【Ⅵ】—3 遺灰

 閉じた瞼を開くことには、大いなる勇気が必要だった。先に嗅覚が血の臭いを判別して警鐘を鳴らしてくる。繋いだ手からもミゼの緊張が伝わって来ていた。しかし、なすべきことがあるからここに来た。いつまでもこうしてはいられない。ランテは一度華奢な指を優しく握り締めてから、ゆっくりと目を開いた。


 熱の名残を感じる大地の上に——炎の祠は火山が近かったという。大精霊が去ったせいか、今はそうは思えないほどの気温となっていたが——ごろごろと、大勢の骸が横たわっていた。敵味方入り混じっているのだろう、とんでもない数だ。あまりに凄惨すぎて現実のものと思えない。ランテはしばらく呆けたようにそれらを眺めていた。


「私たちは、実体は持たないかもしれない」


 哀しみで満たした瞳をそっと伏せて、ミゼが言う。


「けれど、私たちには各々の物語がある。家族がいて仲間がいて、そういう大切な人たちと過ごしてきた無二の物語が、それぞれにある。これはもう、命だわ。実体のあるなしなんて関係ない。そうでしょう」


「……うん。分かるよ」


 ミゼの考えがランテに近いところにあるのが、よく分かった。握っていた指に少し力が加えられるのが伝わる。指は、少し震えていた。


「それが、それほどに尊いものが、こんなにもたくさん、一度に失われた。どうしてこんなことができるのかしら。どうして世界は、それを夢見る人々の願いは、こんなことを許すのかしら」


 細かく刻まれた言葉に、感情が染み渡っていた。そしてその感情が——ミゼの無念が、世界の方に向いている。人の想いを信じて、それを一つの理想の形だと言ったミゼが、世界の在り方を少しだけ呪った。その事実は暫時ランテから言葉を奪い去る。


「ランテ……私、分からないわ。分からない」


 もう一度、ミゼの手を握り直す。ランテは言葉を一生懸命に探した。


「ミゼ、オレはね、ベイデルハルクだけは絶対に倒したい。殺してだって止めてやるって、あのときも今も思ってる。こういうの、殺意って言うんでしょ? あとは、憎しみとかって言うのかな。オレにもそういう感情があったんだって、記憶を一旦失ってからもう一回その感情を感じ取り直して、実感したっていうか……」


 ベイデルハルクへ向けられる感情は、おそらくランテの中の女神も共鳴してのものだ。しかし、女神がいなかったとしても、ほとんど同じ感情を抱いただろうとランテは思う。


「人間って、多分こうなんだよ、ミゼ。いつも綺麗なままではいられない。人の心を元にするなら、そういう部分も出てきて集まっちゃって、だからベイデルハルクみたいなのとか、こういう戦争とかが生まれてきちゃうのかなって、ちょっと思ったんだ。その、実体がないと、心だけで百パーセント世界ができるから、悪い出来事や人が生まれるのを止められないんじゃないかって今は思う」


 理想郷ではないかと思っていたラフェリーゼにも、暗い部分はあった。心だけの世界ではなくなったとしても、そういう負の部分全てを消し去ることはできないのかもしれないが、そこに近づく努力をすることはもっとできるのではないか。抗う術を得られるのではないか。


「セトが言ってたんだ。もし心だけで自分をどうにかできていたなら、ずっと前に自分をいないようにさせてたって。でも身体があったから思うだけでは死ねなくて、だから生きてきて、そうして今生きていて良かった思えるようになったって。ミゼ、心と戦うためには体が必要なのかも。体が暴走しかねない心の重しになってくれるんじゃないかって」


 まだ繋いでいた指から強張りが消えた。肩から髪が一房滑り落ちる。ミゼが頷いたのだ。


「私も考えていたわ。ピッサで話をしてから。今の世界が不安定だというのは、分かるの。だから失わないように変える。きっと、必要なことね。方法を考えていきましょう」


 ミゼの手がランテから離れる。彼女は顔の前で指を組んで、目を閉じ、静かに祈った。ランテも同じようにして死者を弔う。


「彼らを【形影】で連れて帰るわ。生者なら深い闇で心を壊してしまうけれど、彼らはもう亡くなっているから……こんな形の再会でも、会いたいと願う人がいるかもしれない」


「生きている人はいないかな」


「呪力で分かるの。ここには生者はいない……とても残念だけれど」


 静かな闇が辺り一帯に行き渡る。その中に、ゆっくりと亡骸たちが沈んでいく。闇が波が引くように去ると、今しがたまで広がっていた残酷な光景は、武器や血を残すのみとなっていた。


「彼らの死に報いましょう。さあ、まずは祠に」


 美しい紫の瞳には今もなお悲哀が離れずにいたが、ミゼは足を前に進めた。だからランテも一歩を踏み出す。懐にしまってある小瓶をそっと服の上から撫でて、始まりの王に力を貸してくれるよう願った。小瓶が応えることはなかったが、ランテの中で女神が微笑んだような気がした。






