【Ⅱ】—2 秘術

「それにしても、意外でした。副長さんはおいでではないのですね。前聖者の毒で臥せっておいでですか? 死闘だったそうですしね。それに、あなたは洗礼を受けていたはずですよね。どうやって自我を取り戻したのです?」


「答える義理はないわ」


「申し訳ありませんが、あなたでは私の相手にはなりませんよ」


 ソニモは表情こそ上品そうな笑みを貼りつけているが、本性を知っていると不快でしかなく、また不気味でもあった。


「それが見くびりだってこと、すぐに教えてあげる」


 距離を狭めると同時に、槍を斜めに振り下ろした。出現する像に阻まれるのは想定内で、すぐさま身を翻して後ろからの一撃を狙う。再び像は現れたが、これもまた想定内だ。二か所を塞がれるのは相手も同じで、逃げ場は少ない。今なら突きが当たる——


「素直な方だ」


 その声があったから、警戒が間に合った。身体の重心を後ろに寄せていたので、直下の地を突き破って現れた像の餌食にはならず、足元を軽くすくわれて体勢を崩すだけで済む。片手を素早く地面についてすぐに復帰する。


「大体、把握しました」


 ソニモは自らの足元に高く積み上げた少女像の上に立って、こちらを見下ろしていた。


膂力りょりょくに優れる槍使いで、雷呪を使うという事前情報に加えて、速さと身体の柔軟性があなたの強みですね。一方で」


 敵はその場でゆっくりと腰を下ろした。地面から数えて五つ目と六つ目の像の合間に座っている。


「攻撃は単調。あなたはこれまで、ほとんど格下としかやり合って来なかったのでしょう。純粋な技量比べで勝てる相手だけを宛がわれてきた。さぞや大事にされてきたのでしょうね。それがとても、よく分かります」


 動揺はしなかったが、図星ではあった。これまでベイデルハルクやクレイドとは戦ったが、いずれもこちら側は複数人いての戦いだった。訓練を除くと、確かに一対一では力量に大きな隔たりがあるほどの強敵と対峙したことはない。


 しかしそれが何だというのだ、とユウラは思う。戦いにおいて技量と並ぶほど経験が大きな要素であることは認めよう。だが、勝敗がそれだけで決まるわけではないこともまた、この槍を握ってきて知ったことだ。揺るがされてはいけない。真っ直ぐに伸びたこの得物のように、強く芯のある心持ちで立っていなければ、勝ちは引き寄せられまい。


「つまらない男ね」


 返答代わりにくれてやった言葉と共に、ユウラは全力で槍を振り抜いた。ベレリラ家の秘術を宿したこの身体なら、できる。結果は期待したようにユウラの元に訪れた。すなわち、石像の塔は根元から倒れ、術者が振り落とされる——


 刹那だ。視界を構成する全てのものが溶ける。真っ白な世界に佇むことになって、ユウラは一瞬狼狽ろうばいし、しかしすぐに解した。幻惑の呪だ。


 ——幻惑の呪は五感に作用する呪でね。ユウラのように近接攻撃メインの戦い方をする人には、効果覿面てきめんだと思う。だからしっかり対策しておかないと。


 過去に聞いたテイトの言が、ユウラの脳を駆け抜けていく。


 ——基本的には、支配されるのは五感のうち一つだよ。もちろん基本以上の使い方をしてくる人はいるけど、それでも対策は同じなんだ。生きている感覚に意識を集中する。現実に戻る糸口は、そこにしかないからね。


 目は、駄目だ。耳もどうやら駄目らしい。鼻はすぐには分からない。しかし触覚は明確に正常だった。ゆえにユウラは手早く槍の柄で後方の確認を行って——四歩半後ろに腰程度の高さの障害物がある——迅速に後方へと飛び退った。そうしながら、ぼんやりと視界が戻ってくるのを確認する。


「肝の据わった方です」


 聞きたくない声と、ぱちぱちぱちとまばらに手を叩く音とが耳に届いた。視力と同じく、聴力ももう戻ったらしい。幻惑の呪は注意すべき呪ではあるが、脅威ではなさそうだ。


「けれど」


 背後で物が動く気配がして、ユウラは身体を半回転させた。そこにあったものを視認して、途端、動作と思考が一緒に停止した。


 この顔は、この姿は。


 離別時よりも少し大人びて、それでいて再会した時よりはあどけない。たった一人の大事な妹の石像は、ユウラの知らない佇まいで、静かにこちらを見つめていた。一瞬だけの動揺だった。しかし、この戦場においては十分過ぎた。


