【Ⅶ】—1 権利

「セト、そっちはどうなってる?」


 ふいに現れた闇から、ランテの声がした。声が届く前に船内の気温はぐっと上がっており、海を支配していた氷も割れ始めていたので、ランテたちが芳しい結果を得られたことはそれで伝わっていた。風呪の守りはもう不要となっており、先程ノベリが——かなり前にセトと交代していた——それを解いたところだ。


「気温が上がってる。もうすぐ船も動かせそうだ。やってくれたんだな」


「うん、できた。でも時間を遡らせただけだから、いずれはまた元に戻っちゃうと思う。それまでに何か対策を取らなきゃいけない」


「分かった。それはこっちでも考える。二つ聞いていいか? まず、そっちの状況だ。戦死者の数と、指揮官の——モナーダ指揮官の安否。次に、遺灰の残量。分かる範囲でいい」


「あっ、そっか、モナーダさんここだった……えっと」


 ランテが言葉に詰まっていると、続きはミゼが受け継いだ。


「モナーダ指揮官はいなかったわ。光呪の……おそらく【光速】の力の残滓を感じ取ったから、きっと逃げ延びていると思う。けれど、他の兵は全滅と言える状況だった」


「……分かった」


 モナーダが生存しているのなら、兵が全滅したとしても、最悪の結果とは言わずに済みそうだ。失われた命の数を思うとそう考えるのも忍びなかったが、時には冷徹な物の見方が必要なことも知っている。


「遺灰は三分の一くらい使っちゃったと思う。蓋を開けて、こうして欲しいって願ったら叶った感じだった」


「遺灰はおそらく、ランテの祈りにしか反応しないわ。始まりの王は、ランテに力を託したみたい」


 ランテとミゼ答えを順に聞く。遺灰については、残量を含めて望んだ以上の成果だった。


「分かった、ありがとう。ミゼ、ランテを連れて先に中央、というか王都に戻って欲しい。ランテ、可能なら先に中央にラフェリーゼでのことと、今回の祠の件を報告してくれ。直接オルジェ支部長に伝えにくいなら、デリヤ経由でいい。頼めるか?」


「うん、それは大丈夫だけど……セトは?」


「オレは船で。エルティに寄るつもりなんだよ。今回のことで出た被害の確認がしたい。それと防衛隊の状況も知りたいしな。必要ならそっちに行くし、不要なら防衛隊が戻るのを待って負傷者の治療をしてから中央に戻る。ラフェリーゼの派遣部隊は先に王都に向かってもらうから。ピッサに案内人として、ダーフが待機してくれてるはずだ。詳しい対応については、ダーフに指示を出しておくから安心していい」


 黙ったランテが考えていることは、言葉にされなくても分かった。


「お前も防衛隊が心配なのは分かるよ。だけどそれはこっちに任せてくれ。お前には中央で仕事がある。旗印として、今回の祠陥落による混乱を落ち着けることだ。できるよな? ミゼ、忙しいだろうけどランテのフォローを頼む。デリヤも巻き込んでくれ。オルジェ支部長との駆け引きが必要だったら、デリヤに投げて大丈夫だ」


 後から山ほど文句を言われそうだが、こういうことも織り込んだ上でデリヤに役目を振った。彼の能力を信頼してのことだ。それも分かってくれる相手だから任せられる。


「……うん、分かった」


「ええ」


 ランテの方の反応は渋々といった様子だったが、返事は二つしっかりあった。


「頼んだ。……また数日後な」


 別れの挨拶までに一瞬の間を置いたのは、ミゼに頼めば北の祠での様子が分かるかもしれないと考えたからで、しかし結局聞かなかったのは、自分が風呪を使えている限り、祠は落ちていないということが明らかだったからだ。様子はとても知りたい。でもそれは、ほとんどが私情由来だ。【悠闇】——声を伝える闇呪の名だと聞いた——は相手との距離が開けば開くほど難易度と負担が上がるというし、ミゼは巻き込めない。


