【Ⅲ】—1 先

 その夢はいつも、白い天井を見つめているところから始まる。起き上がろうとして身体が満足に動かないのを知り、次に腕の呪封じに気づいて、最後にいつかと同じだと認識する。同じ夢を見過ぎて、その頃にはもう夢だと悟っている。


 無理に身体を起こすと、真っ白だったはずの正面の壁に、まず母の顔が映る。きっと、とても幼い頃のことだった。普段は快晴の空を映した湖面のような母の眼が、ほんの一瞬だけ、強い憎悪を過ぎらせる。どこまでも暗く、それでいて激しいその感情の名を、当時は解さなかった。ただ何かとても恐ろしいものを向けられたと察知はしていたらしく、怯えた自分を、母は途端に泣きそうな顔になって抱き上げるのだ。全て理解してからは、むしろその後繰り返された謝罪の声の記憶の方が痛かった。何も知らなかった自分は、どれだけあの人を傷つけてきただろう。


 左手側では、十五の頃、初めて人を殺したときの光景が再生されている。激戦地に派遣されて、黒軍と対峙して。


 ——お前の剣は、もうどこででも通用する。


 派遣直前、剣については初めてもらった師からの賛辞は、正しかった。身に染みついた剣術は己を守り、相手を殺した。それまでも怪我の治療のために何度も手を血で汚してきた。同じものであるはずなのに、人を殺して浴びる血は、ずっと熱く強く記憶に焼きついてしまった。多分、一生忘れることはないだろう。それから相手を殺さず制圧できる技術と度胸を手に入れるまで、たくさん殺した。そうなってからも、必要とあらば命を摘み取って来た。直前に手に掛けたリエタと準司令官二人を加えて、三十七人。激戦地への派遣期間や回数が少ないのと、癒し手ゆえに中衛を担当することが多かったために、軍人としてはそう多くない数で済んでいるかもしれない。だが、軍人でなければ即刻絞首台に上ることになる数であることは間違いない。そこに、力不足ゆえ救えなかった怪我人を加えると、何人になるだろう。間違いなく桁が変わるのが分かるから、数えられていなかった。左の壁の映像は、殺した三十七人の顔が列挙されて停止する。


 右手を見ると、屍の山の中に立ち尽くす自分がいる。周りを取り囲む映像の中で、唯一、全く覚えのない景色を見せ続けるのがこの面だ。しかし、山になった屍の皆が北支部の制服を着ているのに気づいたときの恐怖感は、どの面を見たときよりも重かった。これが、この後やってくる未来だとしたら。支部長を欠いた北支部を率いるのは、今は自分だ。下手な采配でこんな事態を招いてしまったら。見ていられなくて、いつもすぐに目を逸らすから、その後何が起こっているかは知らない。


 求めているものは背後にあると知っている。三方の景色に耐えかねて振り返ると、いつも北支部の仲間たちが微笑んで迎えてくれる。安堵から息をついて、無理やり立ち上がる。三歩行くまでは、いつも安らかでいられるのだが。


 ふいに歪んだ平面に血まみれのテイトが浮かび上がる。苦悶を堪えた表情で、彼は言う。


「一生、許さない」


 次に、虚ろになったユウラが現れる。彼女は口を開かないが、どこかから声がする。


「助けて、セト」


 二人の言葉が足に枷を嵌めて、いつもそこで動けなくなってしまう。助けたいと心から願っても、そのための知識も技量もない自分は、俯くことしかできない。足元にはベイデルハルクの顔が待っていて、あの地下で投げかけて来た言葉を繰り返す。


 ——君はこれまで憎むべき枠を取り壊せなかった。その君ごときが、今度に限って都合よく打ち勝てると思っているのか?


 逃げるように天井を仰げば、ランテがいる。ランテは純粋に尊敬と憧れの念を向けてくるだけだ。少し前までは、その視線に応えられるようにと思えていたのに、今はもう、あの目で見られることが苦痛でどうしようもなかった。ランテが見る自分と、本物の自分には差があり過ぎて、挫けてしまいそうになる。そう思う弱い自分を自覚すると、さらに許せなくなるのだ。