 一呼吸遅れて距離を取ろうと反応した足は、ちょうど踏み場だった場所に出現した像に掬いあげられる。身体が宙を漂う。受け身を取ろうとひねった身体を、今度は別の像にからめ取られた。それでもと動かした槍を次に妨げられる。気づいたときには、ユウラは足が高いところにあって、腕が伸び切った大変無防備な状態で留められたように動けなくなっていた。


「あられもないお姿ですね」


 ソニモはぬっと高いところに現れて、ユウラを見下ろした。先程のように像を足場にしているのだろう。視線を下に遣れば予想した通りだったが、尻に敷かれていたのは他でもないユイカの像で、ユウラの奥底でまた何かがたぎった。


「しかし……ああ、醜い。どうして女というものは、娘の頃になると醜悪なものになってしまうんでしょうね」


 何の感情も見えない顔でそう言った仇は、手を下へ伸ばして、ユイカ像の頬をおぞましいほどに撫で回した。


「あなたの妹もね、少し前までは本当に愛らしかった。丸い瞳と柔らかな肌に滑らかな髪をしていましてね。お気に入りだったんですよ。匂いもよければ、流す涙の味なども——」


 挑発だと分かっていたが、もう耐えられなかった。この程度の束縛が何だと言うのか。支部一とうたわれる柔軟性には自信があった。左膝を折って支えにして、強引に起き上がる。それは叶ったが、どうしても隙は生まれる。多少の負傷は覚悟していたが、敵はその隙を最も効果的に利用した。


 左の内股、足の付け根のほど近く。絶対に触れられてはいけないそこに、生温かい指が触れた。悪寒が襲ってくるのと反比例するように、凄まじい虚脱感が押し寄せてくる。やられた——


 引き換えに繰り出せたのは、動揺と虚脱によって弱められた蹴り一つだけだった。左のこめかみを狙ったそれは、直前でやや狙いを外されて左頬を撃つ。威力などないようなものだったが、唇の端を切ったらしいソニモは瞳に憤慨の色を過ぎらせた。


「賞賛に値しますよ、その胆力と柔軟性」


 足はまだ高く、体勢が悪い。槍もやはり像に妨げられている状態だ。一体どうしようか。テイトがこちらに干渉しようとしているのが分かるが、幾重にも張り巡らされた光呪の防御呪に手こずっているようだ。自力で打開するしかない。


「しかし、驚きでしたよ。まさかそのような場所に術痕を刻んでいらっしゃろうとは。あなたは女を武器にするような戦い方は、好まないと見ていたんですがね」


 ユウラや姉弟子フィレネが、細い身体を保ったまま筋骨隆々の男たちと渡り合えるのはなぜか。その答えは、ベレリラ家の秘術にある。この秘術を身に刻めば、力の保存ができるようになるのだ。たとえば、槍を五回振ったときの力を保存しておいて、戦闘でその五回分の力を一振りに載せて放つ、という用い方をする。自前の筋では耐えられないほどの力も扱えるが、使う筋や力の向きを変えることは難しいので、槍の振り方に応じたあらゆる型の保存が必要になる。


 その秘術の核であり、同時に欠点でもあるのが術痕だ。半月の前で交差する剣と矛の紋——ベレリラ家の家紋の形をしているこの術痕が、力の保存と筋の保護の要になっている。


 今、ソニモにその術痕へ呪力を無理にねじ込まれた。身体に行き渡っていた秘術の制御を、今は全く感じ取ることができない。これでは秘術の力を上手く引き出せない。こうなるから、術痕は隠しておかなければならなかった。スカートの下であり、さらにはその下にまとうサポーターの下であって、絶対に見えないはずの場所だった。おそらくソニモは、呪力読みに長けているのだろう。そういう者には、見ずとも場所を見破られる可能性があると聞いていた。


「考え方が下品ね。一番見えにくく狙いにくい場所を選んだだけの話よ」


 ここに術痕があるのを知っているのは、ユウラ以外にはフィレネとその師だけだ。長らく行動を共にしたセトやテイトは、呪力読みで当たりくらいはつけているかもしれないが、ユイカやリイザ、ステラなど、気を許した相手にも教えていない。ベレリラ家の者ではない自分が、この秘術を身に宿していることをあまり公にはしたくなかった。フィレネは構わないとは言ってくれていたが。そのために選んだのがこの場所だった。


 しかし、秘術に頼り切ってここまで来たわけではない。今は秘術による桁外れの力が使えないとしても、ここでこうべを垂れるという選択肢はなかった。利き手とは逆の左手にある槍の柄を握り直しながら、ユウラはこの逆境をどう打開するかだけを考え始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る