【Ⅰ】—2 星空

 屋台では、串で焼かれた魚を二尾買った。屋台横にしつらえられたベンチに座って、二人で魚を食む。


「ふふ、熱い。でもとても美味しいわ」


 一口食べ終えて、ミゼは柔らかに笑った。その通りで魚はとても美味しいのだが、ランテはミゼの笑顔が何よりも胸に染みる。


 それからというもの、ランテとミゼは街での時間を満喫した。まず行ったのは服屋で、そこでお互いに似合う服を見繕い合った。もちろん昔ミゼが着ていたような上等な服を買うことはできなかったのだが、それでも彼女はたいそう喜んでくれた。ミゼはレースをあしらった淡い紫のワンピースと、縁に小花の散った白いカーディガン。ランテは白いシャツに薄茶のセーター、そしてカーキのズボン。以降はその服を着たまま、広場にいた絵師に絵を描いてもらったり、カフェで一緒にケーキを食べたり、親子が連れていた犬を撫でさせてもらったりと、気の向くままに時を過ごした。


 そして今、推薦を受けた海岸に腰を落ち着けて、二人で空を眺めている。暮れていく空は時を追うごとに色味を変えていく。それを映す海もまた同様に。夜がもう、近い。


「とても楽しかった」


「うん。オレも、とても」


 途中で何度か離すことはあったが、手は今も繋がれている。ランテの体温が移ったのか、今はミゼの手もとても温かい。それが嬉しかった。


「私……」


 空を見ていたミゼの視線が海の方へと降りてくる。波が三度引いて返すまで、彼女は黙っていた。それからランテを見遣って、少し微笑む。


「欲張りになったわ」


「欲張り?」


「ええ。またこうしたいって、思ってしまっているの。十分……もう十分、満足しているのに」


 空いていたミゼの左の手が彼女の胸の中央を撫でるようにして持ち上げられて、止まった。瞳を閉じて、先を続ける。


「ランテ。私の誓いは、あなたを元に戻すこと。これだけだと曖昧だけれど、私はきっと、あなたを幸せの中に戻すことを願って誓ったと思うの」


 握ったミゼの手に、少しだけ力が入ったのが伝わってくる。


「あなたはとてもランテだわ。私が今もここにいるのは、まだ誓いが果たせるということ。私自身があなたをランテだときちんと認識している証。私が創ってしまったのなら……いいえ。私が創ってしまったのだから、私から見てそう思うのは当たり前のことかもしれないけれど……」


「ミゼ、そのことなんだけど」


 話を途中で断ってしまっていいのか悩んだが、ミゼの表情に痛みが滲み始めたのに耐えかねて、ランテはつい口を挟んでしまった。


「オレの身体って、多分ミゼだけが創ったんじゃないと思うんだ。だって、オレにはミゼが知らないはずの記憶だってちゃんとあるから。父さん母さんと一緒に過ごしたときのこととか、マイルとの訓練のこととか、多分物心がついてから? のことは、二回目に目覚めた直後のこと以外は抜けずに覚えてると思う。だから多分、ミゼだけが創ったんじゃないよ。きっとオレ自身だって、ミゼの力になりたいって思ったはずだし、始まりの女神もオレの中にいるなら、無関係じゃないと思うし」


 ミゼに向き直って言うと、ミゼは少しの間おそらく返答に迷って戸惑っていたが、やがて頷く。


「……私が思う以上にランテらしい、というのは感じていたの。七百年の間、生きれば生きるほど後ろ向きになってしまって。失礼なことを言うけれど、私はあなたに恨まれているだろうと思っていた。むしろそうして欲しかったのかもしれないわ。あなたに罵ってもらえたら、ほんの少しでも償えるような気がした。でも、あなたはそうではなかったわ」


「うん。だって、全然恨んでない」


 思うままに言うと、ミゼは眩しそうに目を細めて微笑んだ。


「やっぱり、ランテね。そう思うことがあなたに悪いんじゃないかとか、私もそう考えるのは止めにしようと思ったの。ランテのおかげよ」


「オレは何もしてないよ」


「たくさんしてくれているわ」


 答える前に間を取ることが多いミゼには珍しい即答だった。本当にそう思ってくれているのだとよく伝わってきて、嬉しい。少しでもミゼの力になりたかった。


「それでね、ランテ」


 ミゼは海に視線を戻した。今度は波打ち際ではなく、地平線を見ているようだった。そこからゆっくりと、闇色が空に滲み始めている。


「人が一番幸せなときって、『もっとこうしたい』って思えるときだと私は思うの。我儘でいられるときがきっと一番幸せなんだわ。辛いときはそんなことを考えられる心の余裕がないでしょう? だから、私はとても幸せよ、ランテ」


