【Ⅲ】—3 近く

 何もかも、ずっと見てはいた。感情が従わなかっただけで、見て来たものは全て脳に記憶として蓄積されていた。


 石のようになってしまった不動の心を抱えて、ユウラは生きていた。何が起ころうとも何も思えない生は、穏やかではあった。けれども、それと同じくらい虚しかったように思う。これについては、後から振り返って感じたことであるが。


 つい先刻もユウラはただ命令に従っていただけだった。目の届くところにと言われていたから、そうしようと主の姿を探し回っていたのだ。姿を見つけて命令は完遂した。普段なら、その後は次の命を待ってたたずむだけだっただろう。


 血濡れたナイフに、赤く染まった服、ひどく憔悴しょうすいした顔。それらの情報をそろえ終えた瞬間、ざわりと身体の奥が波立ったのだ。これまでにも似たことは数回あったが、今度の波はかつてないほど大きく、細かな振動が指の先まで広がっていった。


 しかしそれだけなら、きっとまた身体が勝手に動くところまでで——つまり些細ささいな動作を少しできる程度で、止まっていたことだろう。その一つ先の、心の震えに気づかされるところまで到達することができたのは、彼が笑ったからだ。


 よく笑う人だった。見かけた数の八割近くは笑っているのではないかと感じるくらいに、よく笑う人だった。本当に笑いたくて笑うことも少なくはなかっただろう。ただ、笑顔が不相応なときにも頻繁に笑うものだから、彼の笑みは本当に信用ができない。大怪我をしては笑い、倒れては笑い、罵倒されては笑い、傷つけられては笑う。最近では、追い詰められても笑っていたし、眠れなくても笑っていたし、きっと怖くても笑っていた。厄介なのは、笑いたくないときの笑みがたいそう上手いことだ。四年の付き合いがあっても、ユウラは彼の笑みそのものでは、平気なのかそうではないのかを完全には見分けることができない。自分にできないのなら他の人間にもできないだろう。自信を持ってそう言えるほどには、彼のことを近くで見て来た。


 強がりなのは、多分、同じだ。ユウラもできるだけ人に弱いところを見せたくないし、そもそも自分が自分の弱さを認めたくないと思っている。セトもそうなのだろう。だから、そうしてしまう気持ちはよく分かる。けれど、どんなことにだって限度や限界は存在するものだ。ユウラはそれをわきまえているが、おそらくセトはそれをも認めたがらないところがある。どこまでもどこまでも平気な振りを貫こうとする彼は、いつ足を踏み外してしまうだろう。いつもいつも心配で堪らなかった。


 どうせ、気づくことすらできていないのだ。ユウラの姿を認めて反射的に浮かべた笑みが、ほんの少し壊れていたことに。繕い笑いが驚異的なほどに上手い彼が、綻びを悟られるような笑みしか作れなくなっているその異常事態に。


 ——分かってる? これまで一度も、そんなことはなかったのよ。それくらい追い込まれてるのよ、あんたは。


 それほど苦しめられて、傷ついて、救いを求めて喘ぎもだえているのに、そんな自分にずっと無視を決め込んでいる。もうとっくに限界なんて通り越しているのに、まだ笑みを貼りつけて自分に鞭を打とうとする。


 ただただ、もう、見ていられなかった。ネクタイを引いたのが先か、それとも心が蘇ったのが先か、それはよく分からない。気づけばこんなことを考えられる自分になっていて、涙まで流していた。


「何、してるの」


 喉を久しぶりに使ったが、声帯はしっかり自分の声を記憶していた。笑みは残ったままで、返事はない。また逃げ口実でも考えているのだろうか。今回ばかりは逃がすつもりがなかった。意図的な行動なのか無我の行動なのかは分からないが、こんな現場を見せられて引き下がれるわけがない。襟を掴んで、勢いのままに彼の身体を壁に押しつける。一度蘇った感情は留まることを知らない。迸るように溢れ出て、けれどもそのほとんどが言葉にならなくて、涙に変わって流れ落ちていく。


「何してるのって、聞いてんのよ」


 ユウラが二度目に呼びかけたら、ようやくセトから笑みが抜け落ちた。その瞳が揺れる。こんなに感情が明け透けになった状態の彼は、初めて見たかもしれない。動揺、戸惑い、不安、そしてわずかな期待と祈りがせめぎ合っているのがよく伝わって来た。


