【Ⅲ】—5 初めて

「腕章、持っててくれてたんだな」


「ええ。ずっと手放せなかったみたい」


 見つめた瞳は、複雑な相を呈していた。曰く『今日限定』で分かりやすかったはずの感情がまた読み取れなくなる。しかしそれは、隠そうとしてそうなっているのではなくて、心をそのまま映し出した結果であるようだった。きっと彼自身、自分の想いを汲み上げられないでいるのだろう。


 しばらくすると、また瞳が伏せられて小さく息がつかれた。それから少しして再び瞳が向けられたが、そこにはまだ迷いが居座っている。普段はそういうところをほとんど見せない人だったから、今日限定の特別状態はまだ続いているらしかった。


「聞きたくなかったのはさ」


 静かに、セトは切り出した。


「何も話さなかったのと、多分同じ理由で」


 普段より随分ゆっくりとした話し方だった。


「どこから話したらいいだろうな」


 そのうち弱った笑みを添えてきた。繕うような笑いではなかったから、許すことにする。


「最初から話して。この際だもの、全部知りたいわ」


 今なら何でも話してもらえる気がした。そして今を逃せば、もう二度と話してくれる機会が訪れないような気もしていた。ユウラがそう言うと、セトはほんの少し間を置いてから、微かに頷いた。


「長くなると思うから、座れよ」


 そう言うので隣に座ろうとしたら、「椅子に」と付け加えられた。理由を探して、今、自分が座ろうとしていたのがベッドの上だったことを悟って、密かに羞恥を覚えつつも目を丸くしてしまう。


「初めてね、そういう反応。何? 少しは意識してくれてるの?」


 これまで副長室で長時間二人で仕事をすることも多かったし、何なら怪我の治療のために下着姿を見せたこともあるが、いつも平然としていたから、本当に仲間としてしか見られていないのだと思っていた。異性として見られているかすら怪しいと感じていたくらいだ。


「今、多分、まともじゃないから」


「失礼ね。まともなら全く問題ないみたいな言い方よ、それ」


「とりあえず落ち着いて話したいんだよ。その辺りも、後で言うから」


 少々不満なところはあったが、話がしたいのはユウラの方も同じだったので大人しく従うことにする。が、その前に渡した腕章をもう一度手に取って、セトの左上腕に留めつけることにした。「副長はあんたでないと務まらない」などと言葉で言うと受け取らないのは目に見えていたから、その念だけ思い切り込めて。留め終わるまでずっと、セトは黙っていた。ユウラが椅子に戻って腰かけるとようやく、言葉を慎重に選ぶようにしながら語り始める。


「もう知ってるだろうけど、オレは自分が好きになれなくてさ。理由は色々あるけど、多分根本的なところにあるのは、生まれのことだと思う。あまり自分に向き合うことがなかったから、オレ自身も自分をよく理解してないところはあるんだけどな」


「……イベットさんから聞いたことは知ってるわ。あんたが罪悪感を持っているだろうっていうのも分かる」


「そのこともだし、父親に大分問題がある。人格にも身上にも。……父親、クレイドなんだよ」


 少々背が寒くなるくらい暗い色が、セトの瞳をちらついた。その正体が強い嫌悪感であることはすぐに知れた。


「そいつの血を半分継いでることも寒気がするし——まあ、これを知ったのは最近のことなんだけど。半分誓う者の子で、ちゃんとした人間じゃないってのは、お前に会う前から分かってた。いつどうなるか分からないわけで、その辺りの理由から、やっぱりオレには自分を好きになるのは難しい。だから、誰かのために死ねるならそれが一番幸せだって、ずっと思ってきた」


 セトが抱えていたものが想像していたよりずっと根深く、そして解決が難しいものであったことに、ユウラの胸の奥は鈍く重く痛んだ。自分の想いを足しにして欲しいなんて、なんと浅はかなことを考えていたのかと思う。そんなことでは、彼の苦悩は解決しない。だが、聞いた言葉の最後の一音が長く耳に響いて、暗く染まりかけた思考が浮揚する。


