【Ⅲ】—3 行儀

 ナバは使命を果たそうと命を捨てて落ちて行く部下たちに、遂に一言も掛けられないままだった。呆然と立ち尽くす他のことは何一つできなかった自分に、彼らの姿が見えなくなってから初めて腹を立てた。


「くそっ」


 部下たちの残像が頭を離れない。しかし、吐き捨てたところで事態は変わらない。感傷に浸ることが許される状況でもない。今、自分ができることは何だ。もうそれを探すしかない。


「聖者様、申し訳ありません、後のことはお願いします!」


 下から声がする。身を乗り出して覗き込もうとしたときに、強い風が吹きつけてきてナバは後ろへ倒れた。落ちていく敵方の風呪使いが、たった一人を——自分ではなく、この中で最も防衛網の突破が期待できる人材を——選んで送りつけて来た。そんなところか。その風呪使いは自分だけは無事に降り立つ手段を持っていたはずなのに、もう無事では済まないだろう。東の軍がそんな行いをした彼を——声からして男性だった——生かしておくわけがない。当の本人もそれは覚悟の上に違いない。壮絶な選択をしているのは、こちら側だけでもないのだ。


 一瞬、眩暈がした。誰も彼も、臆病な自分の殺し方が上手すぎる。


 風に運ばれて、レイグがナバの前に降り立った。洗礼でも受けているかのように虚ろな瞳が向けられる。全身を間近で見て改めて思う。鍛練のほどが分かる立派な身体つきをしていた。


 流石に、ナバも己が使命を悟った。


「ナバ、ここまで引いて合流なさい」


 事態を把握したらしいフィレネの声が届く。首を振っていた。


「いーえ、副長、オレが癒しの永続呪を何とかします。なんで、後、頼みますよ」


 どこからどう見ても、敵は剣の名手だ。今この口から出ていった言葉を守れるか、ナバには自信がない。しかし最期くらい、無責任ではいたくなかった。散っていった部下たちの決意を無為にしたくもなかった。


 あらかじめ抜き身にしておいた剣を持ち上げる。臆病心は気力で捻じ伏せた。最初の一閃を受けようとして、受け切れずに肩を浅く切られた。一撃の重さがフィレネと肩を並べるほどだ。はっ、と息を吐き出した自分が笑っているのを知って、勝手に少し心強くなった。


「何なんすかほんと、強すぎる」


 後何回ほど癒しの呪は発動するだろうか。それを計るためにも、まず一度でも斬りつけて発動具合を見てみなければならない。第一歩の難易度が高すぎてまた目が眩みそうだ。でも逃げ場はないし、もう逃げたくもなかった。


 実力差がある以上、せめて階段の上側にいるという地の利は手放したくない。たとえ攻撃が躱されても、間違っても転落などしないようにしなくては。踏み込みが甘い代わりに速さを追求した攻撃を何度か繰り返してみる。目論見は見透かされていたらしく、五回目に振った剣を弾き上げられた。距離を詰められそうになって、慌てて後ろへ飛びのく。身は守れたとはいえ、数段、敵を目標に近づけてしまった。


 レイグは初老の男だ。本来であれば肉体の衰えに苦しむ頃だろう。おそらくは、誓いの呪によってその悩みからは解放されている。熟練の技と衰えぬ器。剣の道を歩む者の誰もが欲しながら、決して両立はできないはずの二つの要素を兼ね備えた強敵が、今ここにいる。


「参ったな」


 そこに癒しの呪も加わっているとなると、フィレネでも勝機が見出しにくい戦いとなる。だからやはり、何としてもそれだけは剝ぎ取らなければならない。


「おい、そこのひょろい剣士!」


 階下からの声が自分に向けられていることに、ナバはしばらく気づかなかった。二度繰り返されてようやく自分宛だと認識する。崩落したところから階下が見えるが、そこに王国の女騎士がいるのが見えた。負傷はしているが、無事ではあったらしい。


