【Ⅳ】—1 父子

 出立の前日、モナーダは久しぶりに自らの屋敷で休んだ。こんな状況でも己の家は落ち着ける空間であるようで、数十日ぶりに深い眠りに落ちていたため、別の人間が家に——どころか、部屋に入って来ても、揺さぶられるまで目覚められなかった。


 まだ半分寝ているような状態で、身体を起こした。瞬間、その身体に誰かが抱き着いてくる。


 一度に目覚めた。


「ロア!」


「お父様、お父様!」


 娘から抱き着かれたのは、いつ以来だろう。五年は前だったように思う。


 ——お前はもうルルファ家の人間ではない。どこへなりとも、好きなところへ行きなさい。


 ロアを勘当し、家から追い出したのは一年前のことだった。ワグレの警護担当になってから半年が経った頃で、中央の中枢に足を踏み入れてしまったことを自覚してからすぐのことだ。人質として、妻だけでなく娘まで奪われることを恐れたゆえのことだったが、無論、ロアには伝えていない。だから急に彼女が家に戻ってきて、このような行動に出たことがしばし信じられなかった。


「ロア……どうしたんだ」


「私、分かるもの。お父様が私のために私を追い出したんだってことくらい、分かるもの。後からスンを付けてくれたことも、知ってるのよ。私がどこででも暮らせるように、お金をたくさん託してくれたことも、全部、知ってるの」


 子供のように泣きじゃくりながらも——ロアはまだ十六で、成人してから間もないから無理もないのだが——一生懸命に話す。震える両手はずっとモナーダの背中の服を握り締めていて、酷く胸が痛んだ。


 致し方なかったこととはいえ、それまで屋敷の中に囲い込んで育てられた娘が、突如外に放り出されるのはとても心細かっただろう。恐ろしかっただろう。苦しかっただろう。いくらか痩せてしまった背中を、モナーダは優しく撫でた。せめてもの償いと慰めになることを祈りながら。


「突然、理由も話さずに、すまなかった。ロアだけは危険に晒したくなくてね」


「話して欲しかったけど、後から分かったから、いいの。……お母様のことも、知ってるわ」


「……ナディーナのことは、私のせいだ。すまない、ロア」


「お父様のせいじゃ、ないよ。絶対、違うよ……」


 娘を慰めないといけない。そう思っていたのに、その言葉を聞いて、モナーダの方も目頭が熱くなった。許されたいわけではない。そうではないが、今、ようやく、妻の死を受け入れて悲しむことができた気がした。流れていく涙を堪えないでいられることで、ほんの少しだけ、胸の中央に居座るおもりが軽くなったように感じられた。


 父子二人だけで、長い間、静かに泣き続けた。先に涙を拭ったのはロアの方で、涙の筋を残した顔を上げて、努力して笑ってみせる。


「私、もうここにいてもいいんだよね?」


「ああ、ロア、もちろん構わないよ。これからずっと、ここで暮らしなさい」


「うん。あの……お父様。お父様は? やっぱり、戦地に行ってしまうの?」


 ここでモナーダも悟った。ロアがこの時期に帰って来たのは偶然ではない。どこからから情報が入って、だからモナーダに会いに来たのだ。


「誰から聞いたんだ」


「北支部の人が手紙をくれたの」


「セト君か……」


 ——ご息女に、お会いしました。中央貴族の血縁は、人質として牢に繋がれると聞きます。そうさせないために、あなたは。


 ワグレでのやりとりがモナーダの脳裏に蘇った。ロアとの間にあったことを知っているのは彼だけだ。間違いない。


「感謝しなければならないね」


 炎の祠ではクレイドと相対することになる。生きて帰れないことは、ほぼ確定的だった。最期に一目娘に会えたなら。そんな期待を持って今日は屋敷に帰って来ていた。叶わないだろうと思っていた願いが叶ったのは、彼の気遣いのお陰だ。


