【Ⅱ】—4 復讐

 感覚消失は一瞬のことだった。だがその一瞬の後に、別の異変がユウラを襲った。


「え」


 自分がなぜここでこうしているのか、分からない。どうしてこんなものを握って、今現在こうして逆さに落ちていくのか。目の前の男は誰で、怪我をしている理由は何で、自分たちを取り囲むように立つ像は何のために——全て、分からなかった。


「ユウラ副官!」


 背の服を掴み取られると同時に呼び掛けられた。その音が自分を示すらしいことは、一呼吸遅れて分かった。


「大丈夫ですか!」


 何が何だか分からないまま、男の兵に力強く引き上げられる。


「あたし、何で」


 ここが戦場だということはもう認識できていたが、数あるなぜはちっとも解決できない。困惑ばかりしているユウラの前で、兵士がはっと気づいたように息を呑んだ。


「幻惑の呪か」


 そう零した後、彼はユウラの前に立った。


「ユウラさん、呪が解けるまで下がっていてください。時間稼ぎ程度ならば我らにもできます。あなたが聖者を止めてくださっていたおかげで、こちらは善戦していますから——リリン小隊、これより聖者に立ち向かえ!」


 リリンというらしい兵の言葉を、何度か頭の中で反芻する。自分が聖者とやらを止めていた、らしい。小隊長と思しき人物が自分に敬語を使っている——そして自分は槍を握っているし、どうやら軍服も着ている。ならば、このまま下がっていてはいけないのではないか?


 像が立ち並ぶだけの足場は、酷く不安定だった。しかし不思議と足の置き場には困らない。多少バランスを崩してもすぐに持ち直せるだけの平衡感覚が、どうやら自分にはあるようだ。握る槍の振り方も、なぜか分かる。そのようにして確認作業を終えたときだった。


「小隊長!」


 ユウラを助けてくれたリリンが、突如大量に現れた剣の餌食になっている様を目撃する。大半は捌いたようだが、あの数は一人では手に負えまい。鮮血がユウラの足元にまで飛び散った。ざわりと身体の奥が波立つ。自分は、ここでこうしてただ見ていていいのか?


 いいわけがない。


 行って足手まといにならないか。もしかしたら何もできないかもしれない。そういう不安の声だって、ユウラの耳に木霊してはいた。しかし、身を縛めるには至らない。なぜなら、ユウラは信じているからだ。軍服を着て、槍を握って、ここに立っている自分自身を。何の覚悟もなく、周囲に迷惑をかけるような技量で、このあたしがここにいるとでも?


 全身に力が溢れるような心地がした。明確な自信が、物理的な力となってユウラの背を押す。不安定に動く像の足場も、ユウラの歩みを止めるだけの障害とはなり得なかった。


「下がってて」


「しかし——」


「大丈夫、やれるわ」


 負傷したリリンを庇い直して、敵と思しき人物を見下ろす。この者が己の敵であることは確かだろう。我に返った瞬間、ユウラはこの男の肩に槍を立てていたのは覚えている。傷ついたその肩を逆の手で押さえて、男はユウラを見上げていた。


「何なのですか、あなたは」


 辟易しきった様子で、彼は言う。


「記憶を一時錯綜させる。そういう闇呪だけが司る領域にまで、私は幻惑の呪を極めることで到達しました。これは私の切札です。この呪で、多くの者を挫いてきました。誰もが自分を失うと隙だらけになりますし、混乱から戦意も喪失する。だというのに、あなたは……本当に、何だと言うのですか?」


 敵は現在のこの状況を窮境と感じているようだった。万策尽きたかのような話しぶりをしているが、まだ目は死んでいない。焦燥は多分に認められはするものの。


 くるりと、ユウラは顔を回して周囲を見た。加勢に来てくれた兵は十ほどで、その半数が負傷していた。うち一人は意識がなく、ぐったりと倒れ込んでしまっている。奮起までにかかった時間はそう長くなかっただろう。しかし、その短時間で五の兵が戦闘不能になった。この男を野放しにしてはならない。強くそう思わされる。


