【Ⅲ】—1 優しさ
雷の大精霊の祠は、東の準都市レベリアの北方の街レキダースのほど近くに位置している。街の北側は一面荒野だ。大精霊の影響でほぼ一年中雷雲が立ち込めており、日が射さないために植物が育たない。激戦地からもそう離れていないこの祠は、西側で唯一、防衛設備が整っていると言える。祠が立つのは、荒れ地を切り開いた谷の中央だ。それも千を優に超える階段の果てという、とんでもなく不便なところにある。司たちには大きな苦労を強いているが、此度に関しては大変都合がいい。主に東の兵は谷の両側の高台に展開し、大精霊を奪うためには谷を通ることを余儀なくされる中央兵を、上から狙い撃つのが主な作戦だ。
「それにしても、王国軍と共闘することになるとはねー」
王国軍の総勢は二百程度ではあるが、一糸も乱れぬような厳しい統率訓練を受けている東としては、他の軍が混ざり込むという事態はやりづらさの要因となる。だが受け入れるのを決めたのは、他でもない防衛隊の長フィレネだ。敵聖者の力量を知るかもしれない貴重な存在だから、という理由だった。
「あら、わたくしの決断に不服でも?」
ナバの一言に、フィレネはその一言で応じた。一瞬失言かと心配したが、フィレネの表情は凪いでいて安心する。
「いーえ、不満はございませーん」
「よろしい」
フィレネの将としての指揮能力、及び判断力を疑ったことは一度もない。ナバ自身も南支部在籍時は実戦部隊の隊長として勤めたことがあったが、自分よりはるかに優れた能力を持つ人物として大変尊敬していた。何よりも情に引きずられず、いつでも冷に徹していられるのが、我が東支部が誇る女傑が優秀たる所以だ。それでいて彼女自身は決して非情ではないからこそ、これまでナバは付き従ってきたし、これからも命ある限りはそうするだろう。
「フィレネ副長ー」
「何か?」
「副長はオレくらい適当な人間を副官につけてる方が、多分いいっすよ」
深く考える前に喋ってしまったナバの言葉は、フィレネの両眉をわずかに寄らせた。
「何ですの、出し抜けに」
「まーほら、オレ、今回で死ぬかもしれないじゃないすか。なんで、言っておこうかなと」
「わたくしは戦の前に後ろ向きになるような弱い人間を、副官につけていたのでしょうか」
「副長はこういう言葉を聞いてる方がいいんすよ。自分では絶対言わないから」
フィレネにもナバにも激戦地での戦闘経験は豊富にある。東支部の配属は戦地が近いゆえに流動的で、一季ごとに黒獣討伐等の治安維持遠征を行う実戦部隊と、準都市での各種任務を行う警護部隊と、激戦地で戦闘を行う派遣部隊とを巡っていくのが通例だ。何よりも過酷なのは派遣部隊を担当しているときで、心理的なストレスは他部隊担当時とは桁違いだ。東支部の人間は、そういう負荷の中での戦地経験が他のどの支部よりも多いと断言できる。それゆえ、全員に慣れはあった。北支部とはよく並び称されるが、東の人間の中には北をぬるま湯と称する者さえいるのだ。
「わたくしには弱音など必要ありません」
「たまには不安になってる可愛い副長も、拝んでみたいんですけどねぇ」
ナバとて別段、いつも以上に不安になったというわけではない。ここが死地になるかもしれないという覚悟は持って臨んでいるが、それは今回に限らずいつだって同じことだ。それなのにこんなことを言ったのは、本当に注意して見なければ分からないような若干の緊張を我が副長から感じ取ったからである。
レイグ聖者は誓う者かもしれない。その情報のせいだろうことは、想像がつく。
——生身の人間の対処は易いのですけど、敵将だけは倒して倒して倒しまくれ、ということくらいしか言えませんよ。我々の知略はあくまで一度殺せば死ぬ人間に用いるもの。何度も殺す必要があるだけでなく、疲労さえも感じない人間に対しては、あなたがた戦士たちの頑張りに懸けるということになりましょう。
東支部抱えの軍師ショーンは、齢五十近くになるベテランだ。今回も東らしい無慈悲な作戦を幾つも考案してくれたが、対レイグに関してだけはお手上げと言った様子でこう述べた。彼もまた誓う者に関する情報で、これまでのやり方が通用しないという動揺に瀕しているらしかった。フィレネの倍生きている人間でもそうなのだ。彼女もまた少しくらい動揺しても不思議ではない。