「ちゃんと、帰って来てくれる?」


 涙の溜まった瞳が、モナーダを見上げて来る。不安げに揺らめくそれを見て、嘘はつけないと思った。


「ロア。私はきっと帰れない。すまない」


 娘は言葉を失って、零れそうなほど目を見開いた。その目にまた潤いが満ちる。ここで優しい嘘を吐いておけば、ロアはこうして泣かずに済んだだろう。しかしそれは、後から——己の死を伝え聞いたときに、癒えぬ毒となって彼女を苛むに違いない。ありのままに全てを語ること。それが父として最も正しい選択だと、モナーダは信じた。


「クレイド聖者と対峙することになる。死ぬだろう。お前を残して逝くことだけが気がかりだが……私は、お前が今後生きていくためのこの世を守りたい。そのために命を懸けたい。先に命を懸けたナディーナと共にね。どうか、父の我儘を許しておくれ」


 命を差し出すことになろうとも、祠の防衛か、あるいはクレイドに何らかの打撃を与えることかは、成しておきたかった。これからモナーダはそのために死地に向かう。


「……どうして、お父様じゃないといけないの」


 ロアは涙を流すものの、拒みはしなかった。代わりにそんな質問を置いて、縋るようにモナーダを見上げてくる。望みたいことはある。それを我慢して別の言葉に代えた。父親ながら、よくできた娘だ。ゆるりとその頭を撫でた。


「これでも私はね、兵の指揮には自信があるんだよ。間違った使い方をしてきたこの能力を、ようやく正しく使える。それがとても誇らしい。私がやりたくて行くんだ。私でなければ……きっと、何も成せぬままに負けて終わってしまう。私がこれからの反撃の足場を築く。私にしかできないことだ」


 愛する家族や、仕えてくれる者たちを守りたい。核となる気持ちは今も昔も変わらないが、それを包む心の在り様は随分変わった。妻の死という、取り返しのつかない現実が自分を前へ進ませている面はあろう。憎しみもある。しかし己がそればかりで染まっていないことも、明確に感じられていた。妻も己と同じように、夫婦の最大の宝を守ることを何より願っていると信じられるからだろう。


 ロアは黙ってモナーダの胸元に顔を埋めた。震えている背を見ていると、娘を独りにすることに罪悪の念が湧く。引けないことは分かっていてもだ。しかし娘は、モナーダの中に描いた娘よりもずっと強かった。


「お父様、私、政治をする」


 突然そんな言葉が飛び出してきて、モナーダは一瞬耳を疑った。しかし聞き間違いでなかったことには、すぐに気づかされる。泣き腫らした目に宿る強い光は、いつか妻が人質になる際に見せたものとよく似ていた。


「お父様が守ってくれた世界で、私、たくさん勉強して政治をするわ。私が、お父様とお母様の命を台無しにさせない。ちゃんと、今度はたくさんの人が幸せになれる世界を私が創っていくの。お父様、私もお父様とお母様と一緒に戦ってみたい。……いい?」


 モナーダは、両腕でしっかりと娘を抱きかかえていた。本当に、なんと、清らかな娘に育ってくれたのだろう。紛い物だった女神よりも、よほど女神然とした心の在り方をしているではないか——とまで思うのは、流石に親の偏った見方かもしれないが、本気でそう思いたくなるくらい、この愛娘が崇高な存在に思えた。


「ありがとう、ロア。お前は本当に……私たちの自慢の娘だ。もちろん構わないが、お前は自由に生きるんだよ。私もナディーナも、お前を縛りつけたいわけではないんだ。偉大なことをして欲しいわけでもない。ただただ、幸せに生きて欲しい。やりたいことをやって、好きなように時間を使って、たくさん笑って……」


 心の奥に封じ込めていた密かな願望が、頑強だったはずの蓋を押し上げてしまって、それきり言葉が続かなくなった。最愛の子の行く末を見守りたくない親が、どこにいるだろう。真の本心を言うならば、モナーダとて娘と共に生きていきたい。それが許される状況ならば絶対にそうした。一瞬、視界を幸せな未来の虚像が支配して、喉が詰まる。


 もしも、万一、生きて戻れたら。今までは全く見ようとしていなかった一筋の願いの糸を、手繰り寄せてみる。不思議なもので、絶望的な状況は何一つ変わっていないのに、力が湧いた。この幸せな幻を携えているだけで、最期の最期まで戦い抜ける気がした。

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