 眠りが浅いのだろう。いつも夢と現実の境界線は判然としない。初めの頃は——尋問室で目覚めて以来、内容が少しずつ更新されてはいくものの、ほぼ眠るたびに繰り返し見ている——まだ良かった。過呼吸状態で目覚めるから、苦しくて身体が碌に動かなかったので。しかし、夢に慣れ始めてしまった最近は、覚めていることも分からないまま、ネクタイに手をかけていたり、剣を引き抜いていたりする。一度、首筋に刃を立ててしまったときはぞっとした。自分の身などどうでもいいし、できるなら早く死んでしまえばいいと思ってはいるが、今死ねば北支部やユウラがどうなるかを考えると、身勝手な自殺で自分だけ楽な方に逃げてしまう事態になることが恐ろしくて堪らなかった。もとより大した人間ではなかったが、そこまで堕ち切りたくはなかった。


 今回も、いつ寝ていつ目覚めたか、セトは覚えていなかった。窓の前に立っていたらしいことに気づいて、自嘲を浮かべる。宛がわれた部屋からでは、身を投げたところで相当上手く落ちなければ死ねはしまい。


 空は明るく、日もまだ高いところで輝いていた。眠っていたのはごく短い時間だったようだ。一昨日も眠ったのにまた眠りに誘われてしまったのは、呪力を使い込んでしまったのが原因だろう。


 本当は眠りたくなどなかった。眠っても摩耗するだけだと知っている。しかし身体というものは不便に出来ていて、限界が来ると必ず睡眠を欲する。普段ならもう少し長く起きていられるが、毒の後遺症と日々の呪力の使い過ぎが災いして、あまり無理がきかなくなってしまっていた。


 シュアの治療を終えた後、ランテとデリヤと別れたセトは、門番たちに民たちへの対応について指示し、本部に戻って北の兵にシュアとキーダの傍につくよう頼んだ後、自室に戻っていた。本当なら蔵書室に行きたかったのだが、呪力切れによる頭痛が酷く——彼女の前にも数人分治療していたためだ——また倒れるわけにもいかないと判断した。


『洗礼による自我の喪失は定められた未来であるが、日が浅い場合、稀に被洗礼者が自発的行動を見せることがある』


 何十冊も読んでやっと見つけたその一節は、わずかな光明と多大なる焦燥をセトに与えた。洗礼が時間を重ねることで強固なものになるとするなら、今ならユウラを元に戻せるかもしれない。しかし今なお——空き時間のほとんどを捧げてなお——ユウラを救う手立ては見つかっていない現状を思うと、むしろ絶望感が強くなってくる。急がなくてはならない。それなのにやるべきことや考えることが無限に思われるほど募っている。焦りが思考を害する悪循環に陥っているが、それをどうすることもできないでいる。


 セトは窓を閉めて、カーテンを引いた。そこで一息ついて、帯びたままだった剣を外し、ベッドに腰かける。布団は前に休んだ後直したままだったから、床か机かどこかで寝ていたのだろうか。部屋の扉を閉めたところで、セトの記憶は寸断されている。


 夕方には支部から使者が来る。それまでにはまだ少々時間があるはずだ。先刻聞いた情報をどう扱うか、まずはそこから考えなければならない。


 ——炎の祠を攻めるクレイド聖者には証持ちの兵を、雷の祠を攻めるレイグ聖者には司令官らを、風の祠を攻めるソニモ聖者には光の子らをそれぞれつけるようです。


 北にとっての最善は、おそらく聞かなかったことにしてしまうことだ。モナーダに問うたが、ソニモは聖者の中では戦いやすい相手になるらしく、実力でもリエタと似たようなものだという話だから、どうにかなる。光の子という存在についてはまだ分からないことが多いが、一対複数でかかるよう徹底すれば、多少の損害は出しても祠を守り抜ける。やはり支部を思うのなら、このまま黙しておくのがいい。しかし他の二つは——特にクレイドと刃を交えることになる中央軍は——このままだと壊滅しかねない。


 ——支部を回すだけなら、他の者でもできるだろう。だが今は、それだけしていればいいというわけではない……分かるな?


 蘇った声が、耳の内で反響する。では、どうすればいいですか。縋るように発した問いに答える声は当然、ない。


 超越の呪への対抗策のことや、ユウラを元に戻すことについてもそうだが、結論が出ない問いを繰り返していると、いつもなぜ解決できないのかというところに思考が向いていく。


 自分にもっと能力があれば。武の才でも呪の才でも知力でも何でも、何かもう少し足しになるものがあれば、この状況を打破できたかもしれない。最後にはいつもそこに行きついて、自嘲を広げて終わる。発展性のないことを考えていても仕方がない。分かっていた。


 うんざりしながら立ち上がって——立ち上がろうとして、セトはふらついた。なんてことはなくそのままベッドに戻るだけで済んだが、気持ちを切り替えようとした動作が阻害されたことで、“その先”を考えてしまった。


 誓えば、よいのではないか?

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