【Ⅳ】—2 名前

 時の呪の感覚を掴んでおこうと、再び成功体験を得るためテイトが破った紙に向き合ったそのときだった。扉が三度、軽くノックされる。


「あれ?」


 ランテは腰を浮かせたが、テイトがそう言って首を傾げたので、不安定な姿勢で留まることになった。


「どうかした?」


「え……ううん、開けてみよう」


 結局聞いてもテイトがそうした理由はよく分からないままだったが、扉を開けることに問題はなさそうだったので、ランテは一時停止していた動作を再開した。扉に歩み寄ってノブを下ろし、開いて、そうして「あっ」と声を漏らすことになる。


「ユウラ?」


 たたずんでいたユウラは、多少不機嫌そうだった。ランテは最初、その不機嫌そうだという視覚情報に疑問を持って、再確認と再々確認をした。その後疑問が期待に変わって、もう一度、今度は叫ぶように名前を呼び直す。


「ユウラ!」


「……もう夜よ。休んでる兵もいるんだから、ほどほどにしなさい」


 やや遠慮したような声でそう言って、ユウラは部屋の中に進み入ると扉を閉めた。言った通り、もう休んでいる兵を気遣ったらしい。立ち上がってランテたちの方へ進んで来るテイトには、歓喜と安堵が混ざり合った微笑が浮かんでいる。ランテはというと、嬉し過ぎて言葉も出てこないほどの状態に陥っていた。口角が思い切り上がっているのは感じ取れ、笑っていることくらいは自分でも理解できたが。


「ユウラ……良かった、良かった……」


 やっとのことでそう言う。それ以上は、やはりどう言っていいか分からない。嬉しくて嬉しくて、胸に満ちた喜びで身体が浮き上がってしまいそうなほどだ。一方ユウラは、申し訳なさそうに目を伏せる。


「大変なときに、心配かけたわ。もう大丈夫よ。悪かったわね」


「ううん。だってユウラは悪くないし。あ、そうだ、セトには会いに行った? セト、ユウラのこととても気にしてて」


「セトはもう知ってるわ。というか、セトのことで来たのよ」


 ユウラはまた眉を寄せる。不機嫌に見えたのは見間違いではなかったらしく、ユウラはそのまま険しい表情でランテたちに事情を話し始めた。


「さっき薬師に診てもらったんだけど、身体が相当悪いみたいなの。立っていられるのが不思議なくらいらしくて……良くなるまで絶対安静にって話なんだけど、あの性分でこの状況だと、休もうとしないのは目に見えてるでしょ? 今は寝込んでいるけど、その間にセトが休める状況を作りたいのよ。今日の内に話をまとめて、明日の早いうちに支部にダーフを帰してしまうのがいいと思うんだけど、知恵を貸して欲しいのよね。セトが方針を決めるとどうせ一番自分に負担が来るようにするから、今は任せられないわ。まず身体を治させないと。だからと言ってまずい形にはできないから、あたし一人で決めてしまうのもね」


「寝込んでるって」


「寝込めている、が正しいんじゃないかな」


 ランテが心配して言いかけた言葉は、テイトの声に遮られた。ランテとユウラに同時に見つめられて、テイトは穏やかに笑む。


「ユウラが戻ってきて、少しは息がつけたんだと思うよ。だからそれはむしろいい方の変化じゃないかな。僕もユウラに賛成。一緒に考えようか。でも、その前に」


 仕切り直して、テイトは優しくユウラを見つめた。視線と同じように温かい声で言う。


「おかえり、ユウラ」


 素敵な言葉だと思った。だからランテも彼に追従する。嬉しさが溢れてくるような状態はまだ続いている。笑みが止まらない。


「おかえり。オレ、ほんとに嬉しい」


 視線をうろつかせてから「何よ、改まって」と答えたユウラは、多少照れたようだった。しかしやがてそっと口元を緩めると——ユウラはたまにしかこのような凪いだ笑みは見せないから、その都度はっとしてしまう——静かに付け加える。


「ただいま。……ありがとう」


 一つ、心に巣食っていた痛みが溶けるように消えていくのをランテは感じた。入れ替わるように入り込んで来た温もりに、また笑みが零れる。状況は依然厳しいままであるのは分かっていたが、ユウラが戻ってきたことで好転するものは、北にとってとても大きい気がした。何よりランテ自身も嬉しくて堪らない。何かじっとしていられないような気持ちになる。今すぐ王都に向かえば、時の呪の解除だってできるような気がしてくるのだ。


「もう遅いけど、時間もらっていいかしら? いいなら、そこにデリヤも来てくれてるのよね。アージェとリイザにも声を掛けたわ。後で合流することになってる」


「大丈夫。でも、少し広いところに行こうか。テーブルでも囲みながらの方がいいと思うし、蔵書室でいいかな。この時間は本を読みに来る人もそういないだろうしね。遅れてくる二人には、メモでも置いていたら大丈夫だと思う」