 闇がすっかり消え去るまで、ノベリは静かに佇んでいた。視線を向けると、いつもの笑みが見える。


「お話は分かりました。ご多忙ですね」


「人員不足でして。私が王都までお連れできず、すみません」


 ノベリは黙ってセトの答えを受け入れた後、目を細めた。


「一つ、伺いたいことがあるのですよ。あなたに」


 わざわざ用意された前置きに感じたのは、配慮や遠慮の類に近いものだった。向けられる感情はこれまでとそう変わりなかったが、声色から少々警戒心が抜けている。ランテの記憶によるものと思しい。セトも必要以上に構えるのはやめて、先を促した。


「何でしょうか」


「戦地への派遣は、四年前が最初ですか?」


 構えなかったのを即刻後悔することになった。動揺が漏れ出たのは一瞬のはずだったが、間違いなく先方には透けただろう。


「……どなたか、私のことをご存知でしたか?」


「ええ、そちらで言うアノレカの小隊長だった者が部下にいましてね。あなたに殺された兵の、直属の上司だったそうです」


「そう、ですか」


 二の句は継げなかった。それ以上の応答がないのを悟ると、ノベリの方が言葉を繋げる。


「よく分かりますよ。あなたはまともな方の人間だとね」


「と仰いますと?」


 意図が汲めない。素直に聞き返した。


「好んで戦場に立っていたわけではない、ということですよ。先に述べた小隊長は、あなたの様子をよく覚えておりましてね。大変動揺した様子で、仇をすぐ取れるほどに隙だらけだったと。そうすることを躊躇うほど、あまりにね。あなたが大人か子どもかも分からないほど若かったというのも一因だったのでしょうけど、彼は結局あなたを討てなかった。敵もまた人間だということを初めて意識した、と申しておりました。そして、こうしてあなたが和平のための要人になるのなら、仇は討たなくて良かったのかもしれないとも言っておりましたよ」


 長いこと、返答のための言葉を探す必要があった。


「……よく覚えています。なぜ生きて戻れたのか不思議でしたが、今、理由が分かりました」


「あなたたちも苦しんでいた。ベイデルハルクの犠牲者だった。分かりますとも。きっとね、戦地にいた者の方が分かるんですよ。我々も、ぬくぬくと生きて来た市民たちの方をどう説き伏せ納得させるかが問題になるでしょう。彼らは知りませんから。敵と言われている者たちの人間味なんてね」


「私も戦地での経験が多い方ではありませんが、今初めてその経験を、部分的にですが前向きに捉えられた気がします。仰る通り、経験しなければ見えないことはたくさんあります。二度と戦地に行きたくないという気持ちも、実際にそこへ行った者にしか分からない」


 ノベリは微かに息を漏らした。笑ったようだ。


「あなたは精神的に多くの点で成熟しておいでだ。年齢に不相応なほどに。しかしその善性の強さは、若者特有のものですね。まだ荒んではいない」


 またしても意図を解しかねた。口を閉ざしていれば、続きはやがて連ねられる。


「無知な者と等しく厄介なのは、戦地に長く身を置き続けた者たちですよ。殺しが日常になってしまった者は戻れない。戻れば罪の意識に追いつかれますからね。しかし、逃げるために進む者はまだまともです。中には、戦地でしか生きられない狂人もいます。彼らは戦争が終われば、身の置き場がなくなる。皆が皆、戦地にいたくないと思うわけではありませんよ」


 前者は、例えばオルジェ支部長が挙げられるだろう。彼の場合は自身を、というより部下のことを考えたゆえのことであろうが。後者はリエタが該当する。ノベリの言うことは正しい。


「あなたは旗印を作ることで、無知の者を導く手筈は整えられた。素晴らしい方法です。しかしランテさんでは、老練の兵や狂気に侵された者からの信任は得られない。私が申し上げたいのは、あなたにはもう一手必要だということです」


 話はよく理解できた。だからそのまま受け入れて、深い頷きを返しておく。


「考えます」


「本当に大変ですね。お若いのに」


 同情ではないのは伝わってきた。まだ試されている。分かっていたから、セトは強気な笑みで応えることにした。


「ただ歳を重ねただけの人間よりは、働ける人間のつもりです」


 肩に重みを感じないわけではない。むしろ、骨まで軋むような重圧はいつだって感じている。しかしそれと引き換えに、世界の未来に関与できる権利が手の中にある。これは切り拓く力であり、守る力であり、掴む力だ。身が砕かれるような痛みに苛まれたとしても、手放す気は微塵もなかった。

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