【Ⅳ】—3 火事

 扉が叩かれる音でランテは覚醒した。まだ夜中のようだが、どうしたのだろう。戸惑いながらも近づいて扉を開くと、予想通りの人物が佇んでいた。


「セト」


「起こして悪い。外は見たか?」


「ううん、まだ」


「近くで火事が起こってる」


 言われてランテは部屋に戻り、急いでカーテンを開け放った。一つ向こうの通りの建物が確かに燃えている。高いところから見下ろしても炎は大きく見えるし、黒い煙もはっきりと立ち上っていて、かなり深刻な状況に思われた。


「た、助けに行かないと」


「ああ。立場上勝手な真似はできないけど、緊急事態だ。こっちの組織が上手く機能しているなら、様子だけ見て戻って来ればいいしな」


 セトはもう身支度を済ませていたので、ランテも手早く着替えて部屋を飛び出した。【水籠】を待ちながら話す。


「セトはどうやって気づいたの? 部屋が高いところにあるせいか、人の声とかも全然しなかったけど」


「偶々」


「起きてて何かしてた、に一票入れる」


「買った本を読んでてさ。窓の外を見たのは、本当に偶々だ」


「夜はちゃんと寝ないと」


「まだそんなに遅い時間じゃないだろ?」


「そうかな」


「そうだ」


 丸め込まれたような気もするが、月の位置を見ていないランテは今がどれくらいの時間かは分かりかねるので、これ以上の追及はできまい。元々ランテはよく眠る方で、セトは眠らない方だから、ある程度の時間のギャップはあるものなのだろうと、強引に納得することにする。


「火事って、王都ではそんなになかったと思うんだけど、よくあるもの?」


「エルティだと、寒いからって理由で炎の【呪具】を——永続呪がかかったもののことな? それを夜中使いっぱなしにして起こる事故は時々あった。でもここは温暖だから、そういうことは考えにくい」


「一体どうしたんだろう」


 【水籠】が到着すると同時に、ランテとセトは話を止めて駆け出した。慣れない街で呪を使って移動する訳にもいかず、己の足を使っての移動になる。人の数は多くはなかったが、何人かが遠巻きに火事の様子を見守っていた。


「すみません、今どういう状況ですか?」


 より現場に近いところで様子を見守っていた若い男性に、セトが語りかけた。男性は腕を組んで困った顔をしている。


「よく分からないんだ。今、消火班を呼びに行ってもらっているけど」


「家の方は避難しているでしょうか」


「隣家の人は皆いるけど、今燃えている家の人はいない……若い夫婦と赤ちゃんが住んでいるはずなんだ」


「……そうですか」


 セトは燃え盛る家を見上げた。炎が爆ぜる音に混じって、微かに赤子が泣く声がする。


「その消火班って、すぐに来ますか?」


 ランテが問うと、男性は首を捻る。


「分からない。ほとんど動くことのない組織だから」


 周りの人は、家から水を持ってきて建物にかけること程度のことはしているが、あまり効果があるようには見えない。


「わざとかも」


 傍で、中年の女性が囁くように言った。ランテが目を向けると、その女性は少々困ったような顔をしてから続ける。


「事業に失敗して……近々引っ越しの予定だったのよ、あそこのおうち。借金返済のために、旦那さんは兵役を受け入れたって聞いたわ。極悪非道の敵に惨たらしく殺されるくらいならって、もしかしたら心中かも。奥さんも、望まない職の勧誘を受けていたと言うし……綺麗な方だったからねぇ」


 拳を握っていた。今の言葉で、助けなくてはならないとより強く思った。それはセトの方も同じだったらしい。視線が合う。頷き合った。


「光呪より風呪がいいな。それも【風守】より【寒風】がいい。極力呼吸を控えて欲しいが、いけるか? 外からの煙と熱を遮断する代わりに、中の空気量に限りがある。それと、補助呪だから防御呪としてはほとんど機能しない」


「うん、ありがとう。大丈夫」


「やばくなったら一旦外へ。無理はするなよ」


「分かった」


 互いに早口で打ち合わせをする。直後、セトがランテに涼しい風を纏わせてくれた。すぐに現場に向かうセトに追随して、ランテも進む。


「ちょっと、あんたたち——」


 男性の制止の声が耳を掠めたが、ランテもセトも止まらなかった。






 建物に入ってすぐ、盛んに燃える炎がランテたちを出迎えた。わざとかも、という女性の声が蘇る。彼女の言う通り、炎が巡りやすいようにしたのかもしれないという可能性が過ぎるほど、よく燃えていた。それでも熱を感じないのは、涼やかな風のお陰だった。限られた空気を大事にするために、ランテもセトも言葉を交わすことなく炎の中を行く。広い家だ。それに、先程までは聞こえていた赤子の声ももう聞こえないので、一家三名の捜索は速やかにというわけにはいかなかった。呪力を拾おうにもセトの呪越しでは難しいし、捜索対象が拾えるほどの呪力を持っているかも定かではない。


