【Ⅴ】—1 化物

 ランテとセトは現在、宿のロビーに当たる場所でオッドと向かい合っていた。やや貧血気味ではあったが、倒れそうなほどでもなかったので、すぐさま話がしたいという彼の要望に応じることにしたのだ。


 あの後、時間がかかっているのを心配したセトが駆けつけてくれ、ランテも女性も事なきを得た。女性は呆然としていたが、外で改めてセトの治療を受けたことによって身体面での大事はなさそうで、ひとまずのところは安心だった。


 全員が腰を落ち着けたのを確認して、オッドは丁寧に頭を下げる。


「この度は民の命を救ってくださり、ありがとうございました」


「ご無事で何よりです」


「お陰様で」


 二人の会話をじっと見守っていたランテの方へ、視線が寄越される。


「ランテ殿、先程仰っていたことですが」


「あ、はい」


 ——その人、癒しの呪が使えるようになっています!


 『先程仰っていたこと』とは、念のためと薬師のところに運ばれていく女性を指して、ランテが叫んだこの言葉のことを言っているのだろう。すぐに思い当たったので、頷きで応じる。


「真実のようですね。彼女は、我々の前で実際に癒しの呪を使ってみせました。まだ未熟でしたが、鍛えれば上達は見込めるでしょう」


「やっぱり」


「癒し手を生み出せる力をお持ちなのですね」


「そう、みたいです」


 初めて起こったことだから、随分自信なさげな返事になってしまう。しかし、ランテはそうしながらも安堵を感じていた。大聖堂で【神光】を壊してしまったと知ったときは、他のことで頭が一杯で深くは考えられなかったが、癒し手がこれ以上生み出されないかもしれないという事実に後から気づいたときには、とんでもないことをしたと大変衝撃を受けたものだ。ランテ自身がひとまず【神光】の役割を担えるのだとしたら、一旦懸念事項から外してよいのではないだろうか。あくまで一旦、ではあるが。


「あなたは、我々との交渉において大変強い切札を手に入れたことになります」


「切札?」


「こちらには癒し手が不足しています。あなたの協力があれば、救える命がたくさんあります。現在怪我に苦しむ人も、これからそうなる人も」


 オッドは穏やかに語る。何か泰然としたものを感じる佇まいだ。


「今回のことですが、やはりこちらに利がなければ多くの者は頷きません。あなたの力は、その利たり得るということです。もっともそれがなかったとしても、手は結んだかもしれませんが、話は格段にしやすくなるでしょう」


 いつ息を継いでいるのか分からないほど、彼の発声は滑らかだ。


「……どうしてそれを今お話しに?」


 何を言っていいのか分からずにランテが黙っていると、セトが遠慮がちに聞いた。オッドはそちらに視線を流し、やや目を細める。


「我らアーテルハ一族は、古来より変わらずラフェンティアルン王家に忠誠を誓う身です。ですからあの方が——ミゼリローザ殿下がお望みならば、私個人はその御意に沿いたい。最初から私の心はそちら側なのですよ。立場上、中立でいなければなりませんが」


 細められた瞳には同情の念が染みていた。この人は、ミゼを憐れんでいる。忠誠心も嘘ではないのだろうが、どちらかというとその憐れみが勝って彼を今ここに座らしめていると思わせた。


「ひとつ、ランテ殿に確認しておかなければならないことがあります」


 オッドがランテの名前をわずかに強調するように言ったのを受けて、セトが席を立つ。


「では、外します」


「あ、待って」


 ランテが慌てて呼び止めると、セトはちょっと笑った。


「必要なことなら後から話してくれるって思ってる。お前が判断すればいいよ。……声が届かない距離におりますので」


 ランテに伝えオッドへ会釈してから、去って行ってしまう。機敏で、それ以上呼び止める間もなかった。


「信頼されているのですね」


「あ……はい。オレもとても信頼しています。だからどんな内容でも、聞いてもらっててよかったんですけど」


「こちらの顔を立ててくださったのでしょう」


 しばらくの間を置いてから、オッドは続ける。


「以前、このラフェリーゼにも国が崩壊しかねない大きな危機がありました。二百年ほど前のことです」


 ここで、さらに間。


「覚えていらっしゃいますか」


 あまりに静かに問うので、ランテは何を聞かれているのか、その意味が長らく飲み込めなかった。


「覚えてるって……え? 二百年前のことを? オレが、ですか?」


「ええ、あなたがです。その騒乱を治めたのは、あなたなのですよ。女神の騎士——そして救国の英雄、ランテ殿」


 息を吸って、吐いた。そうしても何も分からない。


「えっと……」


 狼狽えて彷徨う視線が、いつも帯剣している場所に落ち着いた。剣は船に置いてきたからもちろんそこには存在しないのだが、以前セトに言われたことを思い出す。ランテの剣は、黒軍が使っていたものと似ていると彼は言った。そして、ランテにはまだ空白の記憶がある。確かミゼは言っていた。ランテの記憶は、ミゼが奪ったのだと。


