【Ⅴ】—4 必然

 小瓶を握り締めたまま、ランテはミゼと広場まで——とはいえ、広場の面影はほとんどないほど破壊されていたが——やって来た。


 先程始まりの王の声を聞いてからというもの、ランテの中で始まりの女神が落ち着かない様子でいるのが伝わって来ていた。力が不安定に揺らめいているのだ。彼の声なり力なりに触発されたのだろうか。伝承が正しければ、およそ千七百年ぶりの再会になる。そうなるのも無理はない。できることなら二人を会わせかったが、届いたのは一方的に語り掛ける声だけだったから、叶わないことであるのも分かっていた。


「これがあれば、王都の時は動かせるかな」


 呪のことについては知識に乏しいランテは、ミゼに問うしかない。ミゼは曖昧に頷きを寄越した。


「だとは思うわ。けれど、ランテにも分かる? あなたの中で今、始まりの女神が活性化されたような状態になっているわ。きっと始まりの王の声の影響ね。今なら女神は応えてくれるかもしれない。でも」


 ミゼは案ずる瞳で、王都をくるりと見渡した。


「時を戻せば混乱が起こるのは必至だわ。怪我人の手当ても急がないといけなくなる。先に皆に話をしてからの方がいいと思うの。人手がどうしてもいる。だけどその場合、女神はまた眠ってしまうような状態になるでしょうから、始まりの王の力を頼ることになる」


「一回分減っちゃう」


「ええ」


 ミゼの言う通り、今なら女神は力を貸してくれるとランテにも思えた。この機を逃すとまた無視し続けられる予感もあった。今、この手の中にあるのは大事な切り札だ。なるべく温存したい。


 もう一度小瓶に目を落とす。一回につきどれくらいの量を使えばよいか分からないが、ランテの手に収まってしまうこの瓶の大きさだ、それほどの量はないに違いない。


「やっぱりできるだけ置いておきたいのと、これから先のことも考えたら、できるだけ女神と協力しておきたいって思う。それに多分ユウラたちはオレがここにいるのを知っているから、【閃光】で合図したら気づいてくれると思うんだ。すぐ助けに来てくれるって信じたい。それから、紫の軍の皆や味方の騎士たちもいるから」


 ランテのこの決断で、もしかしたら犠牲になってしまう人がいるかもしれない。自分の判断が誰かの生死を決するかもしれないという状況は、当然ランテに強い恐怖を感じさせた。だからといって、長く迷う時間もない。ランテの中で女神の存在感が少しずつ薄れていくのを感じる。始まりの王の言葉を聞いて、ランテは思ったのだ。皆を信じるというこれまでの軸を、彼がそうしたように貫いてみたい。


「……分かったわ。私も、できるだけのことをする」


 緊張した面持ちで、ミゼが首を縦に振る。ランテも緊張しているのは同じだった。手を差し出すと彼女も手を伸べてくれる。それでも硬さを取り去れない笑みを交わし合って、再び頷き合う。


「やってみる」


「ええ」


 まず【閃光】をと思ったとき、ミゼが光を灯した手を掲げた。ランテのこの後の負担を気遣ってくれたのかもしれない。生まれた光は闇を裂いて走る。きっと白都にいる皆に意を伝えてくれるだろう。見届けたランテはまぶたを落とし、水の中へ潜るように意識を己の内側に沈み込ませた。深く深く、女神がいるところまで。これまで何度も呼び掛けて思ったのだが、女神はおそらくランテの言葉を解さない。言葉で彼女を動かすことはできないだろうから、ランテは自分の感情をそのまま彼女にぶつけてみることにした。守りたい、助けたい、力になりたい、立ち向かいたい、戦いたい、勝ちたい——そういう思いを、体当たりするかのごとく直に彼女に衝突させるのだ。


 沈み込んだ勢いそのままに、女神の居場所に意識をぶつける。刹那、水面に何かを投げ入れたように、女神の力が大きく波立った。


「あっ」


 これでは、溢れてしまう。激しく動揺したランテを、そのとき、ミゼの柔らかな闇が包み込んだ。


「大丈夫」


 繋いだ手が強く握られる。ほのかな闇の向こうで、ミゼが微笑んでいた。穏やかな力と優しいまなざしに救われる。一つ深呼吸をして、ミゼに手伝ってもらいながら、ランテは必死に女神の力を整えた。


 一度掛けられた呪を解くだけだ。強い力はいらない。ただ、力を町全体に広げなければいけないから、気をつけるのはそこだ。ランテ一人では王都全てを覆い尽くせるほど力を行き渡らせることはできないが、途中まで道さえ作れば後は女神の力が届くだろう。いつも身体の中でしている制御を、外側でするだけだ。ミゼが力を貸してくれる。動揺はいらない。いるのは集中力だ。落ち着いて、ランテにやれることを一つ一つやるのだ。


 女神の力を外から押さえつけるようにしながら、身体の外に三筋の道を作る。ミゼが闇で先に手本を作ってくれるから、ランテはそこに力を添わせるだけで良かった。自分一人ではできなかっただろう。息が切れてきた頃になって、ようやく思っていた形通りの道を組み上げることができた。


「ランテ、もう少し頑張れる?」


 こくりと頷く。自分のなすべきことは分かっていた。これからまだ筒状の道の中を通る女神の力に、ランテ自身の時呪を混ぜ込まないといけない。額から滲んだ汗を手の甲で拭った。ここが、肝心だ。


