【Ⅲ】—4 熱情

 身体から腕が離れる。合わせるようにユウラも腕を戻し、上体を起こしてセトを見上げた。もういつものセトに戻っていて、彼らしい苦笑いを薄っすらと滲ませていた。


「一番見つかりたくない相手に見つかった」


「話は聞かせてもらうけど、まず治して」


 元々濡れていたのもあってだろう、シャツはかなり広範囲が赤く染まっていたので心配だった。ユウラが振り返ってシャワーを止めている間に治療は済んだらしい。顔を戻すと、ちょうど青い光が消え入るところだった。セトはその後すぐ立ち上がると、浴室の外へと出てしまう。追いかけようとしたユウラの前に、タオルが差し出された。


「着替えどうする? オレの制服の替えでよければ、部屋にあるけど」


「ありがとう。でもタオルがあればいいわ」


「そういう訳にも。世話掛けた上に風邪まで引かせたら、流石に情けなさ過ぎる」


 自分は身体を拭くのもそこそこに、雫を垂らしながらセトは部屋の方に戻った。少し待っていると、じきシャツと上着が手渡される。


「下はそんなに濡れてないよな?」


「ええ。……じゃあ、借りるわ」


「ああ」


 返事と同時にセトが引っ込んで、脱衣所の扉が閉ざされる。ここを着替えに使っていいということだろう。素直に借りて、主に背中の部分がすっかり濡れてしまった上衣とブラウスを脱ぐ。浴室で軽く絞ると、かなりの量の水が滴った。


 着替えを済ませる。当然だが、借りた制服は大きくて不格好になった。動きやすさを考えるとシャツだけを着ていたかったが、中の下着が濡れていてそれでは目立ってしまう。大人しく上衣も着ておくことにする。


 脱いだ服から、大事なものを取り出した。心を失っている間もずっと持ち続けていたものだ。借りた制服のポケットにしまい直す。少し皺は寄ってしまっていたが、失くさずにいられて本当に良かったとユウラは思う。


「済んだわ」


 声を掛けてから扉を開く。セトの方も着替えを済ませていた。ユウラを見遣って、少し笑う。


「やっぱり大分大きいな。女子用もらって来ようか?」


「いいわ。時間を置くと、あんたが話す気をなくすかもしれないでしょ」


「まあ……その方が頭は冷えるかもしれない」


「冷やさないでいいわよ。大体、そんな高熱で動き回るのはやめなさい。身体、かなり悪くしてるでしょ。薬師には診てもらったの?」


「いや、まだ」


「まだって言うからには、診てもらう気あるんでしょうね」


「時間ができたら」


「永遠にできないでしょ。この後呼びに行くから」


「それはちょっと……夕方に支部から遣いが来るんだよな。伝令頼むなら方針まとめないと」


「明日にして。伝令にも一晩休んでもらえばいい話よ」


 返事が来ないのでユウラが見上げたら、セトがとても安らかな顔をしているので思わず見入ってしまう。すぐに視線が寄越された。


「何?」


「初めて見る顔してたわ」


「何か懐かしくてさ」


「やけに素直ね」


「多分、今限定」


 知っていたことではあるが、普段はそうと分かっていながら素直でない返答ばかりするらしい。溜息をつきたくなった。


「その顔ばかり思い出してた」


「何か失礼ね」


「心配ばかりかけてたって……」


 そこで言葉が止まる。少々狼狽うろたえたように視線を下に迷わせて、セトは続けた。今日の彼は本当に分かりやすい。続いた言葉から察するに、本人も自覚しているようだった。


「……やっぱり、話はまたにしないか? 今は何かと都合が悪いと言うか」


「それであたしが引き下がると思うの?」


「そうだよな」


 狼狽を残したまま、セトはユウラに椅子を勧めて自分はベッドに腰かけた。話に応じる気はあるらしい。もっとも言葉の通り、応じる気がなくとも引き下がるつもりは毛頭なかったが。


「心配をかけたのは、あたしもだから。悪かったわね」


「お前は何も悪くない」


「セトだって悪くないわよ。……と、いうか。あんたがああだったから、戻れた気がしてるの。とても怒ってるけどね」


 これはきっと正しい。あれほどに心が乱されなければ、ユウラは帰って来れなかった。追い詰めた原因の一つが自分にあると分かっていたから、言い換えれば自分のために心を痛めてくれていると分かっていたから、戻って来ないとと思えたような気がしている。


「泣かせたな」


「あたしが泣くなんてよっぽどのことなのよ。反省して」


「してる。……前の、レベリアでのことも、悪かった」


「あのときは泣いてないわよ」


「泣きそうになってたのは知ってた」


「それについてはもういいわ。あんたも気にしてくれていたのは、今、分かったから」


 拒絶は、とても辛かった。しかし、無理矢理距離を詰めようと焦ってしまった自分にも非があったと思ってもいた。嫌われているわけではないことは知っていたから、ああいう反応はセトにとっても不本意だったであろうことは、想像できてもいた。けれども、やはり言葉にして表してくれるとよりほっとできる。


