【Ⅳ】 和解
「集中して、ランテ」
輪郭をなぞる汗に気を取られた。右手に集まりかけていた力が霧散する。開いた口から、乱れた息が漏れてきた。
「ごめん、テイト……また失敗しちゃった」
ランテの目の前には今、壊れたガラスの器があった。食堂で欠けた器をもらってきて、時の呪の会得のために破壊したものだ。まず小さなものから始めて、徐々に大きなものにしていくつもりだったが、今のランテには片手に載るくらいのこの器すら直せない。
「ランテが一度時の呪を使っていたのを見たけど、かなりの難度の呪だと感じたし、無理もないよ。でも、一度あの土壇場で使えていたんだから、きっとそう時間はかからないと思う。辛抱強くいこう」
王都を出現させる場所を探しに行ったミゼに代わって、呪を教えてくれているのはテイトだった。本当は彼とて【超越の呪】の研究に向かいたいのだろうが、ランテのために時間を割いてくれている。時の呪を教えるテイトは、普段呪を教えるときの彼と比較すると、とても優しかった。ランテの肩にかかる重圧を慮ってくれているのだろう。
「ランテ。見ていて思うんだけど、時の呪が難しい理由の一つが呪力消費が激しい点だと思う。僕はずっと、これまでランテの呪力は常人よりもとても多いと思っていたんだけど、それは始まりの女神の力も加算されていたからそう感じられていただけだった。ランテ個人の呪力は今のところ常人並みで……とはいっても、ランテの呪の熟練度を思えばかなり多い方なんだけど、並の呪使いと同じくらいなんだ。時の呪は多分、女神の力を借りないで、ランテ自身の呪力を使わないと発動できない。ランテは以前と違って、二つの呪力の使い分けを随分上手にやっているけど、力が足りないと感じるとつい女神の力を頼ってしまうところがある。上手くいかないのは、そのせいじゃないかな」
テイトは、傍にあった紙に手を伸ばした。人型が書かれて、頭から五分の一ほどのところで横一線が引かれる。
「今のランテと女神の呪力比を表すと、こう。圧倒的に女神の呪力の方が多い状態なんだ。それで、ランテの呪力が使いこまれようとしたときに、多分無意識に制御して女神の力を引っ張るようになってる。おそらくだけど、ランテの呪力が底を突けばランテの意識が消えて、女神に身体を操作される状態になるんじゃないかな。ほら、前に王都近くでベイデルハルクと戦ったときみたいに。だからあれを避けようとして、自然とそうしてるんだろうけど」
上から五分の一のところが、ぐるぐると囲われる。
「ランテ、今のランテに必要なのはランテ自身の呪力を増やすことだと思う。でも呪力を増やすのって、簡単に出来ることじゃない。何年もかけて少しずつ地道に増やしていくものなんだ。ただ、この状況下でそんな悠長なことは言ってられないのも分かるから」
苦笑を浮かべて、テイトは続けた。
「セト流でいこう。毎日呪力を空になるまで使うやり方。お勧めはできないけど、今回は仕方ないからね。その際ランテの呪力だけを使い込むと暴走が起こるから、女神の力も使うようにして……うん、時間がもったいないから、そっちの方は僕が【強要の呪】で適当に上級呪でも何度か使って、いい量に調整するから。かなり疲れると思うけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「それじゃ、呪の訓練は毎日就寝前にしようか。僕が来れないときは、ルノアさんに——忙しいだろうけど、もし彼女がいたら同じことを頼んでみて」
「分かった」
「じゃあ、早速——」
テイトの言葉が、扉が叩かれる音で断ち切られた。もう多くの者が眠っているような時間だが。ランテが立ち上がって扉を開けてみると、デリヤが視線を合わせようともしないで佇んでいた。
「起きてる人間を探してたんだ。灯が漏れていたから」
「うん、起きてたよ。人手がいる感じ?」
「とにかく来なよ。見た方が早い」
「今、テイトも一緒にいるんだけど」
「……まあ、来てもいいんじゃないかい」
デリヤは既に北の制服ではなくなっていたが、本部内の北の宿舎を歩いてランテを訪ねて来たのを見るに、北支部に関わることにそれほど抵抗はなくなっているように見える。ランテにはそれが少し嬉しかった。
「テイト、だって」
「分かった。行こう」
にこにこしながらテイトを振り返ったランテだったが、テイトがやや深刻そうな面持ちをしているのに気づいて、笑みを引っ込めた。考えてみれば、デリヤが自らランテたちを尋ねてくるなんて、よほどのことがあったに違いない。
先を行くデリヤは早足だ。余計に不安が募る。どこに向かっているのか分からないままついていくと、蔵書室に到着した。廊下は明るかったが、もう深夜帯になろうとしている時間ゆえか、蔵書室内部は暗い。傍のテーブルに置いてあった小型の灯りを手に取って、デリヤは背丈のある本棚が並ぶ部屋をどんどん奥へ奥へと進んでいった。
しばらく行くと、ほのかに明るいところがあるのが見えてきた。デリヤと同じように、こんな時間に灯りを手にここまで来た者がいるのだろうか。デリヤはそこを目指していたらしく、一直線に進んでいく。