 三階建ての建物の二階、奥の部屋。そこで夫と妻と思しき二人が寄り添うようにして座り、二人で一人の赤子を抱えていた。全員、血を流している。傍に血染めの短いナイフが落ちているのを見るに、やはり心中をしようとしていたのだろう。セトがそのナイフを拾い上げた後、すぐに治療に取り掛かった。


「子供を先に」


 赤子は身体が小さいためか、治療——おそらく応急処置だろうが——も、一番に済む。まだ間に合うだろうか。抱き上げると汗で湿った服越しに熱を感じたので、幾らかほっとする。セトの短い指示に従って、ランテは既に割れていた窓に足をかけた。破片に気をつけながら、【光速】を使って一階へ降りる。高低差を意識して使うのは初めてだったが、集中していたからだろう、上手くいった。駆け寄ってくれた女性に赤子を託して、もう一度【光速】で窓に戻ろうとしたが、目標が小さすぎて不安を覚える。激突して家を壊しでもしたら大変だ。入口から戻ることに決め、急ぐ。


「母親を、頼む」


 階段で父親を背負うセトとすれ違った。父親はかなり体格がいい。窓を通れず、救出に時間がかかるからセトが引き受けてくれたのだろう。おそらくは【寒風】の中の空気が薄れていて——あるいは怪我人の方に新鮮な空気を寄せているのか——多少息苦しそうで心配だったが、彼ならばどうにかするだろう。信頼して任せ、ランテは指示通り母親の救出に向かうことにした。


 母親も涼やかな風の守りの中にいた。気を失っていた彼女だったが、ランテの足音で意識を取り戻したらしく、緩慢な動作で顔を上げる。目が合って、ランテは思わず「あっ」と声を上げていた。とても見覚えがあったのだ。昨晩世話係として導師から寄越された女性のうちの、一人——


「夫と娘は、どこ?」


「外です。これからあなたも運びます。空気が足りなくなるので、今は話さないで」


 虚ろな瞳で、彼女はランテの言葉を聞き届けた。何の反応も示さない。少々怪訝に思ったものの、長らく迷う時間などあるはずもなかった。ランテは彼女に近づいて、抱えようと腕を伸ばした、が。


「痛っ」


 反射的に手を引っ込めると、手首と肘の間辺りに赤が一線走っている。切りつけられたのだと分かったのは、その後女性を見てからだった。転がっていたナイフはセトが回収していたが、どこかから取り出したらしい新しいものを逆手に握って、ランテを睨めつけている。必死さを感じるほどの形相でだ。


「死なせて」


「嫌です」


「あなたたちのせいなのに!」


 叫び声だった。女性はナイフを握ったままの手も使って、左右から髪をかき上げるように頭を抱える。震えるほどに力の入った指は、自らの髪をいくつか引き千切った。


「覚悟して行ったのに。最後の手段だったのに。どうして、どうしてどうして、誰も私たちを助けてくれないの!」


 女性は泣きじゃくる。彼女の言いたいことはまだ見えてこないが、窓の側とはいえ煙もますます満ちて来たし、ここで時間を使うのは避けたかった。少し悩んで、ランテはナイフの刀身の方に手を伸ばす。痛いのは嫌だが、女性にこれ以上痛い思いをして欲しくないという気持ちの方が勝った。手を持って止めるのが一番良かったのだろうが、髪が幾重にも絡まっていて無理にするのは憚られたため、刃を引っ張って指からナイフだけを抜ければと考えたゆえの行動だ。


 だが、甘かった。


「やめてよ!」


 女性は思いの外早くにランテの意図に気づくと、思い切り手を——つまりはナイフを——振り回して抵抗する。伸ばしかけていた手が浅く切られてランテが怯んだ、その後だった。


「あっ」


 唐突に右足の膝が折れた。何だろう。視線を落として、迸る赤を見る。


「うわ……あ」


 目で見た光景に衝撃を受けた直後、視界が歪んで、気づけばランテは床に突っ伏していた。右足がじんじんと痺れている。痛みは後からゆっくりとやって来て、しかし徐々に激痛と呼べるほどの強さに転じていく。


「あ、ぐ……」


 錯乱状態の女性は、ランテの、そして彼女自身の想像をも超えた力でランテの足を切り裂いたようだ。ナイフは肌の内をかなり深くまで抉ったらしく、吃驚するくらいの血が既に流れ出してしまっている。


「あ、あ」


 女性はさらに混乱を極めようとしていたが、今そうなってもらっては彼女にとってもランテにとっても困ったことになる。不思議なほどに冷静な思考でそう考えて、ランテは今度こそ彼女の手を取った。


「窓から、逃げて……下で、セトを、呼んでくれる?」


 彼をまたここに来させるのは気が引けたが、最早ランテが助かるにはそうしてもらう他ないだろう。少々息苦しくなってきた。時間は多くは残されていないに違いない。


「飛び降りても……助けて、くれる……はずだから……」


 苦しさに耐えながら一生懸命に伝えていると、そのとき、ランテの右手が輝き始めた。


「え?」


 この場にいる二人の声が重なる。光の色は曙色だった。その光が徐々に女性を包み込むようにして広がっていく。やがてそれは、女性の中に引き込まれるようにして消えた。


 ——彼女は、癒しの呪の才を持つ。


 耳の奥で、女神が囁いた。

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