【Ⅲ】—6 恵み

「整理できたから要約するけどいいか?」


「……ええ、聞くわ」


 立て直しは、それでもセトの方が早かった。ほんのちょっと湧き上がった悔しい気持ちを打ち消すように、ユウラは深い頷きを返しておく。


「今ほど普通の人間でありたかったって思ったこともない。それくらいお前の気持ちは嬉しかった。だけどやっぱりオレは普通の人間じゃないから、今すぐ受け取ることはできない。全部終わったときにオレがまだ生きて——というか残れていたら、そのときはこっちから言うから、お前の気持ちが変わっていないなら、待ってて欲しい? ってことになるか?」


 最後が疑問形であったことが甚だ不満ではあったが、意外なほどに明確な返事が聞けた。期待しても、いいだろうか。


「あたしに聞かないで」


 言葉はつれなかったかもしれない。だが、声色と表情は全く違うものになっていることはユウラも自覚しているし、セトにも伝わっているはずだ。


「自分で振り返ったらかなり都合のいいこと言ってるなって思って」


「でしょ。ほんと勝手な男よね」


 今、自分は微笑んでいるのだろう。それも、おそらく、とても優しく。


「本当なら、死ぬことも消えることもしないって言って今すぐ気持ちを受け入れて欲しいところだけど、ひとまずいいわ。あんたが不確定要素を残したまま約束できるタイプじゃないのは知ってるから。今の答えが一番、あんたにとって誠実な答えになるんだろうってことくらい理解してるつもりよ。素直に本心を表してくれたのも分かるわ。それが初めてだって言うのが嘆かわしいけどね。その上で、二つ言うわ」


 セトが誠意と一緒に、今の精一杯の心をくれたのは、よく分かった。だからユウラの方も、渡せるものの全てを——つまりありったけの気持ちを一片も残さず——伝えてしまおうと決めた。


「一つは、あたしの気持ちは変わらないということ。長い間悩んで来たあんたには失礼になるかもしれないけど、あたしはあんたの存在が他より多少不安定なものだったとして、そんなことは気にならない。だから、さっきも言ったように気持ちは変わらないし、たとえばあんたが死んだり消えたりしようとも、あたしは一生あんたを好きでいる。つまり、あんたがそうなったら、あたしは一生幸せにはなれないってことよ。それを分かってて欲しいわね。そしてもう一つは」


 想いの全てをぶつけたら、重いことを言うことになるのはあらかじめ分かっていた。けれどもあまりにも自分を軽視するセトには、これくらいの言葉を向けていた方がよい鎖になると信じていた。


「あたしがあんたを死なせないし、消させない。あんたのことはあたしが幸せにしてあげる。覚えてて」


 四年の間に募らせてきた想いはもう、ときめきや恥じらいの域をとっくに超えて、恋以上の何かに昇華されている。ユウラは、この心に名をつけたくなかった。どこかにいる他の誰かが誰かへ向けている感情と同じにされたくはない。この心は、想いは、自分だけのものだ。たった一人の自分から、たった一人の相手へ捧げられる、唯一のものなのだ。そんな特別な情を並一通りの言葉でくくり切ることはできない。また、括り切らずとも良いとユウラは思っている。十告げなくとも、十を分かり合える間柄には、もうなれている。言葉はこれで十分だ。


「それなら、もう」


 遠くを見た翡翠に柔らかな光が差した。この目は初めてではないなと感じて、ふと思い至る。もしかしたらセトは、これまでも、思ったよりたくさん満ち足りた表情をしていたかもしれない。


「リエタ聖者と戦って、死ぬなって思ったとき、幸せだったって思えたんだよな。だからとても、特にお前に感謝してる」


 実感の直後に、その正しさを証明するかのような文句が続けられた。温かに咲き広がった嬉しさを胸にじていきながら、勝気に笑ってみせる。


めないでくれる? それじゃ足りないわよ。もっと幸せにしてあげるって言ってんの。生きたくて生きたくてどうしようもないくらいにしてあげる。死ぬなんて思いもしなくなるくらいに、幸せにしてあげるわ」


 気持ちを言葉に変えて伝えている間に、ユウラは己が本当に願っていたことに到達できた。自分はずっと、彼の命を繋ぎ留めるくさびになりたかったのだ。言い切ったとき、ユウラはあらゆるつかえから解き放たれたような感覚を味わっていた。自分がどのような表情で笑っているのかは分からない。セトが長い間ユウラに視線を留めていたから、珍しい表情ではあったのだろう。


「……同じかそれ以上に幸せにしてやるって言える自分に、なりたいって思うよ」


 ささやくように返された言葉が、耳に、頭に、心に刻みつけられる。こんな言葉を聞ける日が来るなんて、思ってもいなかった。胸を満たしていくこの温もりを、一生、覚えておきたい。


