【Ⅱ】—4 愉快
「時呪は、封じられるべき力だ」
仰いだ人影は力強くそう言った。やはり顔かたちは分からなかったが、声だけははっきりと判別できる。低くて通りがよく、それでいて耳に心地よいこの声。始まりの王レイサムバードだ。
——そなた以外が行使すべき力ではない、という意味ならば頷ける。
「いや、私も含めてだよ、ティア」
レイサムバードはラフェンティアルンのことをティアと呼ぶらしい。呼び名のつけ方がランテと似ていて、少し笑ってしまった。前に女神像の前で対面したときも思ったが、やはり彼とランテには似た部分があるようだ。
——何故?
「時呪は、まるで暴力のようだと思うんだ」
——暴力。
「ああ。相手の時を止めることは、その人から意志を奪うのも同じ。それは暴力によって相手を支配し、各々の意志を捻じ伏せることと同じことのように思えてね」
——だが、血は流れない。
「そうだね。そう思ったから私もこの力を存分に使ってきた。しかしそれは、間違っていたのかもしれない」
——命が奪われることは、何よりも避けるべきことだ。そなたは間違ってなどいない。
「ティアは命の司だから、君の根本にその考え方があるのは理解できるよ。そしてそれも一つの正しさだと思う。けれどね、ティア。人は命を賭してでもと思うほどの意志を持つことがある。その成就のために取る手段として殺人を伴う戦いを選ぶことは、誰から見ても間違っているだろう。だが、思いそのものは取り上げられるべきではないんじゃないかな」
ここでランテは驚いた。瞬いてみて、それが気のせいでないことを何度も確認する。気のせいではない。
人影でしかなかったはずのレイサムバードの姿が、少しずつ輪郭を得ている。女神の記憶が鮮明になりつつあるのだろうか。
「ティア。私は君にもらった命の終わりを、我が身の終わりのときにしようと思う」
——世界にはそなたが必要だ。
「いや。本来私が必要だったのは、時を前に進めるきっかけを作ったときだけだったと思う。それより後のことでは、私はきっと出しゃばり過ぎた。戦いは、時の力で止めるべきではなかったんだ。一人の力で強引に納めるべきではなかった。皆で学び、皆で考え、皆で和のために動くべきだった」
——命が散っていくのを許すべきだったと言いたいのか。
「許してはいけないということに、皆が気づくべきだった。気づかせるための力が、私には足りていなかったのかもしれない。何もかもを思い通りにできるような力なんて、きっとない方がいいんだ。この力があるがために、私はどうすれば分かってもらえるかをきちんと考えなかった。この力で解決すればいいと思ってしまった」
レイサムバードは、持ち上げた自身の右手を見つめるように顔を傾けた。
「一つの力や、一人の人間に依存する世界は上手くいかない。それでも、私にはここまでこのやり方で皆を導いて来た責任がある。だからまだ王として立っていようと思う。だが、ティア。私が人に許された時間を超えることは、よしておく方がいい。私はまた何かが起これば……この力に頼ってしまうだろうから」
のっぺらぼうだった顔に、少しずつ目や鼻や唇の形が現れてくる。その様子を、ランテはじっと見守っていた。
——私は、やはりそなたが間違っていたとは思わない。
「ティア」
——……そなたの命は、そなたの自由であるべきだとは私も思う。だから寿命と同時に終わりを迎えようと言うのなら、私は止めない。だが私は共にはいかない。
「……ティア」
——私は、永く留まりここで命たちを守り続ける。それが能を託された者の使命だと感じている。そして……
ラフェンティアルンは、そこから先を言葉にしなかった。しかし彼女と今身体を同じくするランテには、彼女の想いが伝わってくる。
『そなたと築き上げたこの世界を守り続けたい。そなたが間違っていなかったことを、私が証明しよう』
どうして言葉にしなかったんだろう。レイサムバードはきっと伝えて欲しかっただろうに。
「長い時の流れは、君を苦しめないだろうか。ティア、後世を信じて託すことはできないか?」
——そなたがいなくなった後の世界には、不安要素ばかりだ。信じきれない。
薄いヴェールを被ったように朧気だったレイサムバードの姿が、その瞬間、一気に明瞭になった。優しげでありながら、意志の強そうな双眸。すっと通った鼻筋に、穏やかさが伝わってくる柔らかな口元。平凡な顔つきをしているランテとは大違いで、一見しただけで強く印象に残る端麗な容貌を王は持っていた。しかしその大変整った顔は今、困ったような、寂しいような、そういう表情を作っている。
「……一番説き伏せたい人の心をも動かせないか、私は」
続いた言葉は無念に満ちていた。ランテもまた、無念を感じていた。二人には、そこですれ違って欲しくなかった。レイサムバードもラフェンティアルンもただ相手を想っているだけなのに、どうしてこうなってしまうのだろう。随分久しぶりに思い出す大切な人の顔が、こんな切ない表情だなんて、なんて悲しいのだろう。
「女神様」
記憶の終わりを迎えたとき、ランテは声を上げていた。
「女神様は、意地っ張りだ」
こんなことを言うつもりではなかったのに、考えるより先に口が動いてしまう。もう言ってしまったので、ランテはそのまま続けることにした。
「もしかして女神様は、ああいう風にレイサムバードさんに言ってしまったから、絶対に自分の意見を曲げられないって思ってる? オレにはそう見えるかも」
ラフェンティアルンは答えない。