「ユウラ」


 名を呼ぶ声が届いた瞬間、耳から胸までを何かが貫いたような感覚があった。出会って四年で初めてすがられたと感じた。いや、同じ響きの声を聞いたことがある。洗礼を受けた後初めて対面したときに、何度もこの声音で名を呼ばれた。答えることすらできなかった木偶でくのような自分を思い出し、次にひどく感情に振り回されていたセトの姿を思い出す。昔、中央の司令官が北の兵を十数名拉致して勝手に洗礼を施そうとしたことがあり、そのときも本気で怒っていたのは隣で見ていたが——司令官に手を出して謹慎処分を受けていた。彼が処分を受けたのはあの一度きりだ——今回はあのときの荒れよう以上だった、と思う。元々理性的な方だから、感情がたかぶって我を失うことなんて非常に珍しい。ユウラが知る限りでは今思い出した二回だけだった。


 恋情の有無は分からない。でも、それほどまでに想われていることは確かだ。


 襟をつかむ手から、少し力が抜けた。思い切り叱るつもりだったのだが——何のつもりなのかは知らないが、自ら命を絶とうとしているのならば、そんなことは絶対に許さない——それよりも先に支えなければと思った。とにかくまずは、遅くなってしまったけれど、あのときからずっとできていなかった返事をしなければ。


「何よ、セト」


 それでもやはり叱りたい気持ちが完全には拭えなくて、大変可愛くない返事になる。言ってしまってからユウラは後悔したが、こんな返事でも、セトの瞳に喜びに属するであろう感情が押し寄せたのはよく分かった。


「セ——あっ」


 もう一度名を呼ぼうとしたところで、突然体勢を崩してしまう。身体が前に強く引き寄せられたのだ。


 最初、何が起こっているのか分からなかった。可動域がほとんどなくなった不自由な身体を自覚して、狭まった視界に見えたものを識別して、自分を包み込む熱いほどの温度に気づいて、小さくつかれた息が耳に微かにかかったのを感じ取って、そうしてようやく理解に至ることができる。


 抱き寄せられている。


 何も、言えなくなった。唐突に熱が巡ったのは、セトのものが移ったのだと思い込むことにする。実際彼の身体は尋常でないほど熱くて、すぐ休ませないとと思うのに、それでもやはり何も言えない。背中に回された腕の存在をやけに強く感じる。


 別に初めてという訳でもなかった。怪我をしたときに数回抱えられたことがある。でもそれは必要だからされたことであって、今のこの、理由が見つからないのに抱かれているという状況は、ユウラの思考をほとんど機能させなくするに足る衝撃があった。


「セ、ト」


 無理やりに出した声は、思った通り、上手く出て来てくれはしなかった。顔を上げようとしたら、もう一つ手がやってきて、頭をそっと抑えられた。胸に顔を埋めることになって、耐えられずに赤面する。


「……どうしたの」


 どうにか尋ねてみたのだが、返る声がない。頭は強く押さえられているわけではないから、顔を見上げることはできたのだろうが、どうしてか今はその気にはなれなかった。


 そのまま、どれくらいそうしていただろう。少し時間が経って、ユウラは血の匂いと流れ続けるシャワーの感触とに気がついた。


「セト、傷、治さないと」


 こんならしくない行動が取られることは二度とないかもしれないと思うと、名残なごり惜しい気持ちも強かったが、そうも言っていられない。そう告げてユウラは離れようとしたが、抱える腕に少し力が入ったことであえなく拒まれてしまった。


「セト」


「いい」


「良くないわよ」


「いいから。これくらいじゃ死なない」


 心配だったが、セトがこの状況でそう言うのなら正しくはあるのだろう。問答の後、静かに息がつかれた。吐息は微かに震えていた気がした。


「もう少し、このままで」


「……どうしたの」


「今、顔見られると困る」


「泣いてるの?」


「泣いてない」


 少し意地悪な質問をしたかもしれない。答える声はしっかりしていたから、泣いてはいないのかもしれないけれど、応答はいつになく子供じみていたから、やはり泣いているのかもしれない。その頃になって、ユウラは垂らしたままの自分の腕が気になり始めた。悩んで、迷って、散々彷徨さまよわせた後に、おずおずと腰に回した。そうすると頭に添えられていた手が少しだけ動く。撫でられた、のだろうか。分からないくらいわずかな動きだった。


「……でも、今死ねるならそれもいいかもな」


「馬鹿言わないで」


 セトがまだそんなことを言うので、抑え込んでいた怒りが少々蘇ってしまった。言葉はかなり手加減したので、代わりに腕に力を込めてやることにする。


 それきり二人して黙ったまま、随分長いこと抱き合っていた。セトが今どう思っているのかは分からないけれど、熱が溶け合う近さにいられることが、嘘も虚勢も差し挟めない距離にいられることが、ユウラにはとても幸福に感じられた。

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