「なんだ、起きてたのかい」
灯りがあると思しき筋に入った直後、呆れが混じった声でデリヤが言う。彼の背に邪魔されて光源にいる人物が視認できなかったので、半歩横に逸れた。「あ」と声が漏れる。
「セト」
筋の奥、突き当たりにある本棚に背を預けるようにして座り込んだセトの姿が視界に入る。傍に積んであった本が雪崩を起こしていたのに今気づいたらしく、苦笑いしていた。
「……どうしたんだ? 三人揃って」
ちらりとデリヤに目配せしてから、ランテやテイトを見遣って彼は言う。苛ついたような溜息が前から聞こえてきた。
「何で僕が君に気を遣わなきゃならないんだい」
デリヤは、つかつか詰め寄るように歩んでいく。事態が飲み込めないままランテも続いた。セトのすぐ傍まで来たかと思ったとき、急に手が乱暴に引っ張られる。
「わっ」
完全に不意をつかれて、ランテは足を踏み外した。身体が浮いて、これは転ぶなと思ったが、床にぶつかる前に身体が支えられる。セトだ。
「大丈夫か?」
「うん……大丈夫、だけど……」
おそらく黙っていて欲しいのだろうと悟りはしたが、しかし、ランテはその意を酌むのをやめることにした。
「セト、まだ熱がすごい」
セトは苦笑を深めた。彼はそのままデリヤに視線を移す。ランテも、立ち上がってからそちらを見た。とても不機嫌そうなしかめ面が目に入る。
「心配してくれたんだな」
「……無様な姿を晒してやろうと思っただけだよ」
そっぽを向いたデリヤがそう言った後、沈黙が流れる。セトがおもむろに立ち上がった。
「読んでるうちに
「転寝? 倒れてたんだよ、そこに」
デリヤが後ろを指差して、咎めるように言う。
「支部長が危篤でユウラが洗礼。君が休んではいられない状態なんだろうけど、無茶をするならもっと上手くやりなよ。北の人間に見つかるならまだいい。他の人間に見つかったらどうなるか、分からないくらい馬鹿になったのかい?」
口を噤んで、セトは少しの間床を視線でなぞった。
「……そうだな。多分呪力切れなだけなんだけど、そういうところを他支部の人間に見せるのは確かにまずい。お前の言う通りだ、デリヤ。配慮ありがとな」
苛立たしさを増した溜息が、更に重ねられる。
「僕に、言うべきことがあるんじゃないかい?」
「……こんな場でいいなら」
言って、セトは頭を下げた。
「エルティが黒軍の襲撃を受けた際、力になってくれたことを聞いた。それから、ランテの傍にいてくれたことも……本当に、とても感謝してる。ありがとう、デリヤ」
「そんなことじゃない」
デリヤはますます苛立っているようだった。頭を上げたセトは、少々戸惑いが見える目をデリヤに向ける。
「分からないのかい?」
「……悪い」
「今、君に……北に必要なのはなんだい?」
少しの間考えていたセトの瞳から、徐々に戸惑いが消えていくのが分かった。デリヤの真意に気づいたのだろうか。問いに、一語ずつ丁寧に言葉を選びながら応じる。
「戦力、だな。腕が立つと助かるし、信頼できる人間だとよりありがたい」
「それで?」
黙って、セトはデリヤを見つめた。デリヤの方も視線を返し続ける。ランテも固唾を飲んで二人を見守った。
「デリヤ。北に戻ってもらえないか?」
多少言いにくそうにだが、セトがついに切り出した。デリヤはしばらくの間答えなかったが、溜息に続ける形でようやく言葉を発する。
「代理とは言え、君に支部の長が務まるか不安だ。僕の追放のとき、君が支部長だったならあのときエルティは滅んでいただろうね。今
デリヤの瞳が動かされて、ランテに向けられた。
「ランテよりは、随分ましだけど」
口許が緩んだのを自覚した。こちらが緩ませれば緩ませるほど、デリヤの方は眉間に皺が寄っていくようだ。
「なんだい」
「名前、初めて読んでくれた気がする」
「……そんなくだらないことを、いちいち気にしないでくれるかな」
デリヤが本当に不機嫌なときとは違う語調だったから、ランテは変わらず微笑んでいた。デリヤが北に戻りそうな雰囲気になっているのも、とても嬉しい。何度目になるか分からない溜息をついて、デリヤはセトに目を戻した。
「ちょうど働き口を探していたから、今回は引き受けてあげるよ。いつまでいるかは僕が決めるし、君のやり方が気に食わなければすぐに去る」
「……ああ」
一方セトの方は、終始申し訳なさそうな顔をし続けていた。ここで少し迷って、しかし結局言うことにしたらしく、意を決したように顔を上げた。
「追放のこともだし、今回のことも……支部の都合でお前を振り回して、本当にごめん」
ランテが読み取れなかったのでなければ、デリヤは無表情でいるように見えた。しばらくセトを見据え続けて、後に静かにこう言った。
「前にも言った通り、僕の生き方は僕のものだ。君に謝られる筋合いはない」
聞き届けると、セトは目を伏せて微かに頷いた。彼の方にはまだ罪悪感が色濃く残っていたけれど、デリヤは濁りのない表情をしていて、だからランテには、この件についてはそれほど心配の念は湧いてこなかった。
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