「ナバ、本当に調子がおかしくてよ。遂にわたくしを口説くようになったのなら、おしまいですわね」
蔑むような顔をしてそんなことを言われるが、ナバはいつものフィレネに戻ったことに内心で安心していた。
「オレ心配っすよ。いっつもそんな感じで、フィレネ副長の結婚相手が見つかるかって」
「余計なお世話ですわ。縁談はいくらでもきておりますので、ご安心を」
軽い調子で言い合った後だった。哨戒兵から伝令がやって来る。
「お伝えします、フィレネ副長。敵兵が視界に現れました。昼にはここに到達するかと」
旧王都付近に張らせた偵察兵から敵の出兵の報告があったのは、二日半ほど前だった。
——おそらく我らの祠攻めには【転移の呪】は用いられず、地を行く通常出兵になるかと思いますよ。ミゼリローザ殿の話によると、あれで生身の人間を大勢送るのには大きな力が必要とか。彼女でも二十名でかなり消耗するとのことですから、白女神を取り込んだばかりの大聖者には荷が重いでしょう。北に来る【光の子】とやらは生身の人間ではないので、転移の呪を使って来るかもしれません。が、東と中央の祠攻めはおそらく通常出兵でしょう。東はほぼ間違いないと見ていますよ。距離も近いですし、かねてから祠の武装が進んでいるため、意表をついても大きな益が見込めないですから。
策を託せるだけ託してナバらを見送ったショーンの見立ては、正しかった。中央兵は地道に野辺を歩いてくる。
「いよいよっすね」
「ええ」
祠に至る長い階段は、ぐるりと螺旋を描きながら伸びている。その中腹より上に精鋭らを配置し、ここに来るだろうレイグを何としても止める手筈となっている。ナバもフィレネも、持ち場はここだった。フィレネ班は最上部でナバ班はその一つ手前だ。
——情報が真なら、敵将は七百年も生き抜いてきた歴戦の剣士です。それに、疲れも死も知らぬ身体を携えていますわ。ですが再生に限界はある。それぞれ身命を賭して、一度は屠りなさい。敗死するならばそれからです。それでも敵わなければ、最後にわたくしが、あなたたちの骸に誓って何度だって敵将を討ち取りましょう。
配置前に東の担当六班六十名の全員を呼び出し——王国軍も一班出すことになっているので、全七班が螺旋階段に配属される——フィレネは語った。端的にまとめるならば、「死を覚悟しろ。ただしただでは死ぬな」という内容だった。誰も文句ひとつ言わないのが東らしい。自分も言う気はなかったので、すっかり東の在り方に染まっているなと今更ながら思って、ナバは笑う。
「何を笑っていますの?」
「副長、オレはっすね、ずっと死にたくなかったんすよ。兄貴のこともありましたし、そんなことになったらお袋に悪いなって思ってて」
「はい?」
「それが今、それもしょうがねーかなって思っちまってるんです。オレ、本当に死ぬかもしれません」
「だから後ろ向きなことは——」
「フィレネ副長、これって別に後ろ向きなことじゃないんすよ」
最近、上官の言葉を断つことが増えたなとちらりと考えて、ナバはもう一度笑った。
「何かのために死んでもいいって思えるのって、この上なく前向きなことなんだと思うんですよ。人生かけてもいいことを見つけたってことじゃないすか? すげーことっすよね」
部下のために命を捨てることになった兄を、敬いながらも、どこかで愚かだと思ってしまっている自分がナバは嫌いだった。その兄のことを、今はもう迷いなく尊敬できる。そういう自分になれたことが誇らしい。
「そういう男、格好良くないすか? 惚れません?」
しかしそういう内容を素直にフィレネに語ってしまったことが照れくさくて、ナバはいつもの調子に戻って言葉を足した。フィレネはしばらくナバに視線を留め、一度口を開いて、閉じ、もう一度開いて緩く一息ついてから応じた。
「死んだ男にどう惚れろと仰るの?」
眉を上げていた。この言葉の優しさに気づかないナバではない。なるべく死ぬなと、フィレネは東の将たる者の立場で言える言葉を探して、そう言ったのだ。
「へへ、ありがとうございます」
「早く他の班長に伝達して来なさいな。王国の方にもですわよ」
「はーい」
長い階段を中腹まで行き来することになったというのに、ちっともげんなりしなかったことを、ナバは自分でおかしく思った。
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