【Ⅴ】—3 王

 階段を上るにつれて、わずかずつミゼの足取りが重くなっていくことにランテは気がついていた。ランテの方はというと、それほど恐れを感じてはいない。ランテの記憶が正しければ、一度己のむくろは目にしているはずで、その記憶の真偽を確かめに行くだけだという気持ちが強いのだ。


 街や城を歩いていて分かったことだが、ベイデルハルクの私兵も、そして彼についた城の兵も、ほとんどが既に制圧されている。紫の軍は精鋭揃いとはいえ、数が少なかった。この戦果は紫の軍によるものだけではないだろう。城の兵の中にも王や国への忠誠を貫いて剣を取った者がたくさんいたようだ。


 そしてランテはこうも感じていた。ベイデルハルクにとって、己のために戦おうとしてくれた者たちは、ただ時間稼ぎの駒に過ぎなかったのだと。それについては今回もまた同じだったのではなかろうか。中央に残した兵たちは皆捨てるつもりだったに違いない。幻の王都にまで連れて行った者たちとて、ベイデルハルクには何の仲間意識もないだろう。能力に利用価値を見出しているだけだ。


 誰も信じず、誰も想わず、誰も寄せつけない。そんな生き方、何が面白いというのだろう。そのような状態で何百年も生きて、何が楽しいのだろう。寂しいだけではないか。ランテはそう思うのだが、ベイデルハルクには欠片も存在しない考え方であることは容易に想像できた。


「ミゼ、ちょっと聞いてもいい?」


「ええ」


「ミゼの七百年間を、教えて欲しいんだ。どうやって生きてきたのか。その、辛いことだったらいいんだけど、ミゼのことをたくさん知っておきたくて」


 こんな質問をしたのは、ミゼはどうだったのだろうと今更ながら気になったからだ。苦しかっただろうというのは分かるけれど、それはランテの勝手な想像でしかない。ミゼが見たもの、聞いたもの、そして感じたことを、彼女の言葉で聞きたいと思った。


「最初の百年は大陸の東側を安定させることに必死で、毎日奔走していたわ。西側の様子を確かめるのが怖かったのもあると思う。百年後に聖戦が始まってからは、双方の兵に被害が出ないよう、極力努めてきたのと——陽が沈んでその日の戦が終わってからは、大陸の東西問わず、色々な町を歩いて回った」


 瞳の中、強く張った平静の膜の奥にちらついていた悲哀が、ふと和んだ。口角も少し上がる。


「最初に西大陸の村を歩いたときは、驚いたの。小さな子がお母さんと手を繋いで、大きな声で歌いながら歩いていた。それだけ見るなら、王国で見た親子と何も変わらなくて、ほんの少しだけ心が軽くなったのを覚えているわ」


 ミゼの表情は、子を見守る母のそれと何ら変わらないものに見えた。にじみ出ているのは、きっと慈愛だ。


「日中は激戦地、日没後は町や村、大体はこうして暮らしてきた。人しての感覚をなるべく忘れたくなくて、二百年を超えた頃からは、夜も眠るように——眠る気持ちを味わうようにしていたの。自分に幻惑の呪をかけるだけの、紛いものの眠りだったけれど、人にとって無になれる時間がいかに尊いかはよく分かったわ。眠るようになって、少し、心も落ち着いたと思うの」


 柔らかに笑ったミゼは、言葉の通り、とても穏やかな気持ちでいるように見えた。同じような年月を生きてきたミゼとベイデルハルクだが、人であろうとしたミゼと神になろうとしたベイデルハルクとで、時間の費やし方は全く違ったのだと思い知る。ミゼは人に寄り添ったがために命を尊び、だから苦しんだのだろうし、大きく動けなくなってしまった面があるかもしれないが、人の営みを見守る瞬間、少しでも安らかな気持ちを味わえていたら良かったと思う。そしてそういう時間が、ミゼをミゼのまま守ってくれたのだとも感じた。


「変なこと言っていい?」


「ええ」


「人間って、いいなって思った」


 ミゼは二度瞬いた後に、軽く笑い声をあげた。こんな風に笑うのを見たのは、再会してから始めてかもしれない。


「突然だから、おかしくなっちゃったわ」


 握っていた華奢な手に、少し力が入ったのが伝わってくる。


「だけど、私もそう思う。私は人が好きで、だから世界が好き。長く生きて、たくさんの人を見てきて、私、皆を守りたいって思ってしまったの。あなたが言うように、一人で出来ることはそんなに多くないから、皆で負担を分け合ってというのはとてもいいことだと思うわ。私も全部を為すことはできないと、もう分かっているの。でもね」


