服の内ポケットにしまったハリアルの一筆を、服の上から抑えた。
——お前がいたから生まれた縁が、大きな力になった。
見方を変えれば、自分がいたせいでハリアルを昏睡状態にさせたと言える。それは分かっていたし、これまでならそう考えて来ただろうが、今は違った。自分が生きていることを呪わないで済むような生き方をする。生きることを放棄しないのならば、初めからそれを目標にするのが最善だった。こんな簡単な答えを見つけるのに何年も掛けてしまったが、一度見つけたからにはもう迷うまい。
今度こそ支部への道を行く。よく見慣れているはずの薄闇の街が、見たこともないほど美しく見えて、まだ本調子ではない身体の重みが、歩を進めるたびに抜けていくようだった。
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大陸西側の地図をご用意いたしました。よろしければご覧ください。
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