「ミゼ」


「以前なら、私が幸せなんて感じちゃいけないって思って、素直にそれを受け入れられなかったと思う。あなたがたくさん私に素敵な言葉をくれたからだわ。ありがとう」


 遠くを見つめるミゼの横顔は、言葉の通り幸せそうではあった。しかしランテは、それを手放しには喜べない。ミゼの考えはやはり、遠慮が過ぎると思うのだ。


「ミゼ、オレはもっと幸せになれると思う。我儘が全部叶って、これ以上の我儘なんて言えないってときが、一番幸せじゃないかなって思うんだ」


「理想を言うとそうかもしれない。でも全てが満ち足りてしまったら、後は失うだけになってしまう。私はそれに怖さを感じてしまいそうなの」


 ランテには、ミゼが何を言おうとしているのか分からない。困惑した目を向けていると、ミゼの瞳がランテを映した。その瞳は、息を吞むくらいに強くて美しい。


「ランテ、私は誓う者。あなたが幸せになったら消える身だわ。宿している精霊のことはどうするか考えなければいけないけれど……私は、そうして誓いが果たせることを最も幸せだと思う。あなたにはそれを分かっていて欲しいの」


 言葉を失っているランテの前で、ミゼは洗練された所作で髪を耳にかけて、また微笑み直す。ぞっとするほど綺麗だ。まるで完成された絵画のよう。


「あなたは前に言ってくれたでしょう。願いは小さくてもいいって。手の届くものからでいいって。それで私は何ができると一番幸せなのかを考えてみたの。あなたの幸せを作ることだった。ランテ、私は」


 先程まで夕方と呼べていたはずの空は、もうすっかり夜に変わっていた。暗がりの中で、ミゼの姿は月のように浮かび上がって見える。この上ない美しさを纏ったまま、彼女は一音一音を確かめるように丁寧に言った。


「あなたが好き。あなたが一番、私の大切な人」


 嬉しかった。本当に、とても、嬉しかった。でも、同時に切なさが込み上げてくるのが悲しかった。まだ言葉は出てこない。なんと言っていいのか分からない。


「やっと言えたわ。本当はずっと、言いたかった」


 ミゼがとても幸せそうに笑うことが、ランテの胸を一層痛めた。七百年にもわたって苦しい道を歩いて来た彼女が、たったひとかけらの幸せを拾って、それで満足してしまえる。どうしてだろう。悔しくて悔しくて堪らない。


「ミゼ」


 呼んでから手を引いた。細い身体を、体温のなくなってしまったその身体を、しっかりと抱き留める。驚いたらしいミゼは、一呼吸の後、ランテの背に腕を回してくれた。ランテがさらに何かを言う前に、彼女がまた先を続ける。


「私、誓いを果たしたら、あなたが消えてしまうかもしれないことを恐れていた。でも私だけがあなたを創ったのではないのなら、きっと大丈夫よね。私は——」


 もう聞いていられない。ランテは無理矢理にミゼの声をさえぎった。


「ミゼが消えるならオレも一緒に消えたいよ」


「ランテ」


「やっぱり、世界を変えよう、ミゼ」


 ランテは聡くはない。それは自分でも、もう十分に知っている。だからランテは世界を変える必要性になんて今まで気づいていなかったし、おそらくこれから先も自分一人では考えつかなかったことだろう。先ほど三人で話し合いをしていたときは、ベイデルハルクを倒すために必要ならばというくらいの気持ちだったが、今のランテは違った。必ず、世界を変えなくてはいけないと思うのだ。ミゼが消えずに済む世界を、もっと大きな幸せに包まれて笑える世界を、創りたい。もちろんそれで誰かを犠牲にしたりだとか、苦しませたりだとか、そういうことをしてはいけないのは前提として。


 立場を得て、ほんの少しだけ遠くを見渡せるようになった気はしている。けれどもやはり、目の前にいる誰かを喜ばせるためにというのが、一番のエネルギーになる。勝手かもしれない。だけど、正直な気持ちだった。自分に正直でなければ、強くはいられない。


「変えられるかしら……」


「オレ一人じゃ難しいだろうから、皆で。まだどうしていいか全然分からないから、色んな人と話をしながら考えたい。ミゼにも協力して欲しい」


 ベイデルハルクを倒すことが最終目標なのではなくて、ミゼを始め皆が落ち着いて笑って暮らせる世界を創ること。最終目標はここにあったのだ。


 世界をまっさらにして創り直すのではなくて、今の形を保ちながら、不安要素だけを取り除く。そんな夢のようなことができるだろうか。できると信じたい。ベイデルハルクはこの世界を夢と呼んだ。夢だというのなら、それくらいできたってよいはずだ。


「これまで償いのことしか考えて来なかったけれど、そうね。世界を変えることは、民たちのためにだって必要かもしれない。私も考える。考えるわ、ランテ」


 ミゼはやはり変わらず、自分のためにではなくて、いつでも民やランテなどの自分ではない誰かのために身を砕こうとする。それを尊敬はするけれど、ほんの少し悲しくも思う。ミゼがもう頑張らなくてよい世界にしたいと、その答えを聞きながら思った。


「……うん」


 とりあえずは頷いておく。後はちゃんと方法を見つけられてから話をしよう。何も言えない代わりに、ランテはミゼを抱き締める腕の力をちょっと強めた。この華奢な身体は造りものかもしれないけれど、抱き締めればちゃんとここにあると実感できる。


 ちらつく光に気づいて空を見上げたら、星が瞬いていた。ミゼだけではない。あの星も、空も、海も、船も、街も、全部ここに在る。その全てを肯定できる世界を築く。新たに見つけた目標は、方法も道筋も全く見えないままではあったが、それこそ大きな闇の中で懸命に輝く星のように、ランテの内側で確かに輝いていた。

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