 空いている方の手を祈るように身体の中央に据えて、ミゼは微笑んだ。


「私、それでもなるべく多くのことをしたい。一人でも多くの人を救いたいし、守りたいし、この世界だって壊させたくない。ランテ、私、前と同じようなことを言っているかもしれないけれど、心の在り方は全然違うの。とても前向きになったわ」


「うん、分かるよ、ミゼ」


 応えるように、ランテもミゼの手を握る手の力を強めた。


「だって、ミゼ。しなくてはならない、じゃなくて、したいになってる」


 ランテに言われたことで初めて、ミゼはその事実に気がついたようだった。零れそうなほどに見開かれていた宵色の瞳が、次第に穏やかに細められていく。


「あなたのお陰だわ」


 一音一音を慈しむように彼女は言った。本心からの言葉だと分かるから、飛び上がってしまいそうなほどに嬉しい。


「あなたが支えてくれているから、前を向けるの」


「オレも、ミゼに笑って欲しいから何でも頑張ろうって思えているし、ミゼのお陰」


「また一緒ね」


 しっかりと手を握り合ったまま、階段を上っていく。この先に何があっても、ランテ自身も、ミゼも、もう大丈夫だと思った。






 玉座の間を通り抜ける。血溜まりだけを残して、レイグの姿は消えていた。記憶をさかのぼっても、彼の姿はランテが目覚めて以降一度も目にしなかった気がした。もし誓わせたなら身体はどこかに残っているはずだが、少なくともここでは行われていないようだ。ただあの傷でレイグ自身が動けたとは思えない。ゆえに、ここに彼がいないことは不吉な予感を喚起するには違いなかった。


 事切れた王の姿を再び見ても、ミゼは歩みを止めなかった。ランテと一緒に、その奥の部屋——女神の間まで足を踏み入れる。


 やはり、というのが最初の感想だった。手足を投げ出して、ランテはそこで死んでいた。切り裂かれた喉から新たな血が流れ出なくなって、もう随分経過したのだろう。血は黒ずみ始めている。


 息と声の中間くらいの音を漏らして、ミゼは流石に立ち止まった。膝から力が抜けたのだろうという座り方でぺたりと足を床につけて、じっと亡骸なきがらを見つめている。その後閉じられたまぶたは震えていた。


 ランテも傍らに膝をついてミゼを支えるようにしていたのだが、ふと何かに導かれるようにして顔を上げた。それほど大きくはない部屋の中央にしつらえられた女神像が、ランテを見つめている。見事な巻き髪が豊かに広がっており、大きな瞳は涼しさと温かさを同時に印象づけ、聡明さと寛大さを感じさせる。服装は布一枚を独特の方法で縫い合わせたような質素なものだったが、その簡素さがかえって女神本人の美しさを際立てていた。


 これが。ランテは息を呑んでいた。これが始まりの女神の姿なのか。最初に人の身を捨て、全ての精霊を身に宿し、王との約束を千年以上に渡って守り続け、そして今なお心を残してランテに宿り世界を守ろうとしている存在——


 しばらく女神像に視線と心を奪われていたランテだったが、ここで唐突に「違う」と思った。先ほど何かに呼ばれたような気がしたのだが、それはこの女神像ではないとランテはなぜか確信をもって断じた。いや、正確には女神像であることは間違いないのだが、全体ではなくもっと部分的な箇所が気にかかるのだ。立ち上がり、像にゆっくりと近づいていく。胸の前で祈るように組まれた手の、向こう側。身体の中央より少し左にれたその部分は、生きている人間ならば心臓を埋めているところだ。


「あっ」


 そこに手を伸ばしたランテは、女神像の手にまず触れてしまった、のだが。経年劣化ゆえか像は非常にもろくなっていて、手首から先がぽろりと落ちてしまったのだ。


 しかし驚きの後に疑問が湧いて出た。経年劣化? 時の呪で全ての時が止まっているはずの王都で、そんなこと、起こるわけがないのに。


 げた腕は地に堕すと、さらに粉砕されて原形も分からなくなってしまった。違和感があるとはいえ、どう見ても大事な像を破壊してしまったという事実は、流石にランテから血の気を失わせる。しかしそれでもなお左胸が気になって仕方がない。面と手を同時に上げる。強い好奇心は躊躇ためらいを一片も残さず拭い去ってしまった。あまりにも無遠慮に、ランテは女神像の胸元に手を突っ込んだ。