「何すか、今、やばいんすけど!」


「もっと動け。どうなってんのかは知らねーが、その身体は王国のレイグさんのもんで間違いない。そんで、レイグさんはクレイドの野郎に腹を掻っ捌かれてる。癒しの永続呪がかかってても、多分その腹の傷は完治してない。腰やら足やらの動きが悪ぃんだ」


「動けって、道を空けたら先に行かれる」


「援護してやる。両岸にいる呪使いだって距離が出りゃ手ぇ出してくるだろ。とにかく、レイグさんの身体を捻らせろ。で、狙うのは腹より下だ。いいな?」


 もう一度ちらりと視線を遣れば、女騎士は弓に矢を番えていた。援護はあれでするのか。射線上に入らないように動き回るとなると、それもそれで難易度が高いように思われたが、弓の射方についてはある程度相手に任せることになろう。


「じゃ、適当にお願いします」


 声を掛けてから、ナバは今度は強く踏み込んで剣を振り下ろした。当然のように避けられるが、その後にわざと階段を下りてレイグが上段になるように位置を変える。下半身を狙うならば、自分が下段にいる方が都合がよかった。そして確かに、振り向くときの足の運び方がやや鈍い。行ったり来たりしながら隙を狙えば、ある程度の手傷は与えられる目算が立てられそうだ。


 幸い、階段での戦いには慣れていた。東の準都市レベリアの門前には、長い長い階段があるためだ。そこで暴漢を懲らしめたことは、一度や二度のことではない。


「騎士様には、お行儀が悪いって叱られそうだ」


 小さく軽口を叩いて、左右を行き来してから身を低くして階段を上る。追い抜きざまに、足を出した。自分の二倍ほどは重量があるかもしれないような巨漢の身体を、完全に転ばせるほどの自信はなかった。よって、片足の膝裏に集中して蹴りを見舞う。こうして虚を突かれて身体を支える際に必要なのは、背筋に腹筋だ。そこが傷ついているとなると——


「う、わっ」


 追撃を与えようとしたときに顔のすぐ横を矢が駆け抜けていって、ナバまで体勢を崩しそうになった。が、その矢は的確にレイグの利き腕を射る。


「……すっげぇ」


 感嘆の声が自然と零れていた。あの低い位置からよく狙えたものだ。こちらも棒立ちしてはいられない。両手で握った剣を振り抜いた。返り血がいつまでもないことに疑問を抱いて、視覚に集中した。胸の辺りを捉えた剣に、レイグが纏っていた聖者専用の制服が引き裂かれている。露わになった胴には、今しがたナバが刻んだ傷の他に——傷は中々に深いが、大して出血していない——癒えないままで歪に縫われた裂傷が認められた。こちらは、ナバのつけたものよりも数倍深そうだ。一拍遅れて腐臭が鼻を突く。


 死んでいる。この身体は既に、完全に死んでいる。それがよく理解できたから、ナバの背は震えた。絡繰りは分からない。しかし、死んだ身体に無理矢理に死んだ精神をねじ込まれて、この人物は動かされている。


 なんて、おぞましい。


 癒しの呪はまだ効力を発揮していると見えて、ナバが斬った傷が塞がっていく。ジェーラの矢も引き抜かれた後に治療が始まっていた。が、情報通りやはり腹部の傷だけは治療されない。それなら——


「っと」


 レイグが振った剣を危ういところで避けた。思ったよりも立て直しが早い。癒しの呪は、あと何度かは発動しそうだ。どちらでもよかった。今しがた思いついたものが正解ならば、癒しの呪などあろうとなかろうと関係ない。


「フィレネ副長、近くまで降りててください!」


 全てが上手くいけばフィレネの手は必要ない。けれども、ナバは自分の実力をよく知っていた。その可能性は二割あればよい方だろう。だから素直に彼女を呼んだ。こちらは階下、相手の反応は窺えない。しかしきっと、降りてきてくれているだろう。


 ナバが距離を取った後に崖上の炎呪使いが中級呪でレイグを狙ったが、彼は余裕を持って避けた。遠隔呪は難しく軌道も読みやすい。やはり他力本願では駄目なようだ。


「うっし、やるか」


 己を奮い立たせるための一声を発して、ナバはもう一度、剣を両手で握った。

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