【Ⅵ】—1 氷海
「うう……」
現在ランテは、呪力を込めた両手を前に出して――ただ唸っていた。
「駄目そうですね」
隣で見ていたノベリが——かねてから宣言していた通り、ラフェリーゼ人の中で彼だけはランテたちの船に乗った――いつも通りの笑みを浮かべながら言った。
今、ランテはノベリに言われて、癒しの呪が行使できないかを試してみているところだ。癒し手を生み出す力を持っているのなら、自身も癒しの呪を使える可能性もあるのでは、ということだったが、掛けられた言葉通り駄目そうだ。
「ランテ自身には適性はないと思います。女神の方の力を自在に引き出せれば、というところですが、どちらにせよ一朝一夕には難しいかと」
「あなたも苦労されたんですね」
「そうですね、それなりには」
セトがノベリに応えつつ、ランテのために作ってくれた傷を治す。ランテは自分でつけると言ったのだが、もし発動したらセトを対象にしている方が教えやすいから、という理由だった。左腕の浅い切り傷の治療は、話しながらでも一瞬で済む。
「先に理論を教えるべきだったのでは?」
「ランテは感覚派です。癒しの呪は、理論が入ってなくても使えますよ。上達には理論が必要ですけど」
「あなたはそうだった、と。いつ頃からお使いになられたんですか?」
「……物心ついた頃ですかね。詳しい年齢は覚えていません」
「どのような状況でしたか?」
「それも詳しくは、あまり。目の前の人がガラスの破片で軽い怪我をしたので、それを治そうとした……と思います」
「その目の前の人、というのはお母様ですか?」
ノベリがあまりにもずけずけと質問を重ねるので、ランテは少々慌てた。そしてセトの過去のことが、ランテの記憶から漏れていることを今の発言で悟って、大変申し訳なく思う。だが、セトの対応は冷静だった。微笑まで添えるというそつのなさだ。
「ええ」
「可愛くない人ですねぇ。随分年下なのに。ラフェリーゼ大使の機嫌取りをしなくていいんですか?」
「裏の意図が透けて見えていると、意地でも乗りたくなくなるんです。それに、あなたの場合、機嫌取りはむしろ減点対象でしょう?」
セトとノベリの会話は、相変わらず聞いているこちらが怪我をしそうなほど鋭いやり取りばかりだった。しかし、交渉成立前よりは互いに本音がちらついているように聞こえるのは、きっとランテの気のせいというわけでもないだろう。
「セト、癒しの呪ってどうやって治してるのか気になる。聞いてもいい?」
好奇心を抑えきれなくてランテが割って入ると、セトはランテ向きの説明をしてくれた。
「癒しの呪って、使い手側から見ると二種類あるんだよ。軽傷のときと重傷のときで使い分けてる。前者は、治療対象が元々持っている回復能力に力を貸して治癒を早めるだけだ。傷を意識しながら、相手の呪力に同調するようにこっちの呪力を流し込むだけでいい。後者は、より癒し手が主導的になって欠損部位を作り直す……んだけど、傷を塞ぐとか、怪我をする前に戻すとかの意識より、身体に起こっている異常を取り除く意識の方が近いかもしれないな。使ってるときの感覚はこんなところ。理論も詳しく説明できるけど、お前が聞きたいのはそっちじゃないだろ?」
「うん、ありがとう」
興味を向けて聞いていたのは、ランテだけではなかったらしい。ノベリが口を開く。
「彼は簡単そうに話していますけど、人の身体や意識に直接作用する呪は難しいんですよ。人間には呪力抵抗というものがそれぞれ存在するので、それを加味して調節しなければいけませんからね。今の説明、大変興味深かったですが、聞いたところによると前者はともかく後者の方はかなり呪力抵抗に妨げられるでしょう」
「そうでもないですよ。大怪我をした人間は意識が朦朧としていることが多いので、必然呪力抵抗も小さくなりますし」
「あなたは本当に自分を過小評価させたがりますね。物心がついた頃に誰から習うでもなく癒しの呪が使えた。その時点で、あなたは天賦の才を持っていることが確定しています。あなたが呪の道一つに絞らないのが不思議でならないですよ。属性呪だって、時間をかけて磨けばより高みに到達できるでしょうに」
手放しに近い賞賛を寄越されて、セトは少々驚いたようだった。返答までの時間がわずかに長くなる。
「ありがとうございます。ですが、呪使いとしての私の本分は、癒し手の方なので」
「なるほど、いざというときのために呪力を温存したいと。それで剣を学ばれているんですか。武の面ではさほど恵まれているとは言えない、その体格で」
ランテは少しばかり癇に障ったが、ノベリには悪気はないようだったし、セトもまた気にしていないようだった。
「武芸に必要なのは腕力だけではありません」