 像は静かに崩れながら、ランテの手を易々と受け入れていく。何の障害もなく進んでいた指先が、そのとき、何か固いものに触れた。像の中に何か異物がある。掘りおこすようにランテはそれを取り出した。


「ランテ?」


 呆然としていたミゼも、ランテの奇行で我に返ったか、表情を見なくても分かるほどの戸惑いをまとわせた声を上げる。彼女を振り返ってから、ランテは大事に指で包み込んでいたものを外気にさらした。


 小瓶だった。大切な女神像の胸元に埋められていたのが信じられないほどに質素なものだ。自分を呼んでいたのはこれだろうと感じはするものの、どうしてこんなものがとの困惑ばかりがランテを満たしている。とりあえず、中を確認してみようか。思い立って蓋に指を触れさせたとき、白い幕が引かれるようにして、周囲の景色が消えた。


「えっ」


 立ち上がったミゼが、ランテの隣に並ぶ。警戒が伝わってくることから察するに、この現象はランテの目だけに起こっているものでもないようだ。身体を一周廻らせて、周囲一帯の景色が全て白く染まってしまったことを確認した。一体何が起こっているのだろう。


 ちょうどランテの正面の空気が微かに歪んでいるような気がした。目を凝らしてみていると、それがほんのりと人型をしているように見えてきて、はたと思い至る。


 透明な呪力——?


「よく見つけてくれたね」


 耳から肉の内にそっと沁み通ってくるような、不思議な優しさを持った声が届いた。間違いなく、このぼんやりとした人型が発生源だ。


「私はレイサムバード。遠い過去から君たちへ語り掛けている」


 驚愕よりも納得の方が大きかった。この朧気おぼろげな人影はレイサムバードの透き通った呪力によってかたどられているのだろう。透明ゆえに顔かたちは分かるべくもないが、声色と呪力から感じる柔らかさで、彼がどのような顔でどのような表情を作っているかは想像できるような気がした。


「残念ながら、会話はできないんだ。私の呪の腕では声を未来に届けることで精一杯でね。君の意志に関係なく、一方的に言葉を紡ぐ私を許しておくれ。そしてその小瓶が誰の手に渡るかもることはできなかった。悪意ある者に渡っていないことを祈るばかりだよ。けれどきっと、心ある者が手に取ってくれたと信じてもいるんだ。世界も運命も、人の願いにそれほど冷淡ではないはずだから」


 始まりの王という、始まりの女神と並んで最も偉大だとされる相手に対して、大変失礼なことを考えているかもしれない。そういう遠慮は抱いたものの、ランテは彼と自分の思想が近いところにあると思うことをやめられなかった。この人もまた、信じる人なのだ。そうやって生きてきた人なのだ。


「その瓶の中にあるのは、私の灰だ。君の生きる世に私の話がどこまで伝わっているか分からないけれど、私は希少な時呪使いの一人でね。その灰を用いれば、君も時呪を扱うことができると思う。量が限られているから、慎重に使って欲しい。そして時呪は時を操る非常に強い呪だけれど、何でもできる呪というわけではないんだ。すぐに思いつくことで言うと、そうだね。たとえば失われた命を蘇らせることはできないし、身体に流れた時を大幅に巻き戻して若返る——なんてこともできない。きっと世界は、私利のためにこの力を用いることを許してはいないのだろう。それは私も同意見だし、君にもそうあって欲しいと願っているよ」


 透き通った人影が、ランテの方に歩み寄って来た。伸びてきた手と思しきシルエットが、小瓶を、それを握るランテの手ごと撫ぜる。


「時の流れは、前に進もうとする人の意志の表れ。その力を君に託そう。何を選ぶかは未来を生きる君たち次第だ。君の想いの成就のために、私の力を役立てて欲しい」


 触れられていたところに微かに感じられていた温もりが、その瞬間、宙に溶けた。目前にあったはずの人影は、もう見当たらない。


「どうか君のく道が、幸多きものでありますように」


 握った小瓶の中で、納められた灰が少し動いた。それは自分が小瓶を強く握り直したためだと、ランテは一息ついてから理解した。

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