「えっと……女神様は精霊の器になってくれて、だから長い命が必要で、そのときの女神様の決断によって救われた人は多いと思う。オレは王都で精霊が暴れたときのことも知っているから……ああいう危険があったら、王国は千年も保たれていなかったかも。だから、ありがとう、女神様。ミゼを見ていたら分かるけど、長い命があると辛いことも多いんだと思う。それに耐えて皆を守り続けてくれたことには、皆きっと感謝する。だけど」
レイサムバードの言葉を耳で再生し直す。一つ頷いて、小瓶を大事に握り直した。
「レイサムバードさんの言うことも、多分正しいんだ。女神様にだって限界は来た。それまで女神様一人に頼っていたから、王国はベイデルハルク達に負けた。一人の人に頼り切るんじゃ、駄目なんだよ。もっと皆でやらないといけない。だから……だから今ここに必要なのは、完璧なレイサムバードさんじゃなくて、全然完璧じゃないオレの方だと思う……あっ」
身体が勝手に動いて、小瓶を握る手の力が緩んだ。視界の中に現れた小瓶を、もう片方の手がそっと撫ぜる。深い愛情を感じる手つきだった。
「レイサムバードさんも、これを遺したのは、女神様の意見に少し耳を傾けたからじゃないかな。女神様がレイサムバードさんの力が必要だって言ったから、少しだけ遺していったんじゃないかなって。あと……」
ランテの中にあるのはラフェンティアルンの記憶だけだから、レイサムバードの気持ちなんて想像でしか分からない。でももしランテが彼だったら、こう思うだろう。
「長く生きて大変な思いをする女神様の傍に、この形ででもいようって、思ったのかなって」
話しているうちに切なくなってきてしまった。熱いものが込み上げてきて、ランテは気づけばぽろぽろと涙を零していた。だって、もしレイサムバードとラフェンティアルンが何の能力も持たないただ人だったら、二人はあのように決裂することなんて絶対になかっただろう。力を持ち過ぎた二人のうち、一人はこれ以上大きな影響を与える前にと死を受け入れ、一人は皆を守るために果てしない時を生き続けた。大事な人を置いて逝く悲しみをランテは知っているし、大事な人たちを亡くしてなお生きなければならない悲しみはミゼが知っている。本当は共に生き、死にたかったはずだ。他人ごとには思えないから涙が止まらない。
——何故そなたが泣く。
「レイサムバードさんも、女神様も、人より頑張ったのに。なんで頑張った人ほど辛い目に遭わないといけないんだろう、って。なんで二人で幸せになれなかったんだろうって。今だってそうなんだ。頑張った人が大変な目にばかり……ミゼもそう。セトたちや、ハリアルさんだって。オレはそれが、すごく悔しい」
ありのままに吐露すると、ランテの内側で、初めて女神が笑ったような気がした。
——そなたは、愉快な男だ。
「愉快?」
——行動と選択に痛みが伴うのは当然のこと。その見返りに大きな喜びがある。無論、成功を得られればだが。
「その当然が、オレは嫌いなんだ」
——真理にまで抗おうとするあたり、真にレイと似ている。
ラフェンティアルンが急に饒舌になって——それのみならず、少々親しみやすくなった気までする——ランテはかなり戸惑った。
「ええと、女神様?」
——だが、そなたの言うところは正しかったやもしれぬ。私は、レイと道を違えてまで貫こうとしたことに、執着してしまっていた。長い時を経て、それのみを考えるようになってしまっていたことは否めぬ。
「なんか、急に話しやすくなった……」
つい言うと、女神は再び笑う。
——そなたの功だ。
「オレの?」
——そなたがレイと会わせてくれたから、人であった頃の心が帰って来たのだろう。ひどく懐かしい感覚だ。
「それは……良かった、と、思います」
まだ戸惑いを引き連れたまま答える。女神が晴れ晴れしいような気持ちをしているのは伝わってきて、この辺りでランテも嬉しくなってきた。
「うん、良かったです本当に。レイサムバードさんの顔が思い出せないままじゃ、寂しいし」
——これまで、私はそなたをレイにしようとしていた。そのために死なぬ程度には力を貸そうと思っていたが、それ以上の手助けはしてこなかった。今回のこともそうだが。
「ずっと気まぐれだなって思ってた」
——もう私も衰えた。できることは多くはないが、それでも呪においてはそなたよりは数段戦力になるだろう。そして剣においては、私が知る限りのレイの剣技を伝えることはできる。
「オレに力を貸してくれるの?」
——ここまで永らえたからには、最期にできることをしていこう。過度な干渉はしない。そもそもできぬ。ここは心象世界であるからこそ、これほどにそなたと話すことができるが、そなたの意識が外にあるときはこうはいかぬ。頼りにし過ぎぬように。
「はい!」
元気よく返事をしながら、ランテは笑っていた。自分の中の女神と分かり合うことに困難を感じていたところだった。最近では打ち克たねば、という方に考えが向いていたが、これほどに分かり合える日が来るとは。
——では、早く目覚めてやるとよい。共にいた癒し手がそなたを心配している。
それはとてもそうだろう。ランテは慌てた。だが、言っておきたいことは伝えておこうとも思う。これから先、これほど円滑に意思疎通が叶わないならなおさらだ。
「うん、ありがとう、女神様。オレたち、頑張ってみる」
——ああ。
はっきりとした返事があったことに、励まされる思いだった。
一面闇色に戻っていた世界に、徐々に光が入り込んでくる。ランテの意識が覚醒しようとしているのだろう。
——レイ。私もやっと、後世を信じられそうだ。
最後に響いた声が、ランテをますます明るくしてくれた。ランテはもう一度、頑張ろうと思った。
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