「ここに立つあたし自身を信じただけのこと」


 理解できないものを見る目でひたすら見つめてくるので、答えをくれてやった。なお分からないと言いたげな敵に、逆に問うてみる。


「あんたはなぜここに立つの? 劣勢を悟っていながら、なぜまだ引かないのよ」


 意地で保っていたような微笑が、そのとき、失せた。


「そんなこと」


 無になったままで、言葉が零れ出してくる。


「決まっていることだからですよ、全部。私の意志を差し挟む余地など、全くもってないのです」


 男は、彫像のように固まった表情をし続けている。ふらりと、意志の不足した手が持ち上がった。


「勝てば大精霊の器に、負ければ亡骸に。それも既に定まっていることです」


 空にかたどられたいくつかの剣が、ユウラ目がけて飛んでくる。槍を使って弾き落とすのは、とても簡単だった。


 哀れだと思った。しかし、同情はしない。いつだって、現状を受け入れるだけでは望んだ道になど進めない。この男は望めば変えられたかもしれないはずの運命に、漫然と従い続けているだけに過ぎない。


 足場を蹴る。槍を下突きのために持ち替えた。男を守るように棘がついた盾のようなものが展開されるが、恐怖は微塵もなかった。棘の合間に槍を差し込んで、そのまま砕く。面白いほどに思い描いた結果が実現される。


「なら、定め通りになりなさいよ」


 この一閃で、全て貫く。覚悟を載せて放った一閃だった。が、覚悟を決めていたのはユウラだけでもなかったらしい。男は身体の前に交差させた腕でまず、ユウラの槍を受けた。槍はその厚みでは止まらず胴に達するが、浅い。感触で分かる。


「引かない理由が……主体的な理由が、できました」


 腕はもう駄目にしただろう。凄惨な状態に反して、痛みはさほど感じていないのか、男は笑んでいる。乱れていた息が、驚くほど短時間で整えられた。


「精神の強いあなたを、尊敬します。ええ、認めましょう、あなたは美しい。けれど、だからこそ思うのです。あなたから全てを奪ってやりたい!」


 振動を感じる。ユウラと男を取り囲んでいた像の群れの全てが、こちらに向けて傾ぎ始める。


「その折角の強さも、死を迎えれば全て失われるのですよ。奪ってみせますよ。かつてあなたから、唯一の親族を奪ってみせたように」


 その一言が引き金になった。記憶の全てが怒涛のように流れ込んできて、同時に、身体中の血が沸騰するかのような憎悪が蘇ってユウラを滾らせる。それはこれまで懸命に嵌めていた理性の箍をあっという間に破壊して、ユウラを一挙に復讐に駆り立てた。


「あんたが……あんたさえ、いなければ……!」


 煮える感情の全てを、握り締めた槍に注ぎ込む。槍はすぐに激しく放電し始めた。それはソニモの身体を灼くだけに留まらず、ユウラ自身の腕をも害する。その様を目では確認しても、とても止める気にはならなかった。遠くでテイトが自分の名を呼ぶのを聞いた。制止の声だと分かりはする。でもそれさえも、ユウラの意識を揺るがすには至らない。


 殺す、殺す、殺す——


「いいですねぇ。妹と同じ顔をしていますよ。さあ、あなたも私に奪われてください」


 ソニモはこれを今際の一言と決めたらしく、言い終えた後は、どれほど雷に身体を灼かれようとも焦がされようとも、そして像の雪崩が迫ろうとも、ただ微笑むばかりになった。それがユウラの怒りに拍車をかけて、槍が纏う雷は音を立てるほどに激しくなる。


 ひとつ、足元に像が墜落した。構うものかと思った。圧死する前に、可能な限りこの目の前の悪魔を痛めつけてやれればそれでいい。ユイカが感じた苦痛の何倍もの痛みを与えてやるのだ。


「ユウラ、五歩下がって! そこに土呪で足場を作るから! ユウラ!」


 テイトが呼び掛けながら、氷の盾をユウラの頭上に広げた。しかし、何度呼ばれても復讐心はユウラを縛めて離さない。指が傷んできたが、無理やりに秘術で筋を制御して強制的に槍を握らせる。


 まだ、この男が許せない。何回も死ぬくらいの苦悶を味わわせなければ、とても、許せない。ただの圧死なんてさせるものか。灼け死んでから、潰されてもう一度死ねばいい。その前にもう二、三、槍で突いてやろうか。その程度では死なないように、致命傷は避けなければ。どこを突くのが一番苦しいだろうか?


 頭上で氷の盾が軋んだ。もう幾つも墜落する像を受け止めているらしく、じき壊れそうだ。壊れるなら壊れたらいい。この危機的状況は、ユウラにそういう無感情な感想を抱かせるだけだった。

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