「何があったか、覚えていないんです。教えてください」


 ランテが顔を上げて真っ直ぐにオッドを見ると、彼は一つ頷いた。


「ええ、あなたは知るべきです」


 両手が掲げられて、そこに闇が集う。じきに闇はぼんやりとした映像に転じた。


「我々一族は、代々記憶を受け継いでいます。今からお見せするのは、五代前の当主の記憶の断片です」


 戦場と思しき場所に立つ一人の人物。彼は剣を抜いていない。代わりに両手を大きく伸ばして、叫ぶ。


 ——剣を置いてください! 戦っちゃいけない!


 はっきりと分かる。ランテだった。


「すべての記憶をお見せする時間はありませんから、こちらでかいつまんで経緯をご説明します」


 どくどくと心臓が跳ねている。脈絡なく、生きているんだなとランテは思った。そう、生きているのだ。だから何も、恐れることなんてありはしない。やはり落ち着いたままのオッドの表情を眺めて頷く。


「ラフェリーゼ建国後五百年経った頃でした。今で言う過激派のような思想を持つ若者たちが蜂起し、クーデターを試みたことがあります。大人数になったうえに、軍部も一部取り込まれていたため、兵の練度も高かった。何年もかけた計画らしく周到でもありました。ラフェリーゼの主力部隊はほとんどが激戦地にいます。元来、内側に敵がいることを想定していないのです。導師が二名討たれ、首都ラフェリが落ちかけました」


「ラフェリーゼは王国みたいな国だと思ってたから、そういうこととは……無縁? だと思ってました」


「ええ、長らくそうでした。ただ激戦地ではずっと戦いが続いていましたから、王国のように完全に平和とは言えません。若者たちの首領は、殉死した職業軍人の兄だったとか」


「そう、ですか」


 大事な人を亡くしたことが発端になる。メイラと同じだ。悲しみはある種、人の背中を押してしまう感情なのかもしれない。胸が鈍く痛んだ。きっと、悲しみで踏み出す人は皆強い人たちなのだ。多くの人は立ち止まってしまうだろうから。歩む方向が正しくさえあればと思うが、冷静ではとてもいられまい。道を選び取れる余裕などなかったのだ。すぐ前に見えるものの方向に進むしかなかったのだ。


「殿下は無論争いを止めようとされました。しかし軍の一部が急に激戦地を空けたことで、そちらでの大苦戦もあった。いくら殿下でも、離れた地で二つのことを同時にはできません。殿下は国を守るため、まずは激戦地の安定を選ばれました。それは当時の導師らが望んだことでもあります。たとえクーデターが成ってしまったとしても、ラフェリーゼは滅びません。しかし白軍に負ければ、ラフェリーゼは滅びるのですから」


 ミゼはこのときもどれほど心を痛めたことだろう。どうして穏やかに生きようとしてくれないのか。なぜすぐ力での制圧を選ぼうとするのか。ランテには分からない。


「当時の大導師は降伏を考えました。これ以上の血は流れて欲しくないという思いや、若者たちがもしも白軍との決戦を望むのなら、それもまた一つの正しさかもしれないとの思いもあったようです。準備を進めていたときに現れたのが、あなたと瓜二つの彼でした。彼が何をしたのかは、先程あなたにお見せした通りです」


「……あれで、戦いは止まったんですか?」


「止まりました。最終的には」


「最終的にはって、どういうことですか?」


「あなたは何度斬られて倒されようとも、彼らを止め続けた。彼らの根負けです。覚悟があるなら、お見せしましょう」


「見せてください」


 何かがきっかけで記憶が戻るかもしれない。ランテが迷う間など、一切ありはしなかった。オッドは頷く代わりに再び両手を持ち上げて、そこにかつての誰かの記憶を映し出す。


 ランテがいる。多くの武器を持った若者たちがいる。ランテが彼らを止めようとする。言葉では止まらない。どけと言われてもどかなかったランテは、先頭の青年に胴を薙がれて斬り捨てられた。記憶を現世に残してくれている誰かは、それを見て逃げ出したのだろう、視界がくるりと変わる。血気盛んな革命家たちは、背を見せて逃げる彼をも斬ろうとした。迫る声に振り返った記憶の主の視界に飛び込んでくる剣。彼を庇ったのは、追いついてきたランテだ——


 ——殺しちゃ駄目だ。


 この視点からでは、ランテの後頭部しか見えない。しかし正面から見たランテが今、どれほど凄惨な姿をしているかは想像がついた。なぜなら、剣の切っ先は頭頂部にある。頭の中央に刃を受けていながら、ランテは話しているらしい。


 ——化物め。


 剣を握る人物が吐き捨てた言葉は、映像越しでも伝わるほどに震えていた。

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