「聞くわよ」


「……どうぞ」


「何してたの」


 後一歩でも遅かったらと思うと、ユウラの身は凍りそうになる。あの場面を目にしたときは、ひどく恐ろしくて激しく身が震えた。間に合って本当に良かったと、改めて思う。


「別に狂ってたわけじゃない」


「それはもう分かるわ」


「……その」


 初めは言葉を探していたようだったが、適当なものは見つからなかったのだろう。観念したような顔をしてから、セトは結局直接的に言った。


「誓おうとしてたんだよ。誓いの呪の使い方が分かって」


 目を合わせて言わないから、セトが取ろうとした行動をユウラがどう思うかは、彼の方ももう分かっていると見えた。


「あんたね」


 そこまで言ってしまってから、ユウラは続ける言葉を迷った。叱るつもりでいたのだが、そういう選択を取らせる一因になったのは自分であるし、彼にかかっている負担をこれまでどうにもできていなかったのもまた自分だ。それに実際、戦力が不足しているという大きな問題に我々が直面しているのは間違いないことでもある。


「……いいわ、分かった。あんたが誓うって言うなら、あたしも誓う。やり方を教えて」


「え」


「戦力不足を補おうとしてのこと? それとも支部を回すために死ねないと思った? ……どっちでもいいわね。あんたがどうしても誓うなら、あたしもそうするというだけよ。あんただけに負担をかけたくない。あたしは、あんたの副官よ。あんたを支えるためにいるの」


 絶句したセトは、長いこと二の句を継げないでいた。何をそんなに悩むことがあるのかが分からない。ようやく返って来た答えには、どこか力が足りていなかった。


「……そんなことさせたら、お前の妹に合わせる顔がない」


「ユイカは大丈夫よ。あの子はもう幸せに生きられる。それに」


 次はユウラが悩む番だった。この先を言っていいだろうか。そう考えて、気づくと少し笑っていた。洗礼を受ける直前に感じた後悔を思い出す。もうあんな思いを味わいたくはない。これまで言えなかったのは、ただ拒絶が怖かったからだ。出会ったときからずっと心を傾けてきた人。支えたいという想いの深さは、自分でも底が分からないほどのものだ。傍にいたいとは思っていたが、報われたいとか、気持ちを返して欲しいとか、そのような気持ちは不思議と初めからそう強くはなかった。彼がどうしても自分に価値を見出せないのなら、この想いをそこから抜け出すための一つの足しにしてくれたら、もうそれでいい。


「義務感とかじゃなく、私情からそう思ってるのよ。知ってるでしょ?」


 視線がユウラを通り過ぎて、ゆっくり下降した。肯定しているとしか思えない反応だ。


「いつから気づいてたの」


「……確信してたわけじゃないけど。そうかもしれないとは、二、三年前から、ときどき」


「まあ、そうよね。鋭いあんたが気がつかないはずがないもの。でも、ちゃんと言葉にするから聞いて」


「…………聞きたくないって言ったら?」


「それでも聞かせるわよ。だけど、そうね。どうして聞きたくないかくらいは聞いてあげる」


 セトは顔を少々俯け気味にしたまま答えない。一度目を閉じて、小さく息をついてから、ゆるりと顔を上げた。


「いや、往生際が悪いよな。ごめん。聞く」


 やや苦しさや辛さが染みた顔をしているように見えたが、彼の場合、笑っていないだけまだ良いのだろう。人が覚悟を決めて数年来の想いを伝えようとしているのに、こんな表情をしてそんなことを言うなんて随分失礼ねと思いながら、ユウラは微笑んだ。そうしてしまう大方の理由も、もう分かる。それでも聞くと言うのだから、洗礼の件で変わったのはユウラだけでもないようだ。


「好きよ」


 これまでどうしても言えなかった言葉が、驚くほどするりと出てきた。


「好きじゃ足りないくらい、あたし、セトのことが好きだわ」


 心の全てを懸けて慕う人は、目を逸らすことなくユウラの想いを聞き届けてくれた。それだけでも報われたような気になってくる。報いを望む気持ちは強くなくとも、実際報われると幸せになってしまうのが人間らしい。 胸に差した温もりが、これまでは何度か恨んできたこの感情が、今はとても尊く思われた。届かないまま消えてしまうはずだったこの熱は、それでも消えずにくすぶり続けて、失われていたはずの他の心まで引き連れて再び灯った。それほどに強い愛情を教えてくれた人に、とても、感謝している。


「こんなにあんたを好きにされてしまったから、帰って来れたのよ。あたし、またセトに救われたの」


 立ち上がる。セトのところまで歩んで、屈んで、手を取った。その手に、取り出したとても大切なものを——あのとき託された北支部副長の群青の腕章を——握らせる。やっと、あるべきところに返すことができた。


「あたしほどの女にここまで想われているのよ。もっと誇って欲しいものだわ」


 手も、瞳も、もう逃げはしなかった。

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