 呪を解くときの感覚を頭の中で再現する。ずっと通わせていた呪力を自分の方に引き戻すあの感じ。今回は時呪を掛けたときから時間が経ち過ぎているから、まず呪が掛かっているところにランテの呪力を行き渡らせて、それから再び自分の方へ引き戻す……でいいのだろう。だからとにかく時呪を使うときの呪力を女神の力に載せるのだ。少しずつでいい、丁寧に、丁寧に。


「いいわ、ランテ。上手よ」


 ミゼの声がする。目をつむっているから表情は見えないが、嬉しそうな声であることは分かって、胸が温かくなると同時に勇気が出た。


 時呪を使うときの感覚は、光呪を使うときとは随分異なっている。光呪は基本的に、内から取り出した力をそのまま外に出せばそれで済むのだが、時呪はもっと内で丁寧に力を練ってからでなければならない。難度の差がこの違いを生み出しているのだろうか。


 ミゼが女神の力を押し留めてくれているので、ランテは落ち着いて祈りを呪力に織り込むことができた。王都の時を動かして、また皆に会いたい。本心から強く思っているからか、意外なほどすんなりと力が編み上がる。


「ミゼ、やれる!」


「ええ」


 顔を輝かせたランテを、ミゼは祈るように見上げた。


「ランテ、皆を、お願い」


 ミゼの瞳には、かつて国を守れなかったことへの無念だろうか、切なげな艶が認められた。しかしその奥に期待のような光も見受けられて、ランテは繋いだ手をまた握る。今度はもうこの手を離すまい。二人で、皆で、守りたいものを守っていくと誓うように、強く。


 三方向に曙色の光が迸る。辺り一帯が夜明けの色一色に染め上げられる。重い疲労感にのしかかられて折れてしまいそうな足を、ランテは気力で奮い立たせていた。王都の蘇生を立ったまま見つめていたい。


 目覚めを促す曙光が王都の全てを飲み込み、やがて消え入った。そこまで待ったのに、誰も、何も、動かない。


 失敗、したのか。何度瞬いても変わらない現実に、今度こそ崩れ落ちてしまいそうになる。いや。ランテは首を振った。諦めてはいけない。


「ミゼ、もう一回——」


 隣で、ミゼはぼうっと前を見つめている。その美しい双眸が、潤んだことで輝きを増していることに気づき、ランテは息を飲み込んだ。彼女の視線を追いかける。城の尖塔の一つ、その頂点で、紫色が、ミゼへの忠を示すその色が、はためいている。


 そう、はためいているのだ。


 紫の軍の仕業ではなかろう。少々歪な形に見えるあの旗のような布は、きっと誰かの衣服を切り裂いて縫い合わせ、大慌てで作ったものだ。城の騎士なり兵なりの中で、紫の軍に所属していなかった誰かが、ミゼへの忠を表すため、ミゼの力になるために、ああして意志を掲げている。はためく、生きた意志を。


「ミゼ!」


 旗が動いている、時が進んでいる。時呪の解呪は成功したのだ。溢れた嬉しさをそのまま声に変換して発したランテの前で、ミゼもまた嬉しそうに何度も頷いた。しかし彼女はすぐにはっとした顔になると、ランテの手を自ら離して急いで瓦礫の山から下り始める。


「早く、一人でも多く救わなきゃ——あっ」


 時を取り戻した瓦礫は、とても不安定だった。足を踏み外したミゼの、宙に舞った身体を引き留めんとして、ランテもまた同じ轍を踏んでしまう。どうかミゼだけでも地面に叩きつけられずに済んで欲しい。浮遊感の中で一生懸命にした祈りは、彼に届いた。


「姫様、ご無事で!」


 翻る紫紺のマント。曙色の騎士服。その人影が長らく憧れだった兄代わりの彼だということは、顔を見ずともそのしゃんとした立ち姿で分かった。ランテの幼馴染の先輩騎士、マイル。彼がミゼをしっかりと受け止めてくれる。俊足を飛ばして、真っ先に駆けつけてくれたのだろう。


「マイ——うわっ」


 一瞬自分の置かれている状況を忘れていたランテに、現実は容赦なく襲い掛かって来た。強かに瓦礫に身体を打ちつける。瓦礫はところどころ尖っていてかなり痛かったが、何かとても胸が一杯で、その充足感は強い反応を示していた痛覚を一呼吸のうちに置き去りにする。


「悪いランテ。オレの腕は二つしかないからな。当然姫様優先だ」


「ランテ、大丈夫? ごめんなさい、私が焦ってしまったから。マイル、ありがとうございます」


 元気一杯に立ち上がりながら、二者二様の謝罪に「大丈夫!」と答える。多少切ってしまったところもあるが、全て軽症で実際大丈夫だった。


「マイル、おかえり。良かった!」


 口周りの筋が伸び切っているのではないだろうか。それくらい笑っているのが自分でもよく分かる。マイルはランテの言葉の意味を飲み込めていないようだったが、今はそれでも良かった。


 周囲を取り巻く空気に、生の気配が蘇るのを感じる。ここでも、そこでも、あそこでも。王都は生きて、ランテたちを待ってくれていた。胸から溢れ出した喜びが目元にまで上って来る。そしてランテは、生まれて初めて嬉し泣きをした。


 七百数年前、滅ぶはずだった王都が今ここに蘇る。奇跡のような出来事だけれど、これを奇跡とは呼びたくなかった。多くの祈りと願いとが導いた、必然。そう信じたかったから。

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