 祠は酷く破壊されていた。無論、明滅する光の集合体——大精霊の姿はなく、瓦礫ばかりが目につく。


「どれくらい使えばいいんだろう」


 取り出した小瓶に目を落として、ランテはぽつりと零した。聞いていたミゼが、髪を耳にかけてから、答えをくれる。


「それは委ねるしかないと思うわ。けれど、遺灰それ自体は意志を持たない。使う者の意志に反応すると思うの。蓋を開けて祈ってみましょう。あの女神の間で、私は呼ばれず、あなたが呼ばれた。きっと意味がある。だからランテ、多分あなたの祈りが重要だわ」


「オレの祈りが……」


 血の繋がりがあるのはミゼの方で、確かにランテが声を聞けたというのは不思議な話だ。時呪が使えるという共通点があるから、考えられるのはその点だろうか。


「やってみる」


「ええ」


 ミゼに伝えてから、ランテはそっと小瓶の蓋を開けた。組んだ指の間に瓶を納めて、呪を使うときのように集中してみる。祠に流れた時を戻してください。そう祈りながら、目を閉じた。ランテは炎の祠を目にしたことはない。だが瓦礫を見る限りでは、風の祠と同じ造りをしていたと考えて良さそうだった。だからそれを思い浮かべながら、一心に祈り続ける。なるべく雑念を追い出して、祈りだけの心になるように、同じ言葉と光景を何度だって思い浮かべた。


 それなりの時間が経過した。小瓶がほんのりと熱を帯びる。ランテが驚いて瞼を上げると、小瓶からゆっくりと輝きを秘めた遺灰が舞い上がるところだった。


「あっ」


 思わず声を上げる。集中が途切れてしまったが、遺灰は既に役目を理解していたようだ。瓶から離れたのは三分の一くらいの量だっただろうか、それらはすぐに空気に溶け込むようにして見えなくなった。


 異変は起きない。辛抱強く待つ必要があったが、ランテは始まりの王を信じていた。聞けた言葉は多くなかったが、あれだけでも十分彼の性分は理解できたと思う。信じられる人だ。反応してくれたのだから、きっと望みを叶えてくれる。


 それは、間違っていなかった。


 祠全体が光を放ち始める。光は段々強くなってきて、ランテは目を開けていられなくなった。瞼を閉じるだけでは足りなくて、腕も掲げて目を守る。状況が全く分からなくなってしまったが、何か、かたかたと音が鳴っているのは聞こえて来た。瓦礫が動いているのだろうか?


「ランテ」


 瞼を強く瞑り過ぎて、ミゼに呼ばれるまで光が収まったことに気づかなかった。腕をどけて、そっと瞼を上げてみる。視界に何かが映るよりも先に、肌が熱を感じ取っていた。期待で胸が膨らむ。


 祠は完全に修復されていた。やはり大精霊の姿は見られなかったが、柱などの大きなものはもちろん、大精霊を納める繊細な曲線のモニュメントまで、風の祠で見た通りに戻っている。その曲線の一つ一つに赤い筋が走っていて——風の祠では黄緑の筋だった。大精霊によって色が異なるのだろう——祠が活動しているのが目で見て分かった。気温の上昇も肌で確かに感じる。成功した、らしい。


「あなたも使える【回帰】の効果が用いられたみたいなの。これほど大きなものの時間を巻き戻すのは至難の業……きっと、始まりの王にしかできないことだわ。だけど時間を巻き戻しただけだから、いつかまた元に戻ってしまう。それまでどれだけの時間的な猶予があるか分からない。急がなくてはいけないわ」


「そっか……」


「でもしばらくの間、人々の暮らしは守られる。あなたが遺灰を見つけてくれたからよ、ランテ。ありがとう」


 目を細めて、ミゼは微笑んだ。ランテも釣られて少し笑った。小瓶に蓋を締め直そうとして、その前に「ありがとうございます」と始まりの王に伝えておく。時間稼ぎができただけで、問題が完全に解決したわけではない。分かっている。限られた時間の中で解決せねばならないことが山積していて、気持ちは焦っていた。それでもあの命を削る寒さから人を守れたことは良かった。こうやって一つ一つ、できたことにも目を向けていきたい。眼裏に焼き付いてしまった屍たちに、少しずつだって何かを報告しないといけない気がしていた。


 本当は、犠牲なんて一人だって出したくない。出すべきではないとも思う。でも、現実には全ての生命を守ることはできていない。だからせめて彼らの死を次に繋ぐ導にして、前へ進み続けなければならないとランテは思う。


「行こう、ミゼ。まだまだやらなきゃいけないことがたくさんある」


「ええ」


 ミゼの闇に包まれる直前、ランテは後ろを——戦場だったところを——振り返った。亡骸があった状態の光景を思い出して、脳に焼きつけることを試みる。今度は封じないでしっかりと覚えておく。そう決めたから、見えなくなってしまうまで、じっと見つめ続けた。

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