「過去形なの?」


「……これも、前から思ってたことなんだけど」


 言葉が少々重くなる。視線が落ち切って、ゆっくり床をなぞった。


「話したくなかった理由と、聞きたくなかった理由にも通じてることでさ」


 もったいぶったような言葉を続けて、セトはさらに視線で床をなぞり続ける。


「お前に何か言われたら、気持ちがぶれそうな気がして怖かった……んだと、思う、多分。実際今も、お前に言われるまで過去形にしてたことにも気づいてなかったな」


 歯切れの悪い言葉を並べられたことで、セトが今本当に真摯に本心を吐露してくれているということを強く感じ取った。はやる気持ちもあったが、言いにくそうに重々しく語る彼の言葉を、ユウラはじっくりと待ち続けた。


「……さっきも言ったように、気持ちを向けてくれているかもしれないことは知ってた。それで……お前も気づいてただろうけど、オレは他のそういう相手からは距離を取るようにしてたんだよ。応えられないから。ユウラのこともそうした方がいいかもしれないって何度も思ったけど、結局できなかった。能力的にも傍にいて欲しい人材だったし——」


 セトはまたしても息をついた。しばらく言葉を探していたようだった。その後ゆるりと面を上げて、ユウラと視線を交わす。


「能力以外の面でも、そう思ってたし、思ってる。……今はこういう言い方しかできないけど、とにかく、オレにとってもお前は特別だってことは分かってくれたら」


 違和感が生まれた。核心に近いところで最後の一歩を踏み込まず、言いたいことを辛抱して、他の言葉に言い換えたように聞こえる。


「言葉、分かりにくくなったわよ。もっとはっきり言って」


 思ったことをそのままぶつけると、セトは困ったような顔を見せて、次いでそっと穏やかな笑みを過らせた。


「……多分、そういうところだな」


「何?」


「ごまかされてくれないだろ、お前は。だから怖かったんだよ。でも、逃げないととは思っても、逃げたいとは思えなかった」


 彼はあらゆる理由に縛られて、自分の本心から目を逸らす癖がついてしまったのではないだろうか。先ほど急に言葉が迂遠になったのも、無意識にその癖に引っ張られたからである気がした。だが、セトはもっと自分の内なる声に耳を傾けたっていいはずだ。ユウラ自身が本音を聞きたいと願う気持ちもあったけれど、今後の彼のためにも——きっとまた苦しい決断を迫られる場面が遠からず来る——せめて副官の自分相手にくらいはそれができるように、背中を押したいと思った。言葉が多少滑らかになっていたので、少しはそれができたと思ってよいだろうか。


「見抜かれるのも、心配されるのも、ユウラ相手なら悪く思わなかった。好意についても一緒で。お前に悪いと思う気持ちはあるけどさ」


 大分分かりやすくなったが、まだもう一歩足りない。促してみることにする。


「続きは?」


「今はそれ以上、言いたいことが整理できてない」


「いいわよ、こっちで勝手に整理するから。言って」


 普段はあんなに口が回るのにと思うと、セトには申し訳ないが、珍しいものを見られている気になって嬉しくなってしまう。もっとそんな彼を見ていたかったので、ユウラはさらに先を要求した。


「とりあえず、お前には幸せになって欲しい」


「飛躍してない?」


 あまりに唐突だったから、今自分でそのまま言うよう願ったところなのに、反射的に突っ込んでしまった。


「だから整理できてないって言っただろ」


「そうだったわね。いつもと大違いだから、つい。悪かったわ。続けて」


「幸せになって欲しいから、他の男を好きになればいいのにって気持ちがある」


 期待していたから、らし過ぎる言葉が述べられたことに落胆する。溜息を堪えて、できるだけ冗談に聞こえるように気遣いながら、ユウラもらしい言葉で応戦した。


「槍、取って来ようかしら」


「……だけどそれと同じくらい」


 流れてやってきた目が、ユウラを映した。続いた言葉が響いているそのたった一刹那の間は、セトがユウラだけしか見ていないのが、なぜかはっきりと伝わってきた。


「このままオレを好きならいいのにって思いもある」


 一瞬、虚勢も自負も我慢も自律も何もかも置き去りにしてきた彼を見た気がした。今聞いたばかりのものが幾重にも木霊する。言葉はやはりほんの少し手前、とても惜しいところで踏み止まっているけれど、心の部分は残らずさらけ出してくれたと感じられた。こんなこと、初めてだ。だから今の一瞬は、ユウラにとってとても尊い瞬間になった。行き場所のなかった自分に彼が手を差し伸べてくれたあの瞬間と、同じくらいに。

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