「ええ、そうしましょう」


 ユウラとテイトの間でまとまる話を、ランテは静かに聞いていた。だからだろうか、扉の向こうに近寄る気配に一番に気づいたのはランテだった。


「あ」


 すぐにミゼだと悟る。間違っていなかったようで、控えめになされたノックは明らかにミゼのものだった。


「夜分にごめんなさい。ランテ、少しいいかしら」


 扉の向こうからの呼びかけに応じて扉を開く。現れたミゼは、中にいたテイトをまず見て、次にユウラに視線を移した。一目で事情を察したらしいミゼは、緩やかに笑みを広げる。どこか清らかさを感じる笑みだ。


「良かった……本当に、心からそう思います。副長さんも喜んでいるでしょうね。何もできなくてごめんなさい」


「敬語はいいわよね。あなた、そうじゃない方が嬉しそうだから。ありがとう。それと、謝らないで欲しいわ。そういうところ、あなたってセトと似てるわよ。必要のない責まで背負わないで欲しいわね。……ルノア」


 初めて本人の前で名を呼んで、ユウラはとても彼女らしい笑い方を——すなわち、少し勝気さを感じさせるような強い笑みを——した。


「さっきセトから大体の顛末てんまつは聞いたけれど、あたしはあなたが間違っていたとは思わないわ。色々言う人はいるでしょうけど、同じ立場に立ってあなた以上のこと……どころか、あなたと同じことができる人間だってほとんどいないわよ。もっと堂々としてなさ——堂々としていて欲しいわ。あたしはルノアを、立派だと思ってるから」


 さすがに「なさい」という言葉は引っ込めて、ユウラが言う。聞きながら、ランテはつい口元を緩めてしまっていた。こういうことを、ランテ以外の人間がミゼに伝えてくれるのはとても嬉しいことだ。ミゼは驚いたように目を見張っていたが、やがて微笑みを返した。


「ありがとう。そう言ってもらえて、嬉しいわ。……あなたが副長さんの支えになっている理由が、とても良く分かります」


「あなたって、あたしたちのこと名前で呼ばないわよね。名乗っていないからかしら? 名前は知っているでしょうけど。あたしはユウラよ。そっちで呼んで」


 ミゼはもう一度目を丸くした。微かに言葉にならない声を零して、一度視線を外してから、戸惑いを連れてユウラを見上げる。


「……私はこの時代の人ではないし、恨まれるべき対象だから、あまり親しくするのもと思っていたの」


「気にし過ぎよ。一緒に戦うんだから、信頼して欲しいし、信頼させて。それが北流よ。ランテをあたしたちに預けてくれたんだから、あなたはあたしたちをそれなりに信頼してくれていたんでしょう。あたしたちも応えるわ。きっと、セトだってそう言う」


「信頼は、とてもしていたわ。三年前にワグレの件で現副長さんたちの部隊に会ってから、西大陸で接触するなら北支部だと決めていたわ。だからランテが北支部にいたのも見守った。……実際私は、今のこの状況を含めてあなたたちにとても助けられているけれど、あなたたちには他よりも多くの苦難を背負ってもらうことになってしまった。あなたは私を恨まないの?」


「八つ当たりなんて、子供のすることよ」


 ミゼが少し怯えているのがランテには分かったが、ユウラは清々しいほどの返事でミゼの懸念を一蹴した。


「起こったこと全てがあなたの責じゃない。さっきから言ってるでしょ。あたしたち、あなたに強制なんて一度もされていないわよ」


 ユウラの言葉は、ミゼにとって予想だにしないものだったのだろう。長らく返る言葉がなかった。何度か言葉を選び直して、ようやく言う。


「何て言ったらいいか、言葉が見つからなくて。……ありがとう、でいいのかしら、ユウラさん」


「呼び捨てでいいわよ」


 またもミゼは目を見開いた。そのまま舞い散る花びらを追いかけるように視線を揺り下ろして、ゆるりと持ち上げた手を胸に添える。


「……ユウラ」


 やっとのことで届くような微かな声を、ユウラはきちんと拾い上げた。


「ええ」


 やや細めた紅の瞳で、ユウラは優しくミゼの姿を映す。今なお胸を押さえているミゼの手の前にそっと右手を差し出して。


「よろしく、ルノア」


 二人の手が目の前でゆっくりと繋がれていくのを、ランテは見守っていた。ミゼの遠慮はまだ全て拭われたわけではなかったけれど、彼女は迷いながらも顔を上げる。


「あの、ユウラ」


「何?」


「ミゼと呼んで欲しいわ」


 これまで自責と悲嘆ばかりが居座っていた宵色の双眸には、今までになかった強さが差していた。もとよりミゼは強いが、時折見せる気品の——王族に求められる覚悟の——上に、たった今、何か新しい決意が加わったのをランテは強く感じ取った。


「姫だったときの名で呼ばれたくないのは、その資格がないからだと思っていたけれど、違ったのかもしれない。私はもう、何もかもを明らかにして、受け入れて、ちゃんと私として覚悟を決めないといけないんだわ。きっと。だから、この名前だって捨ててはいけなかった」


 ほとんどユウラからしか握られていなかった手を、ミゼが握り返す。


「よろしくね、ユウラ」


 そうして微笑んだ彼女は、目が眩むほどに美しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る