【Ⅳ】—2 奔流

 モナーダが屋敷を出るその瞬間まで、ロアは傍を離れなかった。


「私、覚悟はするよ。……でももし帰れそうなら、帰って来てね」


 別れ際に娘が絞り出した声を、モナーダは今も耳に残している。このまま戦地まで連れて行くつもりだ。


 別れ際にはスンも玄関に立ってモナーダを見送ってくれた。私兵の中で最も腕が立つ彼は、人物の面でも優れている。彼なら、これまで同様、これからも不足なくロアを支えてくれることだろう。


 兵を数名連れて歩くモナーダの前に、ふと誰かが立ち塞がった。華奢な身体から女性であることは分かったが、ベールをつけて俯いているため顔が見えない。反射的に警戒したが、モナーダはそれをすぐに緩めた。知っている呪力だ。


「シュア君だね。話はセト君から聞いているよ。瀕死だったと聞いたが、身体はもういいのか?」


 シュアは俯けていた顔を上げた。鼻から上を、無地の白い仮面で隠している。酷い火傷を負ったと聞いていたが、隠さねばならぬほど痕が残ってしまったのかと想像して、気道が詰まりそうになった。思わず父として我が子が同じ目に遭うことを考えてしまったゆえだ。


 シュアはモナーダと同じ上級司令官だったが、尋問に携わる彼女は上級司令官の中でも頭一つ抜けた存在として認知されていた。名目上は同じ立ち位置であり、またかなり年下でもあるため、敬語は用いない。しかし役割柄多くの情報を握りつつ、呪の才能にもたいそう恵まれている彼女を、モナーダとて警戒していたし、畏怖に近い感情を抱いたこともある。


「モナーダ様。私も防衛戦へお連れください。二心がないと信じてくださるなら」


 静かに、シュアは切り出した。


「信じてはいるよ。しかし、死地になる。君の才はこれから先、もっと別の場面で活かされるときが来ると私は思う」


「いえ、今こそだと考えています。対クレイドの……彼の力を削ぐ策があるのです」


 そう言うと、シュアは己の右手をゆっくりと持ち上げた。モナーダの目の前で、彼女の指先から手首までがゆっくりと透けていく。息を呑んでいた。


「君は……誓ったのか……」


「はい」


「なぜ」


「必要なことだからです。私は、こうまでしてもベイデルハルクには敵わないでしょう。そしておそらくクレイドにも。しかし彼の方になら、一矢報いることができると考えています。モナーダ様、あなたにご協力いただけたなら」


 すぐには声が出てこなかった。シュアはとっくに成人しているとはいえ、モナーダよりも優に十は年下だろう。そんな彼女が既に、ここまでの覚悟を決めている。単に才に恵まれただけの人間でないことはこれまでも知っていたけれど、ますますその事実を分からされた気がした。


「何が君をそうまで動かしたんだ」


「奥方様の、ナディーナ様の最期を見ました。命尽きる瞬間まで微笑んでおいででした。無念だったでしょうあの方に、こんなことを申し上げるのはご無礼かとは思います。ですが、私はとても羨ましかったのです。美しく清らかであられたナディーナ様に、激しく憧れました。今ここでこうしているのも、そのためです。それに……私よりも十も下の若者たちが、既に戦っていますわ。私だけのんびりと寝てはいられません」


 聞いて、妻の笑みが脳裏を過ぎった。あの優しい微笑みにこれまでどれほど支えられてきたか。


「……そうか、ナディーナは、微笑んでいたか……」


 胸に差した感情に、名はつけられない。感謝かもしれないし、詫びかもしれないし、あるいはその両方か。


「はい。そして我々の間には、ナディーナ様がくださった縁があると、私はそう心得ております」


 シュアは、モナーダが断れない理由を構築して来ていた。首は振れない。モナーダは両の瞼を強く閉じた。


「君が望むのならば、共に来るといい。策について、聞かせてもらえるだろうか?」


「ぜひ。ありがとうございます。……キーダ」


 脇道から、剣士が一人現れた。シュアをここに連れて来たと言う副官だろう。彼は丁寧な所作でモナーダに頭を下げた。


「私は兵を全てベイデルハルクの下に残したままです。ここにいるのは彼一人……それでも構いませんか」


「君たちだけでも大きな戦力になるだろう。隊の長としては、大変ありがたく思う」


 本音だ。勝算がほぼないことに変わりはなかろう。しかしこの二人は指揮も執れる。二人将が増えることが、いかに大きいか。


「光栄ですわ」


「可能なら、名と共に兵に紹介したいが、仮面を被っているのはそれを厭ってだろうか?」


「いいえ」


 シュアはおもむろに仮面を外した。目を引くほどに白い肌が現れる。上手く治療されてはいたが、ところどころ引き攣れや歪みは認められる。思わず眉を寄せた。


「女性に……なんてことを……」


「誓うときに、元の姿になることはもちろんできました。しかし私はこの顔が好きなのです。思う道を選び、多くの人に助けられ……両親を犠牲にしましたが、それでも奮い立ったこの私の姿が」


 目を細めて微笑むシュアは、不思議なほど、以前よりも美しく見える。ああ、と理解した。この美しさは、生き方を偽らない者だけが出せるものだ。中央本部内では決して見ることができなかったものだった。ロアのものも、シュアのものも、そして見ることは敵わなかった妻ナディーナの最期のものも、きっと魂そのものを映しているからこそ美しいのだ。


 自分も同じように笑えるだろうか。


「しかしそれが自己満足であることは、よく理解しているつもりです。周囲の方を徒に不快にさせるわけにもいきませんから、こうして顔を隠しております」


 仮面を被り直し今度は声だけで笑んだ彼女に、モナーダは語り掛けた。


「不快にはならないが、それについてはシュア君に任せよう。しかし……本当に最近の若者は強い。年長の私の方が尊敬してしまうほどだ」


「私はもう若くはありません。ですから、私も同意致します。正しい方へ進むこの流れを生み出したのは、成人したばかりの若者たちですわ。彼らの呪力は純粋で、澄み渡り、気高くて、優しく、それでいて勇ましい。彼らの創った流れは今や奔流に変わって、多くのものを巻き込んで……我々もその一部になろうとしている。情けなくもあり、誇らしくもあり、です」


 シュアが最後に添えた一言に乗せた思いは、全てと言っていいほどモナーダと一致していた。彼らと同じ道を見て歩けることを喜びながら、彼らに促されるまでそこを歩めなかったことを恥じる気持ちがある。しかし、なればこそ、できることがある。おそらくは、その部分まで抱く気持ちは彼女と同じだ。


「私も、同じ思いだよ」


「はい。ですから、共に往きたいのです」


 正しい流れが正しいまま流れ続けられるように。我々が為すべきは、愚かにもそれを阻もうとする障壁を取り除いていくことだ。あるいは、いずれ流れが打ち勝てるように、この身でそこに穴を穿つことだ。


 志を共にできる者を新たに得て、心はより凪いだ。深い呼吸を一つ落とし、一歩ずつを丁寧に踏みしめながら、モナーダは先へ続く道へと身を進めた。

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