「それが聞けただけでも、伝えて良かったと思えるわね」


 信じられないくらいに言葉が簡単に出て来る。今まで張り続けていた意地はどこへ行ったのかと、自分で自分がおかしくなってしまいそうだった。


「それで、誓うのはどうするの?」


「ひとまず、今はやめる。どうしても必要になったときは……お前まで巻き込む覚悟でやる、で、いいんだろ?」


「ええ」


 以前までのセトなら、ユウラがこのようなことを願ったとき、言葉を聞きはするけれど、受け入れることは絶対になかった。これまで越えられなかった線を一つ踏み越えられたことを、改めて実感する。


「ほんと、お前には敵わないな」


「出来た副官でしょ」


「出来過ぎるくらいで逆に困る」


 ユウラが留めた腕章に触れるセトは、憑き物が落ちたように安らいだ顔をしていた。しかし血色そのものは良くなってはいない。身体については、やはり休まなければ快方には向かわない。それが容易たやすくできる状況でないことは分かっているが、彼の負担を軽減するのがユウラの役割だ。戻って来れたのだから、時間はこちらで捻出してみせる。


「薬師を手配しようと思ったけど、先に休んだ方がいいかもしれないわね。顔色、酷いわよ」


「じゃあそうするかな」


「ちゃんと寝るか見てようかしら」


 心配が八割で、残り二割はこの特別な時間をできるだけ長く味わっていたいという気持ちからユウラはそうこぼしたが、セトからすぐさま阻止されてしまった。


「それは遠慮する。さっきも言ったけど、今多分おかしいから。変な気起こすとまずいだろ」


「そうなっても良い相手だからこう言ってるんだけど」


「今そうなったらこっちが自己嫌悪で死にたくなるから、勘弁してくれ」


 言った通り「勘弁してくれ」と心底思っているらしい顔をしている。一般的な女なら多少なりとも傷つく反応だろうが、ユウラには一番最初についていた『今』という部分がむしろ嬉しかった。今でなければ、この先であれば。そういう可能性を感じさせてくれる言葉運びをしてくれたことは、意識的なのか無意識的なものなのかは知らないけれど、大きな意味を持つように思われたのだ。


「……ああ、じゃあさ」


 思い出したように、セトが言う。


「何?」


「お前の作ったの、何か食べたい」


 今日は何度初めての事態が起こるのか。放っておいたら多忙を口実に平気で何食も抜くので、ユウラの方が心配して食事を作って持っていくことは多々あったが、この手の頼みごとはされたことがない。


「いいわよ。作って持ってきてあげる」


 セトはうかがうようにユウラを見ていたが——それもまた珍しいことだ——ユウラが快諾すると、そっと微笑んだ。


「ユウラ」


 見届けて立ち上がったとき、呼ばれた。


「感謝してる。ほんとに、何て言っていいかも分からないくらいに」


 ユウラはしたいと思うことをただしているだけだから、感謝を欲しているわけではない。しかし続いた言葉が、少々感じていた恐縮をあっという間に拭い去って、ユウラを足のつかないような幸福感の中へ連れ去った。


「お前に会えて、オレは多分、とても恵まれてる」


 彼の境遇は、誰から見ても『恵まれてる』という状態からは程遠いものだろう。その彼がその言葉を使ったこと、そしてその理由に自分と会えたことを挙げてくれたことが、堪らなく喜ばしい。


「……セトって、元はとても素直なのね」


 本当なら自分もと続けたかったが、それは出て来なかったので直前で言葉を換えた。負けたような気持ちになったので、今度この手の話をするときは逆に負かせられるように努めようとユウラは誓う。


「それはそうかもしれない。これまでかなり努力して、言いたいことを飲み込むことが多かった。そのまま言えるのは楽でいいな。まだ何もかもって訳にはいかないけどさ」


 どこか晴れ晴れとした表情のセトを見ていると、ユウラまでそのような気持ちになってくる。釣られるように唇を穏やかに緩めながら、挑むように応じた。


「すぐに何もかも話せるようにさせてみせるわ」






 着替えるため一旦自室に向かう道中、ユウラは自分を探しに来たリイザと出会い、感情を取り戻したことを泣いて喜ばれた。そこまでは良かったのだが、男物の上衣を纏っていることを大いに勘繰られ、上衣の裏側にある記名欄をしっかり確認されるという厄介な事態になってしまった。何もなかったのだと言っても聞く耳を持たなかった噂好きの彼女が——ユウラの気持ちを知っていたがために、これまた泣いて喜ばれてしまった。段々否定するのも悪いような気がして、途中からは半ば諦めていたのだが——次に起こすだろう行動を思うと、このときのユウラはたいそう頭痛に悩まされたが、少し後になって事態を知った彼から「オレは困らないけど?」と言われて一転、また喜びを味わうことになる。

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