「そうでしょうとも。しかし、あった方が良いのもまた事実」
やはりセトは気にしていない様子だったが、そろそろランテが耐えかねた。思わず口を挟む。
「確かにセトは細いですけど、剣だって強いです。呪使いの人には分からないかもしれませんけど、速さと技術と駆け引きで十分腕力のある人にも渡り合える。というか、むしろ腕力だけしかない人にセトは負けません」
力を込めて言えば、ノベリに、次いでセトに笑われてランテは瞬いた。今のランテの言葉のどこに笑える箇所があったのだろう。分からず首を捻っていると、二人が話し始める。
「慕われていますね」
「ありがたくも。剣の才はランテの方があるんですけどね」
やはりなぜ笑われているのかは分からなかったが、何となく場の空気が和んだのはランテにも感じ取れていたので、それでよしとすることにした。セトには後から「ありがとな」と軽く礼をもらった。礼を言われるための言葉ではなかったが、受け取ってもらえたようで嬉しくはある。
その後はしばらく、呪についての和やかな会話が続いた。ランテはほとんど聞いていただけだったが、西大陸と東大陸の知識を交換し合う二人の話は、難しくはあったが面白くもあり退屈はしなかった。
「……冷えるな」
ふと、セトが小さく零した。彼を追って見上げると、分厚い雲が空を覆っている。言われて気づいたが、先程までは全く感じなかった寒さをはっきりと感じる。思わず腕をさすった。
「雨?」
返事はすぐには来ない。待っている間に、ひらりと白いものが舞い落ちて来た。
「え、雪?」
「降らないんですね、この時期には」
難しい顔をしているセトに、ノベリが話しかけた。頷きがある。
「降りません。冬でも、この辺りには」
ぶるりと身体が震える。一段と寒さが増した。いつの間にか、呼気は白く染まるようになっている。雪はすぐに本降りになった。視界が妨げられるほどになるまで、長くは掛からない。
「え、何?」
ランテはいつまでも戸惑っていたのだが、何もできないでいるうちに急に温かくなった。視界も、船の中が見渡せる程度には開ける。セトの右手に呪力の気配を感じて、彼が【熱風】辺りを使ってくれたのだろうと理解した。
「あちらに風呪使いは?」
「ご心配なく。五ほどいたはずですよ」
「ではひとまずは大丈夫ですね。ただ——」
セトとノベリが話している間に、船の外側で、何かがぱきぱきと音を立てているのに気が付いた。何かと思って縁に寄ったランテは、腰を抜かしそうになる。
「セト、う、海が! ……うわっ!」
異常を発見した途端に足元に衝撃があって、ランテは焦点を失った。何が起こったかよく分からないが、何度か瞬いて、世界の上下がひっくり返っていたことをようやく理解する。宙に弾き飛ばされた、ようだ。
どうしようか考え始めた頃にはもう、自分を支えてくれる風に乗っていた。
「ごめん、セト。ありがとう」
「どこも打ってないな?」
「うん」
姿はすぐには見つからなかったが、いつも通りのセトの声が聞こえて来たのでランテは安心した。もっとも彼にはランテを助ける余裕があるくらいなのだから、心配などいらなかったのだろう。そのままゆっくり甲板に下ろしてもらうまで、ランテは改めて高いところから海を眺めた。先刻まで青く広がっていたはずの水面が、悉く氷に変わっている。船の外は雪のせいで視界が悪いので、遠くがどうなっているかは分からない。しかしおそらくこの氷の海は、ずっと先まで続いているのだろう。そして今ランテが宙を舞ったのは、船が氷に妨げられて急に止まったからだと思われた。
ランテが無事に着地したのを見届けてから、セトは一息ついた。彼はまずノベリに向き直って、小さく頭を下げる。
「結果は想定内でしたが、その影響が想定外でした。すみません」
「祠が落ちたんですね。奪われたのは炎の核、いえ、こちらでは大精霊でしたか。そんなところでしょう」
セトは頭を上げた後一度目を伏せたが、長く黙ることはしなかった。頷きで返答してから、次の言葉を出してくる。
「現状をどう打開するか考えましょう。船ではこれ以上進めない。だからといってここに留まるにしても、食糧の問題があります。呪力の問題も」
表情は変わらないノベリだったが、「ええ」という返事の後に指が顎に添えられた。海の方に向けられた目が遠くなって、思考を始めたのが分かる。
「船員を落ち着かせてきます」
セトはそう言い残して、騒ぎの起こっている船室へと向かっていった。ランテもただ待つだけではいられない。妙案が浮かぶかは分からないが、一生懸命考えてみようと決めて、思索に耽った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます