【Ⅲ】—2 返事

 誓えば、眠らずに済んで、時間もできれば悪夢に悩まされることもなくなり、不意に自殺してしまう恐れからも解放される。誓えば、周辺から呪力を集められるようになって、無尽蔵に呪を使えるし、呪の威力の向上も見込めるようになる。誓えば、現在行き詰まっている祠陥落時の対抗策についても希望が見えてくるかもしれない。誓えば、このままならない身体も捨てられて、自由に動けるようになる。誓えば、あの状態のユウラを置いて戦死することもなくなる。


 誓えば、誓えば——誓うことで生まれるメリットの数々が、今やセトの脳内を余すところなく満たしていた。どうしてそこに至らなかったのか。いや、一度は至ったがいつの間にかその考えを失っていたのだ。誓う者になればいい。それが一番、いや、唯一、今のこの状況をどうにかできる可能性を秘める道だ。


 今度こそ立ち上がって、セトは机の前に座った。置いてあった紙とペンに手を伸ばして、思考を整えていく。


 誓う者になるためにはどうすればよいのか。間違いなく、この世の——こちらの世界の——理を越えたところにある手段を用いてなるものだ。セトは己の師が用いた手段を思い出していた。瀕死になったときのみに得られる、この世界の理の束縛を抜け出せる瞬間。きっと、あの瞬間を使うのだろう。


 ランテ、ルノア、ベイデルハルク、クレイド、そしてイベット。これまでに出会った誓う者の名を書き連ねる。呪では初心者の域を出たばかりであるランテも誓いの呪を使えたのであれば、能力不足で失敗するということはないはずだ。この中で誓った当時の状況がつまびらかになっているのはランテとルノアの両名のケースだ。二人とも、誓ったのは今際であったのを思い出して一人頷く。やはり、瀕死になって理から逃れるのが一つの条件とみて間違いなさそうだ。


 それから。セトはこれまで見取って来た者たちの最期を思い出していた。強張っていた全身の筋がふいに弛緩するあの刹那、肉の内に込められていた呪力がぱっと宙に散って失せていく。世界に祈られて成立した個体が滅んだとき、真っ先にかえるのが呪力なのだろう。元の形と変わらないから、還元されるのも早いのかもしれない。誓う者になるなら、世界に還ろうとする呪力を——要は意思を——束ねておかねばならない。そのとき軸になるのが誓いではないか。強い一念を肉の代わりに器にして、還ろうとする己を留めるのだ。ふと、王都周辺を徘徊していた黒い存在たちのことを思い浮かべた。あれらは、もしかすると誓うことに失敗したものの成れの果てではなかろうか。誓いの呪に失敗したら、人ならざる者として永いときを生きていくことになるとは聞いていた。思い返してみれば、あれらからは呪力をほとんど感じなかったから、やはり誓いが甘くて思念を残しきれず、ああなったのだろう。


 なるほど、とセトは思う。それで誓いの呪と冠されたのか。そして誓った者たちの名を眺めて思う。皆、強固な意志を持ち得る者たちだ。この方法ならば理屈が分かっていなくても誓えるから、ランテが誓えたのも納得ができる。さらにこうも考えた。この仮説が正しいのなら、自分も誓える。


 最早、躊躇ためらいは皆無だった。セトはふところに忍ばせていたナイフに指を伸ばした。剣よりもこれくらいの長さの刃がちょうどいい。


 首筋を切っては死までの時間が短く、誓いが成る前に息を引き取りかねない。かといって手首を断つのであれば、今度は時間がかかり過ぎて雑念に心を乱されかねない。それならば。ネクタイに添うように滑らせた指が到達したのは、腹部だ。ここを裂けば間違いなく死ねる上、それまでの猶予時間も適していると思われた。


 ナイフを逆手に握ったところで、セトは一旦思い留まった。ここで腹を裂けば、周囲一帯を血の海にしてしまう。机を支えにして立ち上がり、浴室に足を向けた。一番片付けが簡単な場所だ。そういうところに気が向くほどには頭が冷えていることに、少々安心した。


 浴室に足を踏み入れ、扉を閉じ、体温程度の湯を流すようにしてからその場に座り込む。ナイフの刃先を指でなぞるとすぐに、赤い雫が生まれ膨れる。切れ味は問題なさそうだ。そのまま刃を腹部に宛がった。両手で柄を握り締める。腹を貫くほどの勢いで刺さねば、致命傷にはならない。


 死ぬまでに——消えるまでに、なすべきことは多い。でも、ひとつだけ願うなら。自分でも意外なほどに迷わなかった。


 ユウラを元に戻す。


 自分のせいで巻き込み、自我を失わせてしまった。自分に深く係わらなければ、ユウラはもっと幸せに生きられたはずだ。今さら係わらなかったことにはできないが、せめて元に戻すことができたら。ベイデルハルクも言っていたが、部下を守るということが、上官が最も果たすべき責務だ。それだけ……それだけか? 意味のない自問だと思って、笑った。それだけでなかったとしても、やるべきことは変わらない。また誓うのならば、ユウラが元に戻ると同時に自分は消えるわけだから、やはりその先について考えることに意味など生まれ得ない。元に戻った後でユウラが幸せになれるなら、それでいい。今度こそ妹と再会して、軍人としての務めはほどほどにして、次はもっとちゃんとした相手を好きになって、妹のように幸せな家庭を築いてくれたら。


 セトはナイフの切っ先を、服越しにほんの少し突き立てた。わずかに皮膚が裂かれて、溢れた血が濡れたシャツに浸透していく。瞳を閉じると眼裏まなうらに浮かび上がったユウラは呆れ顔をしていて、また微かに虚ろな笑みを刷く。あんな顔をさせてばかりだった。こうなる前に、もっと笑わせてやれたら良かったのに。


 柄をぐっと握る。息をすっと吸った。ユウラを元に、ユウラを元に、ユウラを元に——頭の中に何度も刻みつけるように強く強く念じながら、一思いに刃を己に突き立てる。


 ……突き立てようと、した。


 全神経を集中させた誓いを、妨げる音があった。蝶番が軋む音、扉が開いた音だ。決意に命じられて肉を穿うがとうとした刃は、その微かな音に勢いを殺されて、指で例えるならば爪が隠れるほどの部分までしか沈まなかった。


 ——ああ、鍵を閉めなかったかもしれない——


 どうしてこうも、自分は死に損なうのだろう。最早滑稽さすら感じながら、この状況を——服を着たまま浴室にいて、全身を濡らしながら腹から血を流している——どうごまかそうかとセトは考える。見つからなければ手っ取り早いが、流水音で気づかれよう。いや、ここは扉を閉めてある浴室だ。さすがにいきなり入ってくるようなことはないか。そう思ってひとまず安心するのだが、人の気配がすぐ外までやってくると、セトは自然と息を潜めた。結局言い訳は用意できなかったから、とにかくこの扉が開けられないで済むことを祈るしかない。


 祈れば祈るほど叶わないのがセトにとっての常であり、此度もまた例外ではなかった。なぜか扉は開き、冷たい外気が流れ込んでくる。声も掛けずに、一体誰が。セトは警戒して腹から引き抜いたナイフを握ったが、そんなものは不要だった。全開に放たれた扉と薄い湯気の幕の向こうにはユウラが佇んでいる。なるべく目の届く場所にと伝えてあるため、仮眠を済ませてここへ来たのだろう。普段は扉の鍵を閉めているから外で待っているが、今日に限って失念していた。自分の不注意ゆえに招かれた事態だから仕方はないのだが、何とも間が悪くて笑ってしまう。


「ユウラ。後で迎えに行くから、部屋、に」


 唐突に声が詰まった。身体がやや前に傾いでいるのに、一拍遅れて気がつく。ネクタイを引っ張られている、のか? いつの間にか、ユウラが目の前でひざまずいていたことを知ってセトは驚いた。なぜそのような行動を取っているのか、全く分からない。


「……ユウラ?」


 呼べば、俯いていた顔がゆるりと上げられる。思考が途端に硬直した。うるみ切っていた紅の瞳から、一筋、涙が伝い落ちたのだ。


「何、してるの」


 声。聞いたことのない、何やら哀切に響く声。だが、間違いなくユウラの声。自分はまた都合のいい幻でも見ているのだろうか。それか、もしかすると、もう気を違えてしまったのかもしれない。いや、そもそもまだ夢の中にいる可能性もあるか。抱きそうになる期待を打ち消し続けることに必死になっていたので、セトは呆けたように固まっていたのだが、そうしていると今度は両手で襟を掴まれて、勢いのまま壁に押しつけられた。衝撃が骨に響くくらいに、勢いよく。この容赦のなさが、ひどく懐かしい。


「何してるのって、聞いてんのよ」


 仰いだユウラは、さらにもう一筋涙を零した。それが頬に至り顎から滴り落ちる頃にはもう何も分からなくなっていて、セトはすっかり空になってユウラを見つめていた。顔のすぐ下にある彼女の両手が、どちらもふるふると震えていることだけは、辛うじて認識できた。


「何とか言いなさい」


 ユウラの唇は確かに動いていて、瞳は確かにセトを見ている。出会ったときに一度見せて以来、二度と見せることがなかった涙を静かに流し続けながら、今ここにいるユウラがセトに向かって語り掛けているのだ。


 目で見ているこの姿を、耳で聞いているこの声を、肌で感じているこの熱を、信じてしまっていいのか、分からない。次に期待に裏切られたら、今度こそ帰って来れなくなる気がした。……ああ、でも、それでも。ちらついた希望を、何より求めていた未来を、手の届くところにある願望の体現を、みすみす見逃すことはついにできなかった。これが泡沫うたかたの夢や幻なら、もう壊れたっていい。そう思って、すがった。


「ユウラ」


 喉を通って出て来た声には、自分でもそうと分かるほど露骨に乞う響きがあった。内から皮膚を叩くように激しくなった鼓動を感じる。これほどに自分の心臓を意識したのは初めてかもしれない。


 紅色の瞳は、ひたすら、セトを映し続けている。


「何よ、セト」


 もう、何だって良かった。ただただ、この返事が聞きたかっただけだった。待ち望み、焦がれて、こいねがっていた。それが叶ったから、もう、何だって。


 襟を掴んでいる手を一つ、取った。まだ震えているその手を強く引く。ほとんど無意識だった。


 自分が何をしているかも分からないままに、胸に呼び込んだ温もりを、大事に、とても大事に、抱き留める。


 そうしたら、ようやく、本当に随分久しぶりに、